2022年3月19日土曜日

いそがしくなるなぁ…

風が冷たくて暗い空だったけど
ソメイヨシノがポツンと咲いていました。
ハナノキやコブシなども咲きだした。
春が急ぎ足でやってきたような…
花を見るのにいそがしくなる(*^^*)
桜だけではないけど春になると…

巻第一 53
  渚院(なぎさのゐん)にて桜を見てよめる  在原業平朝臣
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

この世の中にまったく桜というものがなかったら、春の人の気分はどんなにかのんびりとしたものだろうに。

「渚院」は惟喬親王(これたかのみこ)の別邸。大阪府枚方市渚にあった。
伊勢物語・82段、土佐日記・承平5年(935)2月9日条などに見える。
(『古今和歌集』小町谷照彦 旺文社文庫 1982年)
NHK「ETV特集」公式のTwitterに今夜の番組が紹介されていました。

明日の #ETV特集 は シリーズ#ウクライナ侵攻が変える世界 (1) 2014 #対立の原点

危機の源流は親ロシア派政権が崩壊した2014年の#マイダン革命に遡る。
当時放送したETV特集を基に戦争の深層を読み解く。


キャスター:#道傳愛子 解説:#石川一洋(NHK解説委員)

19(土)夜11時  #Eテレ
アーノルド・シュワルツェネッガーさんのTwitterに

I love the Russian people.
That is why I have to tell you the truth.
Please watch and share.


全文の訳
シュワルツェネッガーさん「無意味な戦争の犠牲に」 ロシア国民へ動画〟(毎日新聞 3月18日)
Yasuhiko KanouさんのTwitterに

モスクワ大学の教授、学生約4,000人が、「ウクライナ戦争を非難する」の声明を出したそうです。
イタリアのニュースサイトから、
Mosca, 4mila professori e studenti dell'Università: "Condanniamo la guerra in Ucraina"
“団結しなければ、せん滅させられる” ノーベル賞作家の訴え」(NHK 3月18日)

……
アレクシェービッチ氏
「ウクライナが勝てば、プーチンはロシア国内で大きな問題を抱えることになるでしょう。
そうなればもちろん、ルカシェンコも同じことになります。
ウクライナの人々は今、自分たちの未来のために戦っているだけでなく、ヨーロッパのため、ウクライナの周辺の国々の民主主義のためにも戦っているのだと言うことができます。
ですから、多くのベラルーシ人がプーチンと戦うために、それをなんと呼べばいいか…外国の土地へ向かいました。
ウクライナ軍の部隊には多くのベラルーシ人がいます。
なぜなら、ウクライナこそが未来への道を切り開いてくれると、皆が理解しているからです」

……
「誰もあなたに耳を傾けようとしない暗い時代はある。
声を上げるのをやめたくなる。
しかし声を上げなければ悲しみが生まれる。
だから声を上げ続けなければならない」
今朝の朝日新聞の「天声人語」
……
▼35万人以上が残されているが、水や食料などを届けることができない。
兵糧攻めのような事態を止めてほしいと、ゼレンスキー大統領が歴史に刻まれた悲劇に言及した。
「レニングラード包囲」である。
▼第2次世界大戦下、ソ連の都市レニングラードは、ドイツ軍に取り囲まれた。
900日にわたって孤立し、飢えで多くの人が命を落とした。
悲惨な独ソ戦のなかでも、とくに悲惨な事件であろう。
▼当時のレニングラードには、実はプーチン大統領の母親と幼い兄がいた。
兄は病死し、母やあやうく餓死するところだったとインタビューで語っている。
空腹で気を失い、死んだと思われて他の死体と一緒に並べられたという。
▼しかし「うめき声をあげて、救われたのだ。母が生きのびたのは奇跡だと思う」(『プーチン、自らを語る』)。
自分が生まれる前に肉親の味わった苦しみ。
そこに多くの人を追いやっているという自覚は独裁者にあるのだろうか。
▼……
その視点はまるで皇帝である。
普通の人たちに強いられた苦痛から、何も学ぶことはなかったのか。(2022.03.19)

反戦活動家のロシアの高齢女性、警察に連行される。レニングラード包囲戦の生存者として声を上げた」(HUFFPOST 2022年3月3日)
プーチン大統領は、ナポレオン皇帝のようになることを恐れているのかな?
ただナポレオン皇帝のような潔さはないとおもう…
大学を卒業した頃に読んだ本から

