2022年3月25日金曜日

冷たいような、暖かいような…

風は冷たかったけど
日向はポカポカしていました。
タンポポが咲いていました。
総苞(そうほう)がまっすぐなので在来種(カンサイタンポポ)のようです。

タンポポ 外来種と在来種」(中学)

Eテレ 0655で昨日、「仮説小学生」で
「タンポポの茎、どうしてストローみたいにスカスカなっとんのか?」事件が発生していました(^_-)
そして今日、「1分解説」で同じ重さのアルミ棒とアルミパイプに
同じ重さのおもりをぶらさげて実験してみると…
ロシアの国民は情報を操作されているので真実を知ることができない。

ロシア紙、兵士約1万人死亡の記述削除「ハッカーが偽情報」〟(REUTERS 3月23日)
ロシア政府は3月2日に498人の兵士が死亡し、1597人が負傷したと報告して以来、死傷者数を更新していない。

 「ロシア人ジャーナリスト、ロシア軍の砲撃で死亡 ウクライナ首都で取材中」(BBCNEWS 3月24日)

今行われているのは「プーチンの戦争
ウクライナとロシア双方に家族や友人がいる人たちもいるだろう。
真実を知ったらどんなに悲しく辛い思いをするだろうか。
ロシアの歴史に暗い影を落としてしまっている。
内田莉莎子さんが訳された『ロシアの昔話』から「訳者あとがき」と

