2022年3月10日木曜日

三日も来ないと…

三日も来ないと一気に季節が進んでいるような気がしました。

新型コロナワクチンの副反応報告( ..)φ
注射を打ったところの痛みは昨日がピークかな?
痛みといっても歯を食いしばるほどの痛みではなかったです。
昨夜、寝るときに足が冷えてなかなか寝つかれなかったけど副反応かどうかは?
頭痛がしたり胸痛があったりしたけど日常的に起きるし…
今朝は、体温が36.5度。
肩の痛みも軽くなったのでリハビリ散歩に出かけました。
 1945年3月10日に東京大空襲で人びとは火の海の中を逃げ惑いました。

東京大空襲」(NHK 戦争証言アーカイブス)

これは過去の話ではない
“マリウポリの産院にロシア軍が攻撃” ゼレンスキー大統領」(NHK)
  東京大空襲忌(とうきょうだいくうしゅうき) 仲春 行事

 東京大空襲は、1945(昭和20)年3月10日の午前0時から始まり、300機以上ともいわれる超大型爆撃機B-29が東京を無差別攻撃した空襲である。
高度2000メートルで隊列を組んで侵入、木造家屋が密集する東京市街地の東半分を焼夷弾(しょういだん)攻撃で焼き払うという戦術であった。
約23万戸が焼け、死者12万人という被害がでた。
約100万人といわれる罹災者は寒空の中に焼け出された。
冬型の気圧配置で強い北西風により火勢が助長され、火災旋風(せんぷう)で飛び火があり、消火が遅れ、大火は3月10日夜まで続いた。
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
 天気予報などの気象情報は、戦争を遂行するために必要不可欠なものとして、研究され進歩してきた。
戦時には、自国の気象情報をしっかり隠しておき、敵国の気象情報を全力で手に入れる。
 太平洋戦争のとき、真珠湾攻撃が行われた1941年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平(ふじはらさくへい)台長は、陸軍大臣と海軍大臣から口頭で気象報道管制の実施を命令された。
それによって、天気予報は国民に伝えられなくなった。
1942年8月27日、長崎に上陸した台風で山口県を中心に1158名が死亡した。
 サイパンにアメリカ空軍が展開して、アメリカは日本を空襲しつつ広範囲の気象観測をしていた。
それをもとに日本の天気予報を作戦に利用した。
1945年3月9日夜から10日朝は、冬型の気圧配置が強まることを予想したので、目視が利き、爆撃しやすく、しかも風が強くて大火になりやすいと考えて、焦土(しょうど)作戦である東京大空襲を決行したと考えられる。
さらに、3月10日は陸軍記念日で、日本国民の士気を落とす効果もあると考えられる日であった(気象予報士 饒村曜<にょうむらよう>による)。
 アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923(大正12)年の関東大震災を検証し、焼夷弾による空襲が大規模な破壊を最も効果的に与えると結論していた。
具体的な空襲対象地域の選定を、人口密度、火災危険度、輸送機関、工場配置などを検討し、爆弾爆撃有効度が計算され、一覧表が作成されていた。
浅草区や本所区の高い人口密度が特に重視された。

  草々と書いて三月十日今日  川崎展宏
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)
Ⅱ空から恐怖がふってくる
[東京大空襲]1945年3月10日
 忘れられないあの日の記憶
  (85歳)

