午後から薄曇りになった。花冷え はなびえ
桜の咲くころに見舞う寒さのぶり返し。
春の季語。
花冷えはかこちながらも憎からず 富安風生
(『花のことば辞典 四季を愉しむ』倉嶋厚監修、宇田川眞人編著 講談社学術文庫 2019年) 花曇り はなぐもり
桜が咲く三月末から四月の初めごろの日本列島によくある曇り空。
低気圧が中国の上海近辺に顔を出し、高気圧の中心が三陸沖に抜けると、列島は薄曇りの空模様となる。
空一面に流れる白い絹雲(けんうん)がまたたくまにベールのような絹層雲に変わる。
すると太陽や月に暈(かさ)がかかり、もっと雲がたれ下がってきて高層雲になると、太陽は磨りガラスを通したようにボーッとかすむ。
それが「花曇り」。
夜には朧月夜(おぼろづきよ)となり、「霞か雲か」と見まがうばかりの満開の桜に最もふさわしい情景をかもし出す。
「養花天(ようかてん)」ともいう。
春の季語。
思ひ切り衿(えり)ぬいて出る花曇 倉田夕子
(『花のことば辞典 四季を愉しむ』倉嶋厚監修、宇田川眞人編著 講談社学術文庫 2019年)〝アカデミー賞国際長編映画賞「ドライブ・マイ・カー」が受賞〟(NHK)
新型コロナで映画館に行けずにいる。
西島秀俊さんの映画は、何度か見ているし好きな俳優さんだ。
三浦透子さんは、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で初めて知った。
「『ドライブ・マイ・カー』三浦透子、元子役の経験が役とシンクロ」(シネマトゥデイ 2021年8月16日)
ロケ地は広島なんだ
〝「ドライブ・マイ・カー」が受賞 ロケ地 広島市のホテルでは〟(広島NHK)
〝「ドライブ・マイ・カー」が受賞 ロケ地 呉市大崎下島では〟(広島NHK)(「まえがき」つづき)
1949年の6月、広島では日本製鋼所広島工場の首切り発表を契機に、戦後最大の労働者の共同闘争が展開したのでありますが、病床にあった峠はこの時、高熱をおして応援にかけつけ、「共闘の誓い」や「怒りのうた」の詩を作って、労働者をはげましています。
そして同年10月、広島ではじめて平和擁護大会がひらかれた時は、議長となって、原子兵器の破棄を要求する大会宣言を発表しました。
同じ秋、県下の民衆詩人たちが集って、「われらの詩(うた)の会」を組織すると、彼はその中心となり、機関誌『われらの詩(うた)』には創刊号から、原爆に対する怒りの詩をのせました。
1950年、戦争の足音が近づいて来ると、彼や歌人深川宗俊は協力して「反戦詩歌人集団」を組織しました。
その年は広島にとって被爆五周年にあたっていて、平和団体は早くから8月6日を中心とした、原爆反対のカンパニヤをやろうと計画していました。
(『この世界の片隅で』山代巴編 岩波新書 1965年)しかし、朝鮮戦争が始まってからの弾圧はきびしく(集会に加わった者は占領政策違反として軍事裁判にかけられることになっていた)、8月6日当日は、警官2千人が動員され、武装警官をつんだ自動車が、サイレンを鳴らして市中を走り廻るという警戒ぶりでした。
その中で開かれる非合法の平和大会への参加は、死を覚悟した勇気が必要だったのですが、病身の峠はそれにも参加しました。
彼の「一九五〇年八月六日」の詩は、この悲壮な体験の実りでした。
その秋から、彼は西条結核療養所に入院し、翌年5月退所するまでの間に、「われらの詩の会」や「反戦詩歌人集団」の仲間たちからの激励や援助を受けて、『原爆詩集』を完成に近づけ、まず謄写版で5百部ばかり印刷して、1951年の平和大会に捧げました。
1952年に出版された(青木書店)ものは、この謄写版ずりの詩集を完成したものといえます。 峠は『原爆詩集』のあとがきの中で、自分がこの詩を早く書かなったことに対して、6年の怠慢と書いています。
しかし、私は彼とはじめて会った「広島青年文化連盟」の発会式の、あの用心深くよりそった、怒りと勇気と希望以外には何もない集会から、『原爆詩集』発刊までの彼のどこをとっても、怠慢の言葉にあてはまるところを見付けることが出来ません。
治安維持法によって捕らえられた二人の兄弟を持つとはいえ、良家に生れ、長くキリスト教の信仰によってはぐくまれた病身の彼が、民衆の怒りの詩を作るまでには、その日までやって来たどの活動も必要なもので、彼はそれらのどれにも命をかけて来たのでした。
1952年5月、彼が上京の途中喀血して、静岡の日赤病院に入院していた頃、広島では「われらの詩の会」が中心となって、原爆の子の詩集を出そうとしていました。
やがて峠三吉編『原子雲の下より』となって発行されたこの本は、峠三吉の手をかりなくても編集できるほど成長していた、広島の先駆的な青年たちの努力の果実であります。 原爆被害者の手記編纂委員会編の『原爆に生きて』(三一書房)が出版されたのは1953年6月でしたが、この手記の企ては1948年の8月、大村英幸によって提案されたものでした。
しかし被爆以来、生活に追われている、一般被爆者の手記を集めるこの仕事は、『原爆の子』や『原子雲の下より』を実らせた力だけでは完成しなかったのです。
