行きは手袋をして自転車をこいでいましたが
帰りは手袋なしでも寒くなかった。
季節が一気に進んで土筆もポツンと飛び出していました。
速すぎたのかあまりツクシらしい元気さがなかったのだけど…
季節の移り変わりはぼちぼちがいいなあ…
急激な変化に体がついていけない(-_-;)
今朝、父が古紙いれから昨日の夕刊を取り出してきました(地方版で既報のようです)。〝事務室の「すずこさん」へ思い届け 凪ちゃんの直談判、てんまつは?〟(朝日新聞 2月26日)
夕刊のタイトルが
「チカさんにドングリ届けたい 年少さんが園長に直談判…」
だったので「チカさん」????
父も読んでいてニコニコしたと話していました。
園長さんに4歳の凪ちゃんが相談に行くと、
大型バス2台分の費用は18万円もかかるので無理だと言われたのですが
凪ちゃんはあきらめなかった。
どうしたらお金を集められるか、クラスごとに話し合った。
「子どもが考えてできることもある。自分たちの力で集めたお金で、何かを変えられることを体験してほしかった」(園長先生)
「誰かの幸せのためになれる経験をしてほしかった。この先、どんな形でも続けてくれたら」(園長先生)。
「チカがうれしい気持ちになってほしい」。
記者に小さな声で話してくれた凪ちゃん。
そう言うと、また地面を気にしながら走っていった。
rusbureauさんのTwitterに
拘束されてもめげずに外に出る、レニングラードの生き残りのエレナ・オシポワさん
「兵隊さん、武器を捨てて。そうすれば本当の英雄よ」
(エレナ・オシポワさんの画像)
とっても穏やか優しい方だとおもう。
それでも戦争反対と立ち続けておられる。
ロシアでこのような行動をすることは命がけだと思います。
2月25日にEテレで放送されていた番組がBS世界のドキュメンタリーで放送されます。
プーチン大統領をヒトラーになぞらえる記事を読むことがありますが拘束されてもめげずに外に出る、レニングラードの生き残りのエレナ・オシポワさん
「兵隊さん、武器を捨てて。そうすれば本当の英雄よ」
(エレナ・オシポワさんの画像)
とっても穏やか優しい方だとおもう。
それでも戦争反対と立ち続けておられる。
ロシアでこのような行動をすることは命がけだと思います。
2月25日にEテレで放送されていた番組がBS世界のドキュメンタリーで放送されます。
私はスターリンを思い浮かべます。
半藤一利さんの『世界史のなかの昭和史』より転記します( ..)φ
スターリンによってロシアの人々がどれだけ虐殺された分りません。
なお日本軍捕虜など少なくとも5万5000人以上がシベリア抑留で亡くなっています。
「シベリア抑留」(舞鶴引揚記念館)第三話 日独防共協定そして盧溝橋事件――昭和9年~12年
●ソ連の恐怖政治のはじまり
つねに頭の上に乗っかっていた重しがとれて、総統ヒトラーは自信をもって動きだしました。
彼のまわりは、「炉辺グループ」または「深夜グループ」として知られる連中がしっかりと固めています。
ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラー、ヘス、ボルマン、リッベントロップと、これからも多分顔をだすであろう面々です。
これらがヒトラーの名を借りて縦横に働きます。
それでヒトラーは、あるいは天下独往という言葉がぴったりといっていい政治的活動で、世界史をひっかきまわしはじめるのです。
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年) と、ヒトラーにのみ視線を向けているわけにはいきません。
ソ連のスターリンも、ヒトラーの総統就任宣言のほぼ四カ月あとに、テロルによる粛清という恐怖政治に走りはじめたのですから。
一説に、ヒトラーのやり方に刺激をうけて、彼とその一味が親衛隊やゲシュタポの巧妙かつ大胆なやり口を容赦なくとり入れたのだ、ということなのですが、確証があるわけではありません。
しかし、そう考えたほうがわかりやすい。
もっとも、ナチスの強制収容所システムはソ連からとり入れたものといいますから、もちつもたれつの国家的テロリズムであったのかもしれません。
いまでも権力者が権力強化のため、頑強な批判者にたいする粛清という強硬手段にでるとき、同じテクニックをとるに違いありません。
もっとも、現代のそれは殺戮(さつりく)といった残忍な手段ではなく、法で縛るという方法をとるのでしょうが。 事件の起こりは単純な殺人でした。
中央から追放されたジノヴィエフからレニングラードのボスの地位をひき継いだ共産党書記キーロフが、スモーリヌイ院の真ん中の彼の事務所で昭和9年(1934)12月1日に無残にも殺されたというのです。