 私は1931(昭和6)年、東京で生れました。
この話は13歳の終わりの頃のでき事です。
私の家族は東京の目白に住んでいました。
 毎日毎晩B29が飛来し、焼夷弾を落し、主要都市は、焼け野原になっていました。
1945年3月9日の夕方、浅草に住んでいる従弟の実(みのる)ちゃんから「明日は中学の受験があるから、今日集団疎開先の宮城県から帰って来たよ。入学試験、頑張るね」と元気な声で電話がかかってきました。
祖父母も「合格するといいね」ととても喜んでいました。
(『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮しの手帖社 2018年)
 夕飯を食べている時、空襲警報が発令されました。
私達家族は、庭に造ってある防空壕に入りました。
壕の中は一坪ほどの広さで、スノコを置き、その上にゴザを敷いてある手造りの穴倉です。
夕食を壕の中で食べ終わった頃、父が「今日は下町の方に焼夷弾が落ちたらしい。佐川の家はどうかな」と母と話していました。
「佐川の家」とは、父の妹の嫁ぎ先、即(すなわ)ち実ちゃんの家なのです。
佐川の家は浅草で手広く商売をしていました。
そ家には、私と同い年の栄(えい)ちゃんと下に実ちゃん、省(しょう)ちゃん、統(おさむ)ちゃんと四人の男の子がいます。
私や私達と同年代なのでとても仲よしでした。
佐川の家が気になりましたが、なす術もなく翌日の朝を迎えました。
 翌早朝、叔父と栄ちゃんがススだらけで、壕の戸を叩きました。
「妻や子どもたちが来ていないか?」と言うのですが、来ていません。
何かイヤな予感がしました。
叔父の話では、家の近くまで火が迫ってきたので、叔母が三人の子ども達を連れて西の方(上野の方角)へ行き、そこから目白の家へ避難すると言って別れたのだそうです。
家は叔父と栄ちゃんの二人で守っていましたが、焼け落ち、諦めた二人は上野へ逃げ、そこから我が家に辿(たど)り着いたのでした。
 母が叔父達の朝食を準備していた時、父が私に「叔母ちゃんや子ども達を探しに行こう。一緒について来い」と言いました。
父は鉄カブトを、私は防空頭巾を肩にかけて家を出ました。
 目白駅から省線(しょうせん<編注:国鉄路線の旧称>)で大塚まで行き、市電に乗り換えました。
普段は錦糸堀(きんしぼり)まで行く電車なのに、その日は本郷真砂(まさご)町で皆降ろされました。
車外に出ると辺りは黒一色で、周りのビルも煤(すす)けて、所々に白い煙が立ち上がっていました。
強烈な焦げた臭いのする焼け野原を、二人で歩き始めました。
 途中で父が道端の防火用水をのぞくので、私もそっとのぞいてみました。
空の用水の中に黒い塊になった人を見つけました。
父が「この人は熱くて用水の水で冷やそうとしたのだね」と言っていましたが、私はそれを見ても「苦しかったのかな」とか、「かわいそう」などの感情が全く湧かなかったのです。
 佐川の家の近くまで行きましたが、家は跡形もなく焼け落ち、手がかりもありません。
父が「ダメか」と言って少し先へ進むと、一台の焦げたリヤカーが道の端に置いてあって、引き手の所にかすかに「佐川台紙店」の文字が見えました。
叔母達はそこにリヤカーを残して、上野の山の反対方向、隅田川へ逃げて行ってしまったのです。
 叔母と三人の従兄弟の遺体は、一ヶ月後に隅田川から引き上げられて、荼毘(だび)に付されました。
叔母は、自分の着物の帯をほどき、三人の子どもを自分の体としっかり結びつけていたので四人の遺体が一緒に確認できたということです。
一緒に逃げたお手伝いのサダちゃんは、三ヶ月後に東京湾で遺体で見つかりました。
襟元の名札で身元が確認されたそうです。
 あの日、十三歳の女の子に焼け野原で行方不明の叔母たちを探そうと言った父は、どんな気持ちだったのか、私は父が亡くなるまで、その時の気持ちを聞けませんでした。
また、焼け野原で遺体を見ても驚かなかった私自身の気持ちもよくわかりません。
 私は三十五年間、小学校の教師を務めましたが、この話は一度も生徒にしたことはありません。
 それなのに今なぜそのことを書こうとしたのか?
時の流れは早いものです。
戦争中の体験を語り継げる人が、どんどん少なくなっています。
私はその事実を子どもや孫の世代の人たちに残したいと思い、今までの封印を解くことにしました。
(『戦中・戦後の暮しの記録 君と、これから生まれてくる君へ』暮しの手帖社 2018年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワラヒワやジョウビタキの雄と雌も写していたのだけど
河津さくらが満開になっているので印刷を希望しました。

今日は、母の月命日、来月が命日です。
母が生前に話してくれていたのは
学校の朝礼で校長先生が大本営発表を報告されていたそうです。
その大本営発表を信じていたので、飛行機が飛んで来た時に
日本軍の飛行機だと思って手を振ると、アメリカ軍の戦闘機。
機銃掃射をうけて慌てて物陰に隠れたそうです。
母は、海が真っ黒に見えるくらいの米艦隊からの艦砲射撃を受け
雨のように降る砲弾の中を逃げ惑いました。
母は、戦争の映画を決して見ようとしませんでした。

「人種差別をやめろ」 フィギュアのプルシェンコが投稿〟(産経新聞 3月7日)
父も母も戦後、大本営発表が嘘まみれだったことを初めて知りました。

ロシアで新法成立、「戦争」「侵攻」と表現した報道に厳罰…外国メディアのサイト遮断〟(読売新聞 3月6日)
プーチンが大統領である限り、ロシア国民に真実は知らされないのだと思う。