当時原爆の被害に対する訴えは、占領政策への批判とみなされ、講演したり書いたりすると、沖縄へ送られ重労働の徒役(ずえき)になるとという噂も広まるほど、占領政策は原爆に対する市民の声を封じていたのです。
『原爆の子』『原爆詩集』が、あいついで出版され、講和条約の調印によりプレスコードがとかれても、大人たちの手記は容易に集らなかった。
1952年の夏、『原子雲の下より』を編集するなかで、前から手記編纂を自分の仕事と思っていた川手健は、一般被爆者の手記を集めるためには、被爆者の組織が必要であるといい出しました。しかし組織するためには、まだ立ち上れずにいる被爆者の家を、一軒一軒訪問して、彼らのところにある要求や訴えを聞かなければなりません。
『原子雲の下より』を編集した仲間たちは、その夏からこぞって被爆者の家を訪問することになりました。
そしてそして一人一人のまだ立ち上れない苦しみを聞き、要求や訴えを手記にする手伝いをはじめました。
これは詩人や作家にとっても、被爆者にとっても、全く新しい道でありました。
ものを書いたことのない被爆者たちも、自分の体験を文章にするなかで、自分の思いを確かめることができ、その言葉が活字になって出ると、未知の人に理解される喜びがともない、次第に自分の訴えに自信を持つようになって来ました。
そしてこのいとなみを通して、被爆者組織の礎となり、進んで原爆禁止の戦列へ加わって行く人々が続出しました。
この事実から考える時、被爆者の手記集『原爆に生きて』は、今日の被爆者組織の礎石であったといえましょう。 木々も葉も茂る樹木になれば、その双葉の姿は忘れられて行きます。
ちょうどそのように現在では、『原爆詩集』で有名になった峠三吉をのぞく、他の先駆的な人々の名は忘れられ、彼らが発見し積み重ねて来た努力や方法は、受けつがれていません。
川手も1955年の第一回原水爆禁止世界大会が、広島で開かれまでは、被爆者の会の中心的な活動者でしたが、盛り上がって来た被爆者救援の声は、同時に若い彼の持つ欠陥への批判や攻撃となってあらわれ、彼の意見の用いられない状態をつくり出して行きました。
しかし彼は、大学を二年も棒に振って青春を捧げたこの組織と、全く無関係になることは出来ませんでした。
1960年4月、遺書も残さず自殺して行くまでの間に、彼が私に送った言葉はつねに、被爆者の組織化の発端において、お互いの発見したあの方法が、捨て去られようとすることへの悲しみを訴えていました。
私の広島に対する思いは、1946年春の荒神小学校の集いのこと、そこから歩み出して、ついに被爆者組織の礎を作っていった無名の先駆者たちの行動と、自殺していった川手健の悲哀にみちた言葉とから解放されることはありませんでした。
…後略…
(『この世界の片隅で』山代巴編 岩波新書 1965年) 「まえがき」はまだ続きますが、別の機会に続きを紹介したいと思います。
この本を手に取って読んでほしいなと思います。
復刊した本なので「在庫僅少」と表示されています。
関連する動画を…
「八.一五を迎える」(NHKアーカイブス 1948年)
「あれから四年 原爆のヒロシマ」(NHKアーカイブス 1949年)
「五たび迎えた原爆の日 広島<時の話題>」(NHKアーカイブス 1950年)
「広島で第1回原水禁世界大会」(NHKアーカイブス 1955年)今朝の父の一枚です(^^)v
母と一緒に上がった桜のトンネルを写していました。
10分で巡る にっぽんの廃線「九州沖縄」(見逃し配信:4月3日まで)
一緒に見ていた父が、米軍の艦砲射撃の映像を見ていて
遠く離れた徳之島にまで艦砲射撃の音が聞こえたと話していました。
その時に12歳の母は鉄の雨の中を逃げていたのです。
今、ウクライナでは、ロシア軍の攻撃に市民が犠牲になっている。
「皇室アルバム」(MBS)を見ていた父が
愛子さまの会見する姿に
二十歳でこんなにしっかりと話をされるまでに成長された驚いていました。
事前に質問は出されているのだけど、
ゆっくりと一つ一つの言葉を丁寧に記者の方をまっすぐに向いて答えておられた。
メモを見ながら話をする政府の方や
情報番組に出演して人の意見に耳をかさず、自論を展開していると思ったら、
手のひらを返したように違うことを言っても平気な方には真似ができないのではと思った。
「愛子内親王殿下ご成年をお迎えになっての記者会見」(宮内庁)
事前に質問は出されているのだけど、
ゆっくりと一つ一つの言葉を丁寧に記者の方をまっすぐに向いて答えておられた。
メモを見ながら話をする政府の方や
情報番組に出演して人の意見に耳をかさず、自論を展開していると思ったら、
手のひらを返したように違うことを言っても平気な方には真似ができないのではと思った。
「愛子内親王殿下ご成年をお迎えになっての記者会見」(宮内庁)
>父から聞きましたのは、聞いてくださっている皆さんの顔、お一人お一人の顔を見ながら、目を合わせつつ、自分の伝えようという気持ちを持って話していくというのがコツだというふうに、他にもございますけれども、そのようなことをいろいろ教えていただきました。