ここは以前は女学校で、レーニンが蜂起したところ、そしてそのときは党本部として使われており、人目につくところでした。
犯人はすぐに逮捕され、事件はたちまち収拾されました。
犯人は教唆(きょうさ)者も共犯者もいないと自供します。
スターリンは夜行列車に乗ってその翌朝にはレニングラードに到着、いきなり出迎えの警察署長をぶん殴ったといいます。
そのあとスモーリヌイ院に乗りこみ、この事件捜査の指揮をとります。
彼のまわりには若く屈強の護衛がびっしりとりまいていました。
彼らの手によって犯人はもちろんキーロフの護衛主任も死刑に処せられました。
眼のあたりを腫(は)らした警察署長はただちに収容所送り(3年後に殺される)。
罪状は、武器をたずさえたテロリストが単身で党本部に潜入できる、そのような警備のたるみ、警戒心の不足は許し難いというものでした。
と、まことに手際よくテキパキと処理をスターリンは護衛たちに下令するのです。 問題は、じつはそのあとなのです。
キーロフは政治的穏健派グループでもっとも人望があり、スターリンの後継者ともみられていた人物。
その彼をとり囲んで、スターリンの権力行使にかなりの制限を加えようとしてきたグループが存在していたのです。
スターリンはこの危険になっていくキーロフ一派をそのままにしておく気は毛頭なく、そこでこの暗殺事件をうまく利用して完膚なきまでに一掃しようとした。
これが大量虐殺につながった、というのがいまは定説になっています。
じつはキーロフ暗殺も、直接にか間接にか、命令を下したのはスターリン、ともいわれているのです。
それに違いなかろうと思いますが、確証のある話ではない。
なぜなら、キーロフ事件の証人たちは、間もなく死刑に処せられるか収容所に送られ、全員の姿が消えてしまったから。
収容所に送られたレニングラード市民の数は4万人といわれていますが、痕跡はすべて地球上から消滅しました。
これら「叛逆者」を根絶するのは、それを実行するものたちにとっては、社会主義国家の建設という英雄的任務を遂行することであり、スターリンへの忠誠を語るものです。
したがって、彼らが内部告発するはずもないわけです。
歴史的事実として年表などに残っているのは、この事件の二週間後、もうずいぶん前に中央から完全に遠ざけられ隠遁を強いられていたジノヴィエフとカーメネフが逮捕されたということです。
しかもその告発状には罪状が一点の抜かりもないように練りあげられていたという。
この二人は、トロツキー追い落としのためにスターリンが頼りとした古参党員であったことは第一話でもふれていましたので、想いだしていただけるでしょうか。
スターリンもまた、ヒトラー同様、これからの権力行使のために個人的にも邪魔になるだけではなく、やがて力のあるものとして形成されるかもしれないと予想される反対派は、残らず予防的に排除しておく、そうした徹底的に非情残酷な独裁者であったのです。
反対派は有効な抵抗組織を形成する余地もなくつぎつぎに排除されてしまうことになる。
それがいつからはじまったのか、正確にはわかりません。
とにかく、予防的に片ッ端から排除しておく、テロルの本質はそこにあります。 なお、スターリンの冷酷残忍さを語るこんな話が残っています。
彼が無作法に吐くツバの音を、上手に真似するオウムが神経にさわるといって、愛用のパイプでその頭を殴りつづけ、オウムまで粛清してしまった、というのです。
とても笑うに笑えないエピソードですが、その人間性がよくわかる話ともいえるのではないでしょうか。
こうしてヒトラーといいスターリンといい、悪魔的ともいっていい大量虐殺という、かいていてもおぞけをふるう事実が、完璧に隠しおおせるものではないことはすでにかいたとおりです。
であるにもかかわらず、なぜ当時の世界の国々から一致してこのことにたいする制裁はおろか非難の叫びすらあがっていなかったのか。
ヒトラーの場合は少しは知られましたが、スターリンのほうは世界にほとんど影響を与えませんでした。
社会主義にたいして知識人たちはやさしかったのでしょうか。
それとも、昭和4年(1929)いらいの「自国ファースト」の世界的な〝空気〟が、いわゆる三猿主義(見ざる聞かざる言わざる)を形成していたからなのか。
国際連盟もほとんど動いていません。
ファシズムと対決する決意、必要なら戦う決意などがそこからは固められべくもなかったのです。 それに1930年代のヨーロッパの国々には、つぎつぎとファシズムの流れをくむ政権がつくられていたのです。
ムッソリーニのイタリア、ポルトガル、ハンガリー、トルコ、オーストリア、ルーマニアなど、そうした国々の民草はもちろん有識者層が、かりに事実を知らされたとしても、ヒトラー政権やスターリン政権の本質を見抜けるはずもなかったのではないか、とも思えます。