京ものがたり 作家・スター35人が愛した京都ゆかりの地』より、
加藤登紀子さんの「父のロシア料理店」を転記します( ..)φ
 訳者あとがき

 わたくしが昔から大切にしている二冊のロシア民話集の原書があります。
一冊はラチョフが絵をつけている大型本。
活字も大きく、まさに小さい子どものための愛蔵版といった本で、民族衣装をおしゃれに着こんだラチョフのきつねやくまたちを、お話とともにたっぷり楽しめます。
 もう一冊は、ずっしりと手に重く、『おおきなかぶ』から魔法昔話、英雄伝説、笑い話まで、百話以上がぎっしりつまっています。
そして、装丁、さし絵がタチヤーナ・マブリナ、わたくしがはじめて出会ったマブリナでした。
マブリナの絵は、色彩といい筆致といい驚くほど自由奔放、モダーンで、エネルギッシュで、しかもロシアそのものという感じでした。
折りあるごとに人に見せ、折あるごとに手にとって楽しんできた本でした。
(『ロシアの昔話』内田莉莎子訳 福音館書店 2002年)
 その大好きなマブリナの絵がふんだいんに入ったロシアの昔話を、自分の翻訳で日本の読者のみなさんに紹介できるなんて、夢のようでうれしさいっぱいです。
 わたくしが仕事して最初に出会ったロシアの昔話は、『おおきなかぶ』でした。
わたくしにとってそれは、とても短くて、とても大きな仕事でした。
その後、ソ連や東欧などいろいろな国の昔話を訳していくうちに、創作とは一味ちがう昔話のおもしろさにひきこまれていきました。
中でもロシアの昔話には格別の魅力があります。
 動物もの、風刺ものなど、昔話にもいろいろなジャンルがありますが、話のおもしろさを堪能できるのは、なんといっても魔法昔話でしょう。
『イワン王子とはいいろおおかみ』や『かえるの王女』などは、日本でもよく知られていますが、『牛の子イワン』や『どこかしらんが、そこへ行け、なんかしらんが、それをもってこい!』などでも、魔法昔話の醍醐味を満喫していただけるでしょう。
 ロシアの昔話を訳す場合、どの再話をえらぶかがとても大事です。
グリム兄弟にならってロシアの昔話を体系的に集大成したアレクサンドル・アファナーシエフ、『苦悩の中を行く』の作者アレクセイ・トルストイ、お話のおばさんとしても子どもたちに人気のあったイリーナ・カルナウーホワ、その他多くのすぐれた再話者の作品の中から、ふさわしいものをえらばなくてはいけません。
同じ話が再話者によって大きくちがうことがよくあります。
 たとえば、トルストイの再話では、三人兄弟の末っ子のエメーリャが主人公の『かますのいいつけ』が、アファナーシエフでは貧しいお百姓が主人公で、生命(いのち)を助けたかますが望みをかなえてくれるところは同じでも、ずっと複雑で大人むきの話になっています。
とても読みごたえのある話なのですが、子どもたちによんでもらうのはむずかしいのです。
 アファナーシエフの昔話は語り手から聞きとったまま、あまり手をいれていないところに意義があり、対照的にカルナウーホワの再話は、子どもたちにわかりやすい昔話をめざしていますし、アレクセイ・トルストイの再話は文学性の高いことできわだっています。
 わたくしは、以前は、すっきりとわかりやすいカルナウーホワ志向が強かったのに、最近は、荒けずりで飛躍が目立つが、そのぶんロシアの昔話そのものと思えるアファナーシエフにひかれるようになりました。
トルストイの再話はすばらしいのですが、短い動物昔話などはロシア語の完成度の高さ故に、翻訳が絶望的に困難になるということもあります。
平たくいえば、訳すと味もそっけもなくなってしまう場合がままあるのです。
 たとえば、『うさぎのなみだ』。
この話のトルストイ版『きつねとうさぎ』は、「あるところに、きつねとうさぎがすんでいました。きつねのいえは、こおりのいえ、うさぎのいえは、かのかわのいえでした。……」という書き出しで、ロシア語の原文は詩的で美しいのですが、日本語ではその美しさを伝えにくくて、わたくしは、ソコロフ=ミキトフのテキストをえらびました。
「ぬれたしっぽがかわくまで。」と哀願して、うさぎの家に入りこんだきつねが、「腰かけにどっかりすわって、部屋いっぱいに、しっぽをひろげました。」というところが、とても気にいっています。
 この本には、新しく訳した十五編の話に、『おおきなかぶ』や『マーシャとくま』のように絵本として訳したもの、さまざまな機会に訳したものに手を加えてまとめました。
まだまだ紹介したいおもしろい昔話がロシアには山ほどあるので、いつか機会があればぜひ訳してみたいものです。
 最後に、再話者のリストをつけましたが、どうしても再話者不明のものが二点あります。
まず、『雪むすめ』。
絵本のために、かなり自由に訳したのですが、原典不明です。
もう一点は、『ねことおんどり』。
テキストはあるのですが1950年代のもので、再話者の名前がありません。
 何はともあれ、ロシアの昔話をマブリナさんの絵とともに、たっぷり楽しんでくださいますように。
(『ロシアの昔話』内田莉莎子訳 福音館書店 2002年)
 加藤登紀子
    父のロシア料理店
 百万本のバラ 国境なき愛


 「ここがふるさとだという思いが、あるんです」
 旧満州(中国東北部)、ハルビン生まれの歌手加藤登紀子(70)をいま京都と強く結びつけているのは、22年前に他界した父幸四郎が祇園に残したロシアレストランキエフだ。
京都出身の幸四郎はハルビンでロシア語を学んだ。
関東軍や満鉄(南満州鉄道)でロシア人の人事などに携わり、終戦後は東京でロシア料理店を開き、成功する。
1972(昭和47)年、ソ連(当時)の古都キエフ市が京都市と姉妹都市になったのをきっかけに幸四郎は東京の店を妻に任せ、単身で京都に戻り新しい店を開いた。
登紀子は「家族はどちらかというと反対でした」。
だが父が京都の店になぜこだわったか、今ではよくわかる。
家族とともに2歳のとき引き揚げた登紀子は、中学生までを京都で過ごした。
「『故郷のない人間として生きるのは一番悲しいこと』。父はそう言っていました。故郷をなくした私たちに京都を残したかったのでしょう」。
キエフ開店の年、登紀子は学生運動の指導者として服役していた藤本敏夫と獄中結婚。
出産ため休業し翌年の復帰の直前、初めて人前で歌ったのがキエフのステージだった。
(『京ものがたり』朝日文庫 2015年)
 〽百万本のバラの花を あなたにあなたにあげる

