2022年3月4日金曜日

春らしい朝だなぁ

穏やかな春らしい朝で
昨日は、チョコンと顔を出していた春黄金花(はるこがねばな)が青空を黄色く染めていました。
これも計画されていた作戦なんだろうな…
ウクライナ 原発 “ロシア軍の攻撃受け火災”」(NHK)

首相が「敵基地攻撃能力」なんていう言葉を国会などで発言していました。

岸田首相、「敵基地攻撃」の名称変更を検討〟(産経新聞  2月18日)

プーチン大統領の
プーチン大統領 抑止力を特別警戒態勢に引き上げるよう命じる」(NHK 2月28日)
という命令を受けて
ウクライナ侵攻“「核共有」議論開始を” 維新が政府に提言〟(NHK 3月3日)
と、勇ましいことを言い出しましたが、その前に日本の原発を守ることができるのでしょうかね。
テロ対策施設 未完成で」(読売新聞 2021年11月24日)
鬼滅、ワンピース、ブルーハーツに学ぶ 水平社博物館リニューアル」(朝日新聞 3月1日)
来館者の4分の1が小中学生、高校生だといいます。

水平社博物館駒井忠之館長の言葉に
人権とは「みんなが楽しく生きるためのもの」です。
博物館がそれを学ぶきっかけになればよいなと思います。


人権を学ぶことは平和について学ぶことでもあります。
大阪にも人権を学ぶ場として「リバティおおさか(大阪人権博物館)」がありました。
昨日も言ったけど橋下徹氏や松井市長、吉村知事らによって閉館に追い込まれました。
彼らにとって人権を学ぶ場が目障りで邪魔だったのでしょう。
それが「核共有」発言にも表れていると思います。

発病前に訪ねた水平社博物館に植木等さんの著書が展示されていました。
朝日新聞社から出版されたあと、品切れになっていましたが、ちくま文庫から復刊しました。
真宗僧徹誠、部落解放運動にとびこむ
 部落差別に憤慨する


 ある日、おやじが、未開放部落で税金を集めている役場の税務係を見かけた。
税務係は住民を呼び捨てにしていた。
実に、えらそうだ。
他の部落の人に対する態度とはまるで違う。
おやじは、その役人を呼びとめて「君、君。どこへ行っても君はそういう態度なのか」と聞いた。
役人は「いや、門構えの家へ行けば、自然に態度は変わります」という。
「門構えの家とここと、どこが違うんだ。君は、ここが部落だと知っているのか」と問いつめたら、役人は「知っています」ときた。
「そうか、それで分かった。それじゃ役場へ行こう」と、おやじは部落の人たちと連れ立って役場へ行った。
そして、おやじは町長に「こんな人間を寄越すなら、税金を払わない運動をやるぞ」といった。
(『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』植木等 構成・北畠清康 ちくま文庫 2018年)
 これがきっかけになって、おやじは解放運動に入って行ったのだと思う。
昭和3年ごろのことだ。
当時、おやじは「自分は部落民ではない、と思うことが、すでに相手を差別していることだ」と考えるようになっていた。
 かくて解放運動に関係するようになったおやじが、このとき生涯の友を得た。
食肉店を営む西中六松である。
この六松は、滅法、気性が激しく、もともとは非行少年ともいうべき人物だった。
ところがおやじと知りあってからは大いに感化され、それまでは心の底に沈んでいた正義感、闘志が人間解放に向けて爆発した。
悪に強いは善にも、というわけだ。
 昭和4年春、小俣(おばた)町で町議の改選があった。
六松が立候補しようと思ったが、立候補するには半年ほど若すぎた。
そこで六松は、自分の兄に立候補してもらい、おやじと二人で応援演説をぶち回った。
投票の結果は、六松の兄の落選だった。
 誰が当選した、誰が落選したと、選挙後の興奮がまださめやらぬ時、元県議が酒を飲んで未開放部落を差別する言葉を吐いた。
それを人伝てに聞いた六松が腹を立てて、おやじに相談した。
「よし、糾弾しよう」。
相談はまとまり、糾弾が開始された。
相手方は暴力団を雇った。
「奴ら、ひどい目にあわせてやる」というおどしも耳に入った。
しかし、それにも屈せず糾弾をつづけた。
結局、元県議は非を認め、地元の芝居小屋で「謝罪演説会」を開くことになった。
 徹之助、検束される

