でも、日差しはポカポカしていて途中で上着を脱ぎました。今日は雑節(ざっせつ)の
しゃ・にち【社日】
(「社」は土地の神の意)暦注で、春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日。
一説に、立春・立秋の後の第五の戊の日とも、旧暦二月・八月の甲(きのえ)の日ともいう。
土の神を祭って、春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼参りをする。
春のを春社、秋のを秋社という。
しゃじつ。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
ウクライナ国土の神様がウクライナの人びとを守ってくれますように!
今朝のニュースに
〝モルドバ駐日大使「1円でも寄付を」日本からの支援を呼びかけ〟(NHK)
モルドバは「ヨーロッパ最貧国の1つ」とも言われていますが、ソコラン大使は
「経済的な事情は避難者を受け入れない理由にはなりません。
これまでモルドバが多くの国から受けてきた支援を、
今度はウクライナからの避難者を受け入れ支えていくという形で私たちが担っていく番だと思っています」と話し、
受け入れを続ける姿勢を強調しました。
一方で、今後も受け入れが続けば財政悪化のおそれがあるとして
「日本の友人の皆さんには、1レイでも、1ドル、1円の寄付でもいいので支援をお願いしたい。
それがウクライナの人々を支援することにつながり、子どもたちの光になるのです」と述べ、
日本からの支援を呼びかけました。
ロシアを援助する予算を21億円も計上していたのは
田村議員が言うように安倍氏への忖度だと思う。
〝「安倍氏に忖度せず、ロシア経済協力見直しを」共産・田村氏〟(朝日新聞 3月11日)
21億円の予算のうち幾らかをモルドバに援助するべきだと思う。「反戦訴えたロシア国営テレビ職員の女性に3万円余りの罰金刑」(NHK)
この程度で釈放されたと思わない方がいい
NHK総合で午前2時21分から再放送される
「プーチン政権と闘う女性たち」を見ればわかるように
マリーナ・オフシャンニコワさんには、これから監視の目が常につきまとうと思う。
今回の処置で思い出すのは、田中正造が明治天皇に直訴したとき
2020年12月10日の記事に転記しましたように狂人扱いにされて翌日釈放されました。
「35カ所に訂正印、田中正造の直訴状7年ぶり公開 足尾銅山鉱毒問題」(朝日新聞 2021年10月15日)ドキュランドへようこそ「メルケルが残したもの」で
メルケル前首相のプーチン大統領への人物評価を紹介していました。
最初の会談で、プーチンは彼女の弱点を見つけ出していました。
それは犬。
そこにつけ込んで愛犬の黒いラブラドールを近づかせて楽しんだのです。
彼女は、じっと耐え、会談後に側近に語ったのは、
「彼の人となりも手法もKGBそのものだ」と。
プーチンは、女性だということもあってかメルケル前首相を侮っていたようですが、
プーチンは、女性だということもあってかメルケル前首相を侮っていたようですが、
政治家としての手腕を認めたようです。
一方、安倍前首相はどのように評価されていたのでしょうか。
その後、プーチンが改憲で「領土割譲禁止」を打ち出したことを見ると、
カネヅルでいいカモだと思われていたのではないでしょうか。
「改憲の領土割譲禁止、プーチン氏が北方領土を示唆」(日経新聞 2020年7月4日)オフシャンニコワさんのように戦争反対を戦時中に公言した日本の将校がいます。
大阪大空襲について紹介していた『大阪にも空爆があった』をより詳しく書いた
1945年(昭和20)3月、大阪市立扇町高女(現在扇町高校)を卒業するとともに、中部軍経理部の筆生(事務員)に採用された。
当時は高女や中学の在学年限が4年(本来は5年)に短縮されていたから、満16歳の女子軍属だったわけである。