一 現代革命の考察
 恐怖心の消滅するとき


 ところで特定の国家権力あるいは体制は、暴力と暴力への恐怖心だけで存続できるものではないであろう。
たとえヒトラーやスターリンといったおそるべき暴君といえども、彼らに対する愛情や信頼から自発的に献身を誓うグループが、たとえ少数のグループであるにせよ、存在しなければ、統治を持続できるものではないであろう。
そこで実際に歴史が示したように、ナチの親衛隊とかソ連のゲー・ペー・ウーといったグループが、独裁者の忠実な支配の用具となったのである。
ともあれ、恐怖心だけで統治を長く続けていくことはできないのである。
(『革命の神話 社会主義に未来はあるか』 勝田吉太郎 講談社 昭和51年)
 他方では、どのような国家、いかなる体制といえども、自発的な服従ないし同意だけで、従ってウルティマ・ラティオとしての暴力なしで、統治を永続できるものでもないことも、同様に明らかである。
その際権力を成り立たせていくための基盤として挙げた恐怖心の要素と、他方第二から第四までの愛情、信頼、忠誠心といった要素とは、逆比例的な関係にあるといってよいであろう。
つまり恐怖心に依存する度合が大きければ大きいほど、愛情、信頼、忠誠心の占める比率は小さくなる。
それと反対に愛情、信頼、忠誠心に依存する度合が大きければ大きいほど、恐怖心を打ち出す必要は少なくなるのである。
このように、両者は逆比例的関係に立つと考えられるであろう。
 因みに政治的リアリストの伝統をひく理論家たちは、多かれ少なかれ、国家権力と体制を強固ならしめる要因として、愛情、信頼、忠誠心といったものよりも恐怖心のほうをより重視する傾向をもつ。
そうした政治論の古典例は、マキアヴェリの『君主論』であるといってよいであろう。
その17章のなかで、彼は「君主は愛されるのと恐れられのと、どちらがよいか」と問題を提起し、「愛されるよりも恐れられるほうがはるかに安全である」と答えている。
なぜといって、「人間は恐れている者より、愛情を感じていた者を容赦なく傷つけるもの」だからである。
それというのも、「もともと人間は邪悪であり、たんに恩義の絆(きずな)でつながれている愛情などは、すぐにも断ち切ってしまうに反して、恐れている者に対しては、処刑の恐怖でしっかりと縛られているので、決して見殺しにしないからである。」
 同様な視点から、彼はカリスマ的資質をもち、そして信頼感と愛情とを人民のうちに鼓吹(こすい)することによって権力を掌中に収めたサヴォナローラが、あっという間に同じ人民大衆によって見捨てられ、火あぶりにされるにいたった悲劇を念頭におき、「武装せる預言者は勝利を占め、備えのない預言者は滅びていく」という格言を述べたのであった。
 さて特定の体制が、それを支えている中核的な社会集団のうちに十分な忠誠心を確保しており、他面では十分な恐怖心をも人民に鼓吹している限り、たとえ革命行動が発生しても、容易に防遏(ぼうあつ)できるであろう。
それと反対に、恐怖心ならびに忠誠心、つまり自発的服従の両方が消滅すること、すくなくとも脆弱に化していくこと、――これが革命成功の前提条件といわなければならない。では一体、いかなる条件下に恐怖心が被統治者大衆の心中から姿を消していくのであろうか――まずこの点について、考えてみよう。
 第一に指摘できるのは、権力が微動だにせず、その暴力性が顕在化しているような場合でも、権力に対する反抗とか叛乱とかいったものが発生しうることである。
その典型的な一例を挙げると、例のワルソー・ゲットーの叛乱がこれに当るであろう。
ナチのガス室へ続々仲間たちが送られていくという状況下で、どうせ明日あるいは明後日、自分たちも同じ運命に陥ってしまうに違いない、そう考えた人たちが絶望のあげく叛乱したのであった。
換言すれば、もはや生きる希望がなくなった時、恐怖心というものも大幅に減少、ないし消滅していくであろう。
こう考えるならばこうしたワルソー・ゲットーの〝希望なき叛乱〟も心理的に説明可能となるであろう。
 第二に、通常人民の間に権力への恐怖心が姿を消していくのは、戦争に敗北することによって体制の強制力が損傷をうける、或は強制力をあえて行使する意志を為政者自身が失ってしまう、さらに敗戦の結果国家権力の威信が地に墜ちる、そういった事態が発生したときであろう。
 そうした時期を歴史の上でみていくと、例えば、1905年、ロシヤは日露戦争の敗北の結果国内騒然たる状況に陥ったものであった。
いわゆる第一次ロシヤ革命の情勢がそこにうみ出され、ついに帝政は譲歩を余儀なくされて〝十月宣言〟を打ち出し、その結果まがりなりにも立憲主義へと移行したのである。
ついで1917年に生起したロシヤ革命の場合、周知のように、第一次世界大戦の過程でロシヤ軍が相つぐ大敗北を喫したことが直接のきっかけとなったのである。