半ば疑いを抱きながらも結局は情報を聞き流していたのではないか。
それにやっぱり多くの知識人はどちらかといえば左翼思想へと傾いていた、それで、事実を見れども見えずであったのか。 ではアメリカは、となると、ルーズベルト大統領のニューディール政策は着々と実をあげはじめていましたが、モンロー主義の殻はどうしてどうして固く、いぜんとして「アメリカ・ファースト」。
自国の富裕が第一義でした。
現実主義の輿論は、ヨーロッパではドイツのナチズム、アジアでは日本の軍国主義がもたらすかもしれない世界秩序にたいする脅威を一応の理解を示していましたが、みずからが出ていってすぐにどうのと考えてもいませんでした。
そしてスターリン政権には、共産主義にたいする反撥は根強くありますが、国際的な約束を踏みにじっているドイツと日本を押さえつけるためにはむしろこの社会主義国家を利用すべきだ、とはなはだ矛盾した政治姿勢を保っていたようなのです。
それにルーズベルトは生まれつきの国際主義者で、あまり世界各国の細かい動静に目を配ることはなく、とくに名指ししてその国を脅威と感じたり危険視したりすることはなかったようなのです。
これがいちばんよくなかったかもしれません。 第三話 日独防共協定そして盧溝橋事件――昭和9年~12年
●スターリンの「大量虐殺」
前々からそれとなく噂にのぼっていましたが、まさかと思っていた日独防共協定の調印は、世界の国々にさまざまな、小さからぬ反応を起こさせました。
イギリスはそれまでもヒトラーにたいして相当にきつい牽制をくり返していましたが、もはやこの独裁者を説得するのは無理とこのときに諦めたといいます。
しかし、それではどうしたらいいかとなると思い惑うばかり。
フランスは途惑いつつ国境線の防御態勢(マジノ線)を固めはじめる。
アメリカは、ルーズベルト自身は怒りをかなり示しましたが、国内の大きな経済的な困難の克服を優先しなければなりません。
とにかく、おかしいくらいアメリカの輿論はいぜんとして孤立主義に傾いていたからです。
さらに少々大袈裟にいえば、欧米諸国では『わが闘争』にかかれているようにドイツの領土拡大は東方、つまり絶え間ない攻勢の目標をポーランドそしてソ連においていると、そう強く観測していたのではないかと考えられます。 そうであるから、この協定にもっとも大きな危機感を抱いたのはソ連、ではなく、スターリンその人であったのです。
とくに3月に非武装のラインラントにドイツ軍が進駐したということが、スターリンの猜疑心に火をつけたのですが、そのあとで日本へのヒトラーの奇妙な接近です。
スターリンの眼には日本とドイツは好戦的な侵略主義の権化にしかみえない。
しかも両国ともソ連を敵視し、国際連盟を愚弄している。
その国連なんかそもそもが当てにできない、ばかりではなく、モスクワにたいする西欧諸国の態度は相も変わらず不信にみちている。
といって、それはすべて日独防共協定が誘発したと強弁するつもりは毛頭ありませんが、そうした外的な諸条件がスターリンの心に、国内的にも警戒と疑惑と残忍さとを巨大に育てあげたにちがいないと思われるのです。
それが、すでに在獄中であったジノヴィエフとカーメネフと、それほど人物でないそのほかの被告たちにたいする裁判が、まったく前ぶれもなく8月19日から24日にかけてモスクワでひらかれた理由でありました。
それはたしかなことであったと思います。 キーロフ殺害に関連して被告席に昨日まであった共産党員が坐らされた例のないわけではありませんが、レーニンの側近でありスターリンの協力者でもあったこれほどの大物二人がいまや牢獄から引きだされて坐るというのは、かつてないことでした。
ソ連国民が震えあがったか、平然と眺めていたのか、はっきりしません。
しかし、いまや全力をあげて建設しようとしている国家にたいする〝叛逆の罪〟しかも共謀の罪であるという党中央委員会の発表は、民衆の恐怖心に訴えるところは大きかったし、より広範囲の新しい恐るべき粛清をある意味では正当化するものであったのです。
つぎつぎに被告席に坐らされるものたち、つまり叛逆を共謀するものたちはすべてトロツキストのレッテルのもとに一括されました。
彼らは亡命中のトロツキーの秘密命令に従い、国家を転覆するための援助を求めてドイツと日本と共謀した、とほぼ共通した罪状を読みあげられました。 ジノヴィエフとカーメネフは、一説に、家族には手をふれない、自分たちの命は助けるという交換条件で、とにかくすべてを自白することに同意した、ともいいますが、どうでしょうか。
真偽のほどはいずれにせよ、裁判の終ったあと一日も経たないうちに二人ともあっさり銃殺されてしまいます。