勤務先は尼崎市民運動場を転用した神崎集積所であり、高射砲陣地などに供給する木材がグランドに集積されていた。 英子は、天満天神の近く、北区壺屋町2丁目(現在天満4丁目)に、姉の利子(当時22歳、現姓田和)と一緒に住んでいた。
母は5年前に亡くなり、硝子壜(がらすびん)製造卸業を手広く営んでいた父広太郎は幼い弟を連れて、宝塚からさらに山奥の名塩(なじお<現在西宮市>)に疎開していた。
英子が軍属になったものだから、姉の利子も大阪にとどまって、一緒に暮らしていたわけである。
英子は、この壺屋町の自宅から、国鉄神崎駅(現在尼崎駅)近くの神崎集積所に通勤していた。 ところで、この神崎集積所の所長が木村敏男という少尉だった。
この少尉の話をするとき、新屋英子の目はいまでもひときわ輝く。
軍国少女にとってあこがれの少尉さんだったというだけの理由ではない。
英子の戦後の生き方に大きな影響を与えた人物だったからである。
大阪商科大学(現在大阪市立大学)卒業の主計将校木村敏男は、反戦・反軍思想の持ち主だった。
部下の兵士や軍属、動員学徒たちに「この戦争は負ける。ガソリンがなくなって木炭トラックになり、ついには荷車で木材を運ぶようになったではないか。経済力が落ち、戦力がなくってきている」と公然と話していたという。
そのため、動員学徒のなかには「少尉殿、左翼の話はやめて下さい」というの者がいたのを、新屋英子は覚えている。
姉の利子も木村少尉と会っているのだが、そのとき、次のような会話がかわされた。
木村が利子に「こんな戦争は負ける」と言った。
利子も「私も負けると思います」と言った。
木村は顔をほころばせて「どうして負けると思うか」ときいた。
利子は「夢で見たのです。絶対負けると思うわ」と答えた。 こんなこともあった。
司令部から経理検査にきた佐官が「軍人勅諭捧読に何分かかるか」とたずねたとき、そんなことをしたこのない木村少尉はでたらめに答えた。
おかげで「軍人勅諭も捧読せず、軍紀紊乱し……」というような講評を受けた。
神崎集積所では捕虜を荷役に使っていたが、木村は彼らのために近くの住友金属プロペラ製造所から残飯をもらってきたり、他から煙草を調達したりした。
空襲時には捕虜を防空壕ではなく、物置小屋に収容せよとの命令がでたとき、木村はそれをうけいれなかった。 8月15日、木村少尉は木材の伐採と搬出のために、丹波篠山(ささやま)にいた。
新屋英子も随行していた。
役場で終戦の詔書の録音放送をきいた。
ききおわるや、木村は役場職員や動員学徒の前で、襟の階級章をひきちぎり、軍刀を投げ捨てて、「これからはわれわれの時代だ」と言ったとは、英子の記憶である。
英子はなにがおこったのかとびっくりして、「この人、頭がおかしくなったんとちがうか」と思ったとのことである。
木村にこの話を確かめると、「帰阪してから軍刀を外し、頭髪を伸ばしはじめただけなのだが……。それで上官に叱られた」という。
どちらにしても、英子のような軍国少女に大きな衝撃を与えた奇異な行動だった。
しかし、戦争が終わってしばらくたつと、木村少尉の言動の意味が英子にはしみじみと理解できるようになった。
「身世打鈴」を演じ続ける新屋英子には、このような学徒出身将校との出会いがあったのである。
戦後、木村敏男は母校にもどり、大阪市立大学教授となり、いまは大阪経済大学で産業論を講じている。
(『改訂大阪大空襲 大阪が壊滅した日』小山仁示 東方出版 1985年)今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀がしっかりと物事をみつめないといけないよと言っているみたい(^_-)-☆
母は、日本が負けると思ったときのことを話してくれていました。
昭和8年生まれですから13歳ころに米軍が沖縄に上陸しました。
