2022年3月27日日曜日

一気に…

曇っていた空が、帰るころには青空になりました。
昨日まで蕾だったのが、一気に咲き出した(^^)v
このサクラは…
2008年の台風21号の暴風で折れた枝からも咲き出したp(^^)q
ナザレンコ・アンドリーさんのTwitterに

戦時を体験したこともなければ現地の人と話したこともない弁護士にはわからないかもだけど、
近くに砲弾の雨が降る中でも、子供が遊んで笑うし、
人は誕生日も祝うし、結婚式もあげるし、
犬と散歩したり音楽を楽しんだりもする。
人は辛い時こそ幸せを感じたいもの。
「僕の考えた正しい当事者論」要らない



ティムラズ・レジャバ駐日ジョージア大使のtwitterに(3月25日)

自国が戦争中である人間の気持ちに対して、追い打ちをかける発言を批判します。
日常の生活を脅かす「脅迫罪」にさえなりかねないでしょう。


なお、大使のtwitterには橋下徹氏の言葉が引用リツイートされていますが、転記しません。
ナザレンコ・アンドリーさんのコメント欄に紹介されていた 

Oriannalyla さんのTwitterに

In #Kharkiv subway, animators from Gorky Park came to cheer up the children

ゴーキーパークのアニメーターたちが
子どもたち抱きしめたりして、元気づけている画像や動画が紹介されています。
さらにコメント欄に映画『この世界の片隅に』のことがふれられていました。
3月15日に放送された
アナザーストーリーズ 運命の分岐点
「この世界の片隅に」~戦後世代が描く“戦争”~
には、戦争を知らない世代が戦争を描く姿が紹介されていました。
こうの史代さんがタイトルの参考にした『この世界の片隅で』(岩波新書)が
映画がきっかけで復刊したことも紹介されていました。
編者の山代巴さんの「まえがき」を転記したいと思います( ..)φ
当時の被爆者の方が置かれていた状況がわかります。

山代巴さんプロフィール」(広島県三次市)
 まえがき

 この本は、「広島研究の会」の最初の果実でありますが、「広島研究の会」はあとで述べる故川手健の方法と不可分に結びつているものであります。
会への発端は、東京にいる川手の友人たちが、彼の五年忌の集りを持った時にあったと思います。
同じころ広島でも彼の大学時代の友人の間で、現在の被爆者組織の分裂とはかかわりなく、被爆からの二十年の歴史を明らかにしようという動きがあって、両グループの共同研究が始まりました。
(『この世界の片隅で』山代巴編 岩波新書 1965年)
 私たちに共通するものは、お互いが被爆広島と深い関係を持っているということだけでした。
したがって研究の姿勢の最大公約数になるものは、被爆体験からの思索の歩みを追求しようという点に要約されます。
けれど集会ごとにみんなで討論し、新しい発見に到達しているうち、その驚きと喜びともつかないものが互いを結びつけ、いくつかの共同の足場をかためさせました。
 振りかえってみると、今では「原爆を売りものにする」とさえいわれている広島の被爆者たちの訴えも、地表に出るまでには、無視され抑圧された長い努力の時期を経過しています。
長田新編の『原爆の子』(岩波書店)が出版されたのは、1951年10月でしたが、この本が生まれるまでにも、先駆的な多くの努力が積み重ねられて来ました。
広島市の小学校に勤めていた中本剛教諭が、綴方教育を通して、被爆の体験や原爆症の苦しみを書く児童を育てはじめたのは、1947年のことで、これを契機に彼は同僚の協力をえて、原爆の子の作文教育運動をはじめています。
そしてここから生まれた佳作は、彼が参加していた「広島青年文化連盟」の、活動家たちの手によって、いろいろな機会に発表され、広島の子供たちに原爆体験記を書かせる活動の、素地を作っていったのです。
 峠三吉の『原爆詩集』(青木書店)が出版されたのは、1952年6月でしたが、この詩集が作られまでにも、多くの人々の努力が重ねられています。
彼も中本剛と同じ「広島青年文化連盟」の活動を通じて、社会的なテーマをうたう詩人に成長したのです。
私は1946年の春、招かれて彼らの連盟の発会式に、祝いの言葉を述べにいった日のことを、忘れることができません。
会場となったのは焼け残った荒神小学校の荒れ果てた教室でした。
(転記者注:青木書店版は品切れになっているようです)
挨拶に立った初代委員長の大村英幸は、当時広島文理科大学の学生でしたが、彼は軍事一色に塗りつぶされた戦時中の学内でトルストイの『戦争と平和』を読み、日本の戦争勢力に批判の眼を向けるようになった青年でした。
従って彼は上御一人(かみごいちにん)にすべてを捧げるべく育成された人々の中で、思想の自由がどれほど徹底的に奪い去られていたかを、身をもって体験した青年です。
彼にとっては日本の敗戦が民衆の抵抗によってもたらされたものでないことは、恥であり恨みであったのです。
彼は挨拶の最後にガレキと化した町を睨んで「僕はわれらの町をかくまで破壊したもののことを寸時も忘れることなく行動します」と言いましたが、その言葉は占領下の慎重な表現にもかかわらず、民衆の一切の思考を奪い去って来た戦争勢力への怒りと非人道的な原爆への怒りをこめた言葉と受け取れました。
私の用意していった講演口調の祝詞はどこかへ飛び、とっさにプロメテウスの勇気とパンドウラの希望の話が、咽喉を突いて出ました。
あの会場には怒りと勇気と希望だけが、よそそっていたように思えます。
それから間もなく委員長は、大村英幸よりずっと温和に見える峠三吉にかわりましたが、峠の中に大村の怒りがなかったのではありません。
二人はよりそって、じつに精力的にたくさんの文化サークルを作りました。
そして峠の場合、この社会的な行動を通じてはじめて、書斎にとじこもり勝ちな詩人から、民衆の詩人に変化して行ったのです。

つづく…
(『この世界の片隅で』山代巴編 岩波新書 1965年)
今朝の父の一枚です(^^)v

 永遠のみどり

ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ 
(『原民喜全詩集』岩波文庫 2015年)