この二人の大物の始末がすむと、スターリンは間髪をいれずに逮捕していた16人の被告を有罪と認め、すべて銃殺刑に処しました。
党の中央委員会の政治局は、スターリンに忠実でそのいいなりになる連中で構成されていて、反対のハの字もいうものはなかった。
「彼〔スターリン〕は会議の司会さえもしなかった。たいていの場合、彼は黙って討議に耳を傾け、ときおり庶民の使うような皮肉や半ば冗談だが意味深長な脅し文句を吐いたり、たまらないといった身振りを突然示したりするだけだった。だが、これで大部分の問題は決定された」(ドイッチャー『スターリンⅡ』)
(『スターリン』 アイザック・ドイッチャー 上原和夫訳 みすず書房 全2巻、1963 - 1964年、新版・全1巻、1984年) 第一回の叛逆罪による死刑の行われたあと、五カ月後の昭和12年1月には、同じように世界を驚かせた第二の大々的な裁判がひらかれ、結果は被告人たちは死刑あるいは流刑でした。
こうして、このあと独裁の恐怖をテコにしてスターリンは、だれであろうと血も涙もないやり方で〝内部の敵〟を殺すことができるようになりました。
〝粛清〟(ロシア語で「チーストカ」)はこの11年から14年(1939)にかけて、もはやスターリンの、いやないい方ですが、独擅場(どくせんじょう)となったのです。
少しでも疑われた人びとは夜中に連行されていって、その後は決してその姿がみられなくなった。
心ある人たちには夜の到来が恐ろしかったといいます。 「世界史のなかの昭和史」と題している以上、かいていても心が痛むばかりであるし、昭和史にとくに関係のないソ連の国民の悲惨についてこれまでとしてやめます。
ただ、昭和31年(1956)2月24日、ソ連共産党第20回大会の最終日にスターリンを徹底的に批判し、世界中を愕然とさせたフルシチョフ第一書記の演説があげた数字だけは紹介しておきたいと思います。
すなわち、昭和9年の第17回の党大会で中央委員に選ばれた139名のうち98名――つまり70パーセントが、昭和12年から13年の間に逮捕され銃殺されている、というものでした。
さらに、第18回党大会(昭和14年3月)に出席した代議員1966名のうちの1800名が同じ運命にあった、というのです。
フルシチョフは個人崇拝を否定して集団指導を、とこのとき強調していたのですが、〝無謬(むびゅう)の人〟にして大祖国戦争の〝勝利の父〟であり、党書記長・首相かつ大元帥であったスターリンを、完膚(かんぷ)なきまでにこきおろした、この発表のさいの驚きをわたくしはしっかり覚えています。
しかし、ほんとうのところ大量テロルの犠牲者の数はどのくらいであったのか、確かな数を手に入れることは不可能。
もちろん再調査もされていないようです。 それにしても世界の知識人たちは、このおぞましき何年にもわたって行われた大量殺人の事実をその当時はまったく知らなかったのでしょうか。
そんなことはないと思います。
祖国を逃れでた多くの人たちの口をとおしてかなりの情報を得ていたのですから。
にもかかわらず、かならずしもこれをきびしく糾弾する声をもち合わせていなかったようなのです。
原典に当たることはできませんので、イギリスの歴史家P.ジョンソン著の『現代史』上巻から孫引きして、たとえばフランスの作家アンドレ・マルローが語った言葉をあげてみます。
「宗教裁判がキリスト教の根源的な権威を損うことはなかったように、モスクワ裁判も、共産主義の本質的な権威を傷つけてはいない」
もうひとり、わたくしが中国古代の非戦論の思想家を扱って『墨子(ぼくし)よみがえる』をかいたとき、大いに学ぶところのあったドイツの詩人・劇作家ブレヒトの、まったく思いもかけないような発言も引いてみます。 「モスクワ裁判はスターリン政権に対しいかに陰謀の数々がうず巻いているかを明確に示している。国の内外を問わず、ならず者や人間のくず、犯罪者、情報屋がなんと多いことか……そういう唾棄(だき)すべき連中……によって計画された恥ずべき悪行の数々。私はこれが真実だと信じている」
まったく、この反戦的な詩人よ、あなたはその当時ほんとうにそう思ったのですか、という嘆きを発するばかりです。
当時の知識人たちにとって、あるいはナチス・ドイツや大日本帝国のほうが国際法無視の無法の国家であり、世界平和秩序の維持のためにはるかに危険である、それらファシズムに断乎として反撃できるのはソ連のみ、とでも考えられていたのでしょうか。
もういっぺん、いやはや、というのみです。
(『世界史のなかの昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー905 2020年)