 登紀子は今、年に2度キエフでディナーショーを開く。
数多いレパートリーから、旧ソ連の大ヒット曲に自ら訳詞をつけた「百万本のバラ」は、ここでは必須の曲だ。
グルジアの貧乏画家と女優の悲恋をつづる歌詞はロシアの反体制詩人の作。
ラトビア出身の人気作曲家が曲をつけ、ソ連の国民的歌手と言われたアーラ・プガチョワが歌った。
ペレストロイカ直前の82年、多様な国と民族とが生んだヒット曲だ。
だが第2次正解大戦中にソ連に統合され、「ふるさと」を奪われていたラトビア人には複雑だ。
ロシア人の関わった「モスクワ発の流行歌」を歓迎しない向きもあったという。
「革命は国境のない世界を目指したはず。なのに、民族間の対立を強めてしまった」と登紀子は嘆く。
「私が歌うときは、どの国とも同じように愛を持って向き合っていきたいの。ハルビンは大陸の東の端。私の故郷はユーラシアなんだから」。
来年は、ラトビアからオーケストラを招いての「百万本のバラコンサート」を全国で開く。
 そもそも屋号の「キエフ」。
ソ連ではすでになく、現在はウクライナの首都としてロシアとは厳しい対立のただ中だ。
「ロシアレストラン」が名乗るのは奇異でもある。
だが登紀子の兄でキエフの現社長、幹雄(76)は言う。
「店名は変えません。ロシア人のウクライナ人も仲良くやってほしいから。切実な願いです」
    (2014年11月4日)
(『京ものがたり』朝日文庫 2015年)
 今朝の父の一枚です(^^)v
もうじき花が咲くハナズオウ(花蘇芳)にシジュウカラがやってきました。

気になるのが明日の天気
あす 非常に激しい雨のおそれ 暴風や高波などに警戒を」(NHK)
発病前は山を歩くのを楽しみにしていました。
体力に自信がなかったので、一人で山歩(さんぽ)していました。
信州方面は夏に登っていましたが、昔、参考にしていた本より

  春のあらし

 見ごろになったサクラの花を、一日にして散らしてしまうような春のあらしは、「花散らし」などとも呼ばれ聞きなれた用語になっている。
日本海を発達しながら進む低気圧によって強い南風が吹く場合に多い。
時には雨を伴うこともある。
火災、雪どけ、なだれ、山岳遭難などの災害をひき起こすので警戒しなくてはならない。
また、暖気のあとに寒冷気団の流入もよくあり、霜や結露の害も心配しなくてはならない。
 昭和44年4月4日には、日本海側に発達した低気圧が通り、長野で最大風速が西南西の13.0メートル瞬間では19.6メートルを観測した。
なお松本空港では瞬間で22メートルに達した。
そして最高気温は各地で10度以上となり、長野では16度まで上昇した。
しかし低気圧が通ったあと、4月には稀な1060ミリバールという真冬のようなシベリア高気圧から冷たい風が吹き出し、長野、松本、諏訪、飯田での最低気温は、7日まで氷点下に下がり、5日には降雪を観測している。
軽井沢に至っては、6日に最低気温が氷点下7.4度と、この月の最低気温を示し、12日まで最低気温は氷点下という寒暖の差が激しい天気となった。
 この春の南の強風が、南部や西部の高い山を乗り越えて、信州にやってくると、フェーン現象を起こして、高温と乾燥をもたらすことがある。
4月になって、30度以上の高い気温をもたらす場合は、ほとんどこのフェーン現象のために起こっている。
 春の南の強風は大火の原因となることが多い。
明治45年4月22日の松本、昭和22年4月20日の飯田の大火は、いずれも発達した低気圧が、日本海を東進したとき発生している。
なお、暴風日数(日最大風速が10メートル以上)は、各地とも3~4月が年間のうち最も多く、約三分の一を占めている。
(『信州の天気』長野県天文気象教育研究会 信濃毎日新聞社 昭和53年)