 いよいよ明日は「演説会」という日の昼だった。
六松の家と、おやじが居候をしている西光寺の二個所を、あわせて三十人ほどの警官が襲い、家宅捜査をした。
二人は検束された。
罪名は、さっぱり二人には分からなかった。
ただ警察が、もし「演説会」が開かれれば、二人が危険なことをいうかもしれないと、事前に二人の口を封じようとしたことは十分、想像される。
 おやじがサイドカーに乗せられ、伊勢の宇治山田の警察へ連れられて行った。
ちょうど宮川橋の上に来たとき、六松も二人の特高に両脇を固められて歩いていた。
サイドカーが六松を追い越すとき、二人の視線が合った。
「おれも行くぞ。心配せんでええ」。
おやじが六松に声をかけ、にっこり笑った。
 六松の記憶によると、警察の調べは、実にこまごましていた。
六松に家から出てきた文書、書類の出所を一枚一枚、追求する。
たとえば六松が古市の古物商で買った角火鉢のひき出しから、いわくありげな書類が出た、というので、さあ、この書類は何だと、なんともしつこい迫り方だ。
六松には、まったく覚えがない。
火鉢を買ったときから入っていたとしか考えれない。
「そんな書類が入っているはず、あるものか。もし入っていたのなら古物商へ行って、その火鉢がどこから出たか、聞いてくればいいだろう。古物商人は、どこで品物を仕入れたか、記録しているものだ」。
六松が、そんな風にまくし立てたこともある。
 特高の追求に対して、六松が「忘れた」ということもあった。
そんな時、特高は「おまえは頭が悪い。頭の良くなる薬をやろう」といって、ポカリ、六松の頭を殴りつけた。
 この頃、警察の調べはまだ苛烈ではなかった。
六松より年長で、西光寺というお寺の身内であるおやじに対しては、踏んだり蹴ったりの調べは、なかったようだ。
 悪名高いタライ回しのすえ、六松は四十日後、釈放された。
ところがおやじは、その後も警察に留置されたままだ。
おふくろは怒った。
六松に向かって、「あなたが出ているのに、うちの人が出ないのはおかしい」といい、真澄を背負って警察へ走った。
「嬢やん」といわれて育ったおふくろが、まなじりを決して談判したかいがあってか、六松が出てから十日後、おやじも出た。
 この間、西光寺の檀家は大騒ぎだった。
そりゃそうだと思う。
寺が創建されて以来、警察が寺に押し入るなどということは、一度もなかったのだから。
「嬢やんの亭主をいつまで置いておくのか。徳月さんが、あんな男をかくまうから、寺に警官が押し寄せる」。
檀家が、いさほの父、徳月を責めた。
 おまけに特高が、しょっちゅう西光寺のあたりを徘徊していた。
おふくろが買い物に出かけるときにも尾行がついた。
学校では教諭が「西光寺には危険思想の持ち主がいる」と、生徒たちに注意した。
 西光寺は共産党だ、アカだと、世間がすこぶるうるさい。
 これほど「アカだ、アカだ」の大合唱になれば、徳月が音をあげても不思議ではないところだが、この徳月住職、穏和な割に腹のすわった人だとみえ、ついぞおやじに避難がましいことは言わなかった。
勿論、愛娘にさんざん苦労をかけている男だから、外で立派な人物だなどと褒めはしなかったが、おやじを信頼していた。
檀家総代をしたことのある古老たちによると、徳月自身が、「一般の人間が部落へ行って水を飲まない、などという差別がまかり徹ようなことではいかん」と、檀家に説いていたという。
 徳月はおやじの思想に共鳴し、おやじもまた徳月の親鸞主義に、徐々に影響されていった。
 おやじは、アイデアマンだった。
僧侶が「皆さん、きょうは私の御法話を聞きに遠くから来てくださって、まことに有難く存じます。これも仏縁とおぼしめし……」なんていうマンネリズムは嫌いだった。
後に僧侶になってからのことだが、おやじは徳月に「琵琶説教やってみましょうや」と提案した。
筑前琵琶の伴奏入りで「石童丸(いしどうまる)」とか、「壺阪霊験記(つぼさかれいげんき)」とかを一席、うかがってみようというわけだ。
徳月も「そりゃ変わっていいだろう。やってみろ」といった。
琵琶は他の人が弾いたか、おやじが弾いたか、今となっては分からいのだけれど、いずれにしても美男、美声のおやじが、しみじみと琵琶入り説教をしたものだから、わっと人が集まり、善男善女を、とくに善女をしびれさせた。
徳月は、すっかりおやじの力量に感心してしまった。
(『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』植木等 構成・北畠清康 ちくま文庫 2018年)
 今朝の父の一枚です(^^)v
シジュウカラ♀の顔がかわいい!

 東京の鳥、今昔  山階芳麿(やましなよしまろ 日本鳥類保護連盟会長)
 
 春が来てシジュウカラの囀(さえず)りを聞き、その姿を見ると思い出すことがある。
 明治40年頃、私が小学校へ行く前だが、その頃は麹町(こうじまち)の富士見町に住んでいた。
庭に出しておいた陶製の腰掛の穴にシジュウカラが巣を造り、雛をかえしたのだ。
そしてまだ赤裸でみずみ色の産毛(うぶげ)の生えている雛二、三羽を飼おうと思って持ち出したのだが、その時頭上の枝で大声を出しているシジュウカラと目が合ってしまった。
しばらく持ち歩いていたが、結局かわいそうになってしまって、もとの巣に戻してきたことがあった。
…後略…
(『野鳥の歳時記1 春の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)