2022年3月3日木曜日

三月三日

今日は、三月三日で桃の節句ですね。
旧暦では4月3日のようなので
桃の木を見るとチョコンと顔を出しているだけでした(*^^*)

中学入試で出題されるのですね…
ひな祭りの成り立ち」(NHK 3月2日)
高梨沙羅 W杯復帰戦で優勝 今シーズン2勝目 通算勝利「62」に〟(NHK)
高梨選手は「予想外の結果でした。緊張しましたが優勝できてうれしい」

よかったなぁ(*^^*)

パラリンピック ウクライナ選手団 北京に到着」(NHK 3月2日)
ロシアの攻撃によって国民の中で最も弱い立場にある障害者がこの戦争の最大の人質であり、みずからの命と健康を守ることができない

平和が訪れたウクライナへ帰国できますように!
ロシア ウクライナ侵攻反対のデモで人々が連行される」(NHK 3月3日)
ロシアでウクライナ侵攻反対のデモを行うのは、命がけだと思う。
ロシア軍のウクライナ侵略とロシアの人々を一緒くたにする人がいる。

ナスチャさんのTwitterに(2月28日)

ここ数日、すごく落ち込んでいました。
それは、自分の好きな自分の母国ロシアが、私の父の母国ウクライナを侵略してしまったこともですが、
それに加えて「ロシア人」というだけで、国籍によるヘイトを受けたことも…です。
今日から前を向いて頑張ります。
ロシア食品専門店 “VictoriaShop”のTwitterに(3月2日)

当店をご利用のお客様へ
(画像に書かれていた文面を転記します)

いつもご利用ありがとうございます。

当店で起きた悲しい出来事についてお話させていただきます。
2月28日の夕方店舗の看板が壊され、割られてしまいました。
ロシアの食品を扱っているという理由からでしょうか。
店名のせいでしょうか…。
実は当店代表はウクライナ人、スタッフもウクライナ人、ウズベク人、日本人です。
そのうちの5人はシングルマザーとして家族の生活を支えるために働いています。
私たちがどんな国の出身者でも、お店と政治につながりはありません。
私たちは日本とウクライナ、ロシア、その他の国々との懸け橋になりたいという気持ちで働いています。

早く両国に平和が訪れて、お互いの国が仲良くなることを心から望んでいます。
そして、祖国の人々に笑顔が戻ることを願っています。


このTwitterを読んだ方たちからだと思う。

何人ものお客様から花束をいただき、大変感激しております。
ご来店くださるお客様の暖かいお言葉や、ご支援の数々が私たちスタッフの励みになります。
本当にありがとうございます。

花束の画像
奈良 水平社博物館 リニューアルオープン 展示内容を一新」(関西NHK)
初日の3日は、人権問題を学んできたという地元の小学生が訪れています。
一方、大阪は、橋下知事・市長の時代に「リバティおおさか(大阪人権博物館)」への攻撃を始め
土地の明け渡しを求めたために裁判となり、5年間の裁判をへて撤去するという事態になりました。

リバティおおさか裁判に関する和解についての共同声明 」

大阪では、人権を学ぶ場を奪っただけでなく、ロシアのウクライナ侵略を利用して
維新「非核三原則や“核共有”緊急事態を想定した議論すべき」〟(NHK 3月2日)

日本被団協 非核三原則見直しなどめぐる与野党発言を強く批判」(広島NHK 3月2日)
ゆらぐ地主の座
 水平社の創立


 こうしたなかで、とくに注目に値するのは、ちょうど同じ時期に本格化した部落解放運動が、農民運動としても大きな活動をしめしたことであろう。
奈良県では、水平社(すいへいしゃ)創立の中心となった西光万吉(さいこうまんきち)・阪本清一郎(さかもとせいいちろう)・駒井喜作(こまいきさく)らが日農組織の拡大にも努力していたし、三重県では、水平社の上田音市(うえだおといち)が日農創立大会に参加、農民運動の指導者となり、大正13年の日農三重県連創立にあたっては会長の地位につくなどの活動をしめしていた。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
 部落解放運動の中核として、全国水平社が創立されたのは、日本農民組合の創立にさき立つこと一ヵ月、大正11年3月3日のことであった。
この日京都市岡崎(おかざき)公園に、近畿地方をはじめ岡山・広島・東京・福岡など全国各地の被差別部落から二千人の代表が集まり、人間より一段と低い獣(けだもの)のような存在としていやしめられ、人としてのつきあいを拒否されてきた部落民が、解放の叫びをあげたのである。