母が目撃したのは米軍がキャンプを移動するときに
その後、プーチンが改憲で「領土割譲禁止」を打ち出したことを見ると、
カネヅルでいいカモだと思われていたのではないでしょうか。
「改憲の領土割譲禁止、プーチン氏が北方領土を示唆」(日経新聞 2020年7月4日)オフシャンニコワさんのように戦争反対を戦時中に公言した日本の将校がいます。
大阪大空襲について紹介していた『大阪にも空爆があった』をより詳しく書いた
『改訂大阪大空襲 大阪が壊滅した日』に紹介されていたエピソードです。
新屋英子さんの一人芝居を見たことがあります。
〝一人芝居「シンセタリョン」2000回 女優の新屋英子さん〟(産経新聞 2016年5月10日)
芝居を見る前に新屋英子さんを知ったのが映画「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)でした。第三章 六月空襲の激烈性
軍国少女と反戦将校
新屋英子(しんやえいこ<関西芸術座>)は、一人芝居「身世打鈴(しんせたりょん)」(身の上話)の女優として知られている。
彼女は白いチマ・チョゴリを着て、たった一人でオモニ(母親)を演じる。
そのオモニに在日朝鮮人の苦しみ、悲しみ、そして喜びが集約され、日本と朝鮮の歴史が的確に表現される。
「船賃を皆で集めますから、ハルモニ(お婆さん)どうぞ故郷の済州島に帰って下さい」とか「日本人にえらい目にあわされた。あんたもがんばりや」と、感きわまった観客から話しかけられたこともある。
1973年(昭和48)4月の初演以来、12年間で公演360回をこえ、約8万人の日本人・朝鮮人の胸をうち、人気はますます高まっている。
(『改訂大阪大空襲 大阪が壊滅した日』小山仁示 東方出版 1985年)
この新屋英子も、40年前は女子軍属として張り切っていた軍国少女だった。新屋英子さんの一人芝居を見たことがあります。
〝一人芝居「シンセタリョン」2000回 女優の新屋英子さん〟(産経新聞 2016年5月10日)
芝居を見る前に新屋英子さんを知ったのが映画「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)でした。第三章 六月空襲の激烈性
軍国少女と反戦将校
新屋英子(しんやえいこ<関西芸術座>)は、一人芝居「身世打鈴(しんせたりょん)」(身の上話)の女優として知られている。
彼女は白いチマ・チョゴリを着て、たった一人でオモニ(母親)を演じる。
そのオモニに在日朝鮮人の苦しみ、悲しみ、そして喜びが集約され、日本と朝鮮の歴史が的確に表現される。
「船賃を皆で集めますから、ハルモニ(お婆さん)どうぞ故郷の済州島に帰って下さい」とか「日本人にえらい目にあわされた。あんたもがんばりや」と、感きわまった観客から話しかけられたこともある。
1973年(昭和48)4月の初演以来、12年間で公演360回をこえ、約8万人の日本人・朝鮮人の胸をうち、人気はますます高まっている。
(『改訂大阪大空襲 大阪が壊滅した日』小山仁示 東方出版 1985年)
1945年(昭和20)3月、大阪市立扇町高女(現在扇町高校)を卒業するとともに、中部軍経理部の筆生(事務員)に採用された。
当時は高女や中学の在学年限が4年(本来は5年)に短縮されていたから、満16歳の女子軍属だったわけである。
勤務先は尼崎市民運動場を転用した神崎集積所であり、高射砲陣地などに供給する木材がグランドに集積されていた。 英子は、天満天神の近く、北区壺屋町2丁目(現在天満4丁目)に、姉の利子(当時22歳、現姓田和)と一緒に住んでいた。
母は5年前に亡くなり、硝子壜(がらすびん)製造卸業を手広く営んでいた父広太郎は幼い弟を連れて、宝塚からさらに山奥の名塩(なじお<現在西宮市>)に疎開していた。
英子が軍属になったものだから、姉の利子も大阪にとどまって、一緒に暮らしていたわけである。