国家権力の強制力に起因する恐怖心が被統治者大衆の心の中から大幅に姿を消すといった状況は、このように生まれたといえるであろう。
 イタリアにおいては、なるほど第一次世界大戦で戦勝国の側に立ってはいたものの、実際は戦争で手ひどい敗北を喫した。
それに伴って、権力の威信は無惨にも失墜してしまう。
そういう状況の中でさまざまな政情不安、社会不安が濃厚となり、各地に無秩序状態が広まった。
ことに北イタリアでは労働者たちが工場を占拠し、極右と極左との間にテロが日常茶飯事となった。
そうした情勢の背景下に1922年、ムッソリーニの〝ローマ進軍〟が行われ、あっけないほど簡単に権力は彼の手中にころげ込んだのであった。
 第一次世界大戦が終結した直後、敗戦国ドイツにおいても各地に革命寸前の状況がたち現われ、なかんずくミュンヘンにソヴィエト権力が出現した。
もっともこれは、短日月の間に国防軍によって打倒されはしたが、それに類する革命的状況は、同じく敗戦を喫したハンガリーにも熟成された。
 第一次世界大戦当時のフランス陸軍の勇将として名を馳せたフォシュ元帥は、次のような有名な言葉を吐いたものである。
すなわち、「ボルシェヴィズムとは敗北した軍隊のかかる病気である」と。
この辛辣な評言も、これまでの文脈の中で十分に理解できるのではなかろうか。
 同様な視角から、第二次大戦後のおける植民地独立の気運を説明することができるであろう。
ことに東南アジア各地の場合、わけてもインドネシアとベトナムにおいては、長年にわたって民衆の上に君臨していた旧宗主国、オランダおよびフランスの植民地帝国の威信は、日本軍の進攻によってもろくも地に墜ち、二度と再び旧に復することは不可能になったのである。
同じことは、程度の差こそあれ、シンガポールやマレーシアについてもいえるであろう。
 つぎに自発的な服従ないし忠誠心が、人々の心中から姿を消す、ないしは著しく脆弱化していく場合をとり上げてみよう。
およそ国家権力ないし体制に対する忠誠心なるものは、それを担う人格に向けられるよりも体制そのものに向けられた場合、より一層永続できるであろう。
従って長年にわたって持続していた王朝への人々の忠誠心は、強固なものだと思われよう。
多年続いてきたという事実そのものが、一種の規範力を発揮してくるからである。
個人に向けられるよりも、体制に向けられた場合に、忠誠心がより強固になるというのも、そうした〝事実の規範力〟によるものといえるであろう。
かくかくたる武勲によって帝位に就いた皇帝といえども、しょせんは成り上がり者といえなくもない。
そうした英雄的な個人に対する人民の信頼や忠誠心は、案外あっけなく姿を消す場合が多いのである。
まさしくそれは、剣で得たものは剣で失うという事例であろう。
これに関して、興味ある逸話が残っている。
 フランス革命が成功したあと、革命軍がヨーロッパを席巻して各地でかくかくたる武勲をたてた。
その軍事的栄光を一身にあつめてナポレオンが皇帝の座についたことは、周知のところである。
この間、1796年から1809年に至るわずか十数年の間に、オーストリア皇帝はフランスとの戦いで実に4回もの敗北を喫したのであった。
そのうち2回は、フランス軍によって首都ウィーンを占領されるといった有様であった。
そうしたていたらくにもかかわらず、オーストリア皇帝に対する国民の忠誠心になんの変化もなかった。
 他方、ナポレオンの場合、モスクワ遠征に失敗し、わずか1回の敗北によって結局は帝位を失う羽目になる。
そうした運命となるのを、ナポレオン自身心中ひそかに観念していたのであった。
ナポレオンと戦った連合軍側は、当初彼に対してかなり寛大な講和条件を提示した。
フランスの一州だけを割譲させるという条件で、手を打とうというのである。
この申し出の使者に対して、ナポレオンはこんなふうに述懐したという、――私はプロシャの国王でも、オーストリアの皇帝でもない。私は輝かしい軍事的栄光によって帝位をわが手に収めた人間である。そのような人間がひとたび軍事的敗北を喫した以上、わずか一州だけを割譲するだけでも、もはや帝位が安泰にとどまるとはとうてい考えられない。早晩必ずや帝位を退かなくてはならない事態となろう。あなたはきわめて寛大な条件だというが、私としては、とうていこの条件をのむわけにはいかないのだ。いちかばちか、帝位を失う覚悟で最後まで戦うほかはなのであると。――ナポレオンはそう述懐したものであった。
この一代の軍事的英雄は、彼に対する国民の忠誠心が、皇帝のかくかくたる武勲の持続する限り維持されうるものであること、個人の人格に対する忠誠心はきわめてもろくも崩れ去るたぐいのものでしかないことを、さすがによく弁(わきま)えていた。
(『革命の神話 社会主義に未来はあるか』 勝田吉太郎 講談社 昭和51年)