(「全国水平社創立の地」京都市)
 被差別部落にたいする差別は、法律的には明治4年(1871)のいわゆる「穢多(えた)解放令」でなくなっているはずであったが、実際にはあらゆる面での差別がつづけられ、部落民は零細な皮革職人や小作農として社会の最下層に沈められていた。
小作人のばあいでも、一般農民よりも高い差別的小作料を払わせられるのがふつであった。
すでに明治後期から、上層の部落民が部落改善・風俗改良をとなえて修養団体をつくったり、政府の支持をうけた融和事業をおこなわれていたが、とくに米騒動で部落民が大挙して蜂起したことにおどろいた政府は、大正9年度から部落改善費の支出をはじめた。
だが、こうしたやり方で差別がなくなるわけはなかった。
 しかし時代の動きは被差別部落をもゆさぶった。
部落のなかでも職人たちの争議や小作争議が高まり、上からの融和政策に反対し、自主的な解放を求める動きを各地にうみだしていた。
ロシア革命や民族自決の主張、朝鮮の独立運動などもかれらを刺激した。
そしてこうしたなかで大正10年7月の『解放』に発表された佐野学(さのまなぶ)の「特殊部落解放論」が、部落解放運動に大きな力を与えることになった。
 この論文で佐野は、部落解放のためにはまず部落民自身が団結し、集団行動で不当な社会的地位の廃止を要求しなければならないこと、経済的弱者であり被搾取者である労働者階級とともに、やはり「搾取者あく迫害者なき善き社会」をめざして「連帯的運動を為(な)す必要」がることを強調した。
これは部落解放運動に新しい方向をさししめした。
また佐野が「特殊部落賤視(せんし)の感情は全く空虚な歴史的伝統に過ぎぬ」と述べて、差別の本質を「伝統的観念」にもとめたことは、初期水平社の運動に大きな影響を与えた。

(『日本社会史序論』佐野学著 同人社書店 大正11年 国立国会図書館)
 奈良県南葛城郡(みなみかつらぎぐん)掖上(わきがみ)村柏原(かしはら)の被差別部落の青年、西光・阪本・駒井らは、すでに日本社会主義同盟に参加し改革の方向を求めていたが、この論文に力を得て、東京の平野小剣(ひらのこけん)、京都の南梅吉(みなみうめきち)らと連絡して全国水平社創立を実現したのである。
大会では西光万吉の起草した行動的な「全国水平社宣言」が採択された。
「万国のプロレタリアート団結せよ」に学んで、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」の呼びかけではじまる宣言は、つぎのように述べている。
 「兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰(かつごう)者であり、実行者であった。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剝(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臓を裂く代償として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪われた夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわろとする時代におうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が来たのだ」

(「全国水平社 綱領と宣言」 水平社博物館)
 大会は具体的な行動について、「我々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示した時は徹底的糺弾(きゅうだん)をなす」と決議し、差別糾弾戦術を打ち出した。
糺弾というのは、差別や侮辱をおこなった者の家に大挙しておしかけて謝罪を要求し、謝罪の事実を公表させるという形でおこなわれた。
社会に差別が根づよければ、それだけ徹底的な糺弾闘争がとられた。
このことは被差別部落民の自覚を高め、団結をつよめる役割をはたしたが、偏見からぬけでることのできない一般民衆には、水平社への恐怖と警戒心とをつよくもたせることになった。
 ここでは、差別を観念とみ、「徹底的糺弾」でその観念をなくせば差別もなくなるという考えが基礎になていたが、これにたいして被差別部落にたいする差別は、労働者や農民の下にいっそう低い階層をおいておくことが、資本主義にとって利益だから温存されているのであり、貧富の差からくる差別などあらゆる差別がなくならなければ、部落にたいする差別もなくならないのだ、という反省がつよまっていった。
 こうした方向は、大正12年(1923)高橋貞樹(たかはしさだき)の指導下に結成された全国水平社青年同盟によってすすめられた。
高橋らは、部落解放運動を階級闘争の一環にくみこむことに努力した。
この方向は、大正14年の第4回大会で水平社の主流となった。
翌年の第5回大会はその綱領を改正して、「我等は賤視観念の存在理由を識(し)るが故に明確なる階級意識の上にその運動を進展せしむ」という一項を加えた。
糺弾闘争も特権的な華族制度への攻撃、軍隊・役所・裁判所など権力機構の差別への糺弾に重点が移されていった。
 農民運動のばあいでも、水平社の運動と表裏一体のものとして出発した三重県で典型的にみられたように、運動のなかに徹底的糺弾の方法がとりいれられ、はげしい闘争力がしめされたが、反面、運動を一般農民に近よりがたいものに感じさせ、農民運動は被差別部落民のすることだという地主や官憲側の宣伝もあって、運動の拡大をはばむ側面もみられた。
そしてここでもこうした欠陥を反省して、水平社運動を無産階級運動の一部としてゆくための努力がつづけられることになる。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)

世良田村事件(1925年)」(部落解放・人権研究所)

荊冠旗(けいかんき)」(部落解放・人権研究所)