英子は、この壺屋町の自宅から、国鉄神崎駅(現在尼崎駅)近くの神崎集積所に通勤していた。 ところで、この神崎集積所の所長が木村敏男という少尉だった。
この少尉の話をするとき、新屋英子の目はいまでもひときわ輝く。
軍国少女にとってあこがれの少尉さんだったというだけの理由ではない。
英子の戦後の生き方に大きな影響を与えた人物だったからである。
大阪商科大学(現在大阪市立大学)卒業の主計将校木村敏男は、反戦・反軍思想の持ち主だった。
部下の兵士や軍属、動員学徒たちに「この戦争は負ける。ガソリンがなくなって木炭トラックになり、ついには荷車で木材を運ぶようになったではないか。経済力が落ち、戦力がなくってきている」と公然と話していたという。
そのため、動員学徒のなかには「少尉殿、左翼の話はやめて下さい」というの者がいたのを、新屋英子は覚えている。
姉の利子も木村少尉と会っているのだが、そのとき、次のような会話がかわされた。
木村が利子に「こんな戦争は負ける」と言った。
利子も「私も負けると思います」と言った。
木村は顔をほころばせて「どうして負けると思うか」ときいた。
利子は「夢で見たのです。絶対負けると思うわ」と答えた。 こんなこともあった。
司令部から経理検査にきた佐官が「軍人勅諭捧読に何分かかるか」とたずねたとき、そんなことをしたこのない木村少尉はでたらめに答えた。
おかげで「軍人勅諭も捧読せず、軍紀紊乱し……」というような講評を受けた。
神崎集積所では捕虜を荷役に使っていたが、木村は彼らのために近くの住友金属プロペラ製造所から残飯をもらってきたり、他から煙草を調達したりした。
空襲時には捕虜を防空壕ではなく、物置小屋に収容せよとの命令がでたとき、木村はそれをうけいれなかった。 8月15日、木村少尉は木材の伐採と搬出のために、丹波篠山(ささやま)にいた。
新屋英子も随行していた。
役場で終戦の詔書の録音放送をきいた。
ききおわるや、木村は役場職員や動員学徒の前で、襟の階級章をひきちぎり、軍刀を投げ捨てて、「これからはわれわれの時代だ」と言ったとは、英子の記憶である。
英子はなにがおこったのかとびっくりして、「この人、頭がおかしくなったんとちがうか」と思ったとのことである。
木村にこの話を確かめると、「帰阪してから軍刀を外し、頭髪を伸ばしはじめただけなのだが……。それで上官に叱られた」という。
どちらにしても、英子のような軍国少女に大きな衝撃を与えた奇異な行動だった。
しかし、戦争が終わってしばらくたつと、木村少尉の言動の意味が英子にはしみじみと理解できるようになった。
「身世打鈴」を演じ続ける新屋英子には、このような学徒出身将校との出会いがあったのである。
戦後、木村敏男は母校にもどり、大阪市立大学教授となり、いまは大阪経済大学で産業論を講じている。
(『改訂大阪大空襲 大阪が壊滅した日』小山仁示 東方出版 1985年)今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀がしっかりと物事をみつめないといけないよと言っているみたい(^_-)-☆
母は、日本が負けると思ったときのことを話してくれていました。
昭和8年生まれですから13歳ころに米軍が沖縄に上陸しました。
母が目撃したのは米軍がキャンプを移動するときに
山のように食糧の缶詰を残して行ったそうです。
日本軍兵士は、アメリカ軍兵士と戦うのではなく、
その食糧を得るために夜間に出撃(?)していたのを見て
日本は負けると思ったといいます。
歴史探偵「缶詰は見た 日本近現代史」(2月2日放送)でも紹介していましたが
日本は鉄や銅などの金属不足で缶詰を生産することができなかった。
アメリカ軍は、兵士の食糧の缶詰を大量に製造し士気を高めていました。
「銃後国民の銅鉄献納<週間話題>」(NHKアーカイブス 1941年)
シリーズ 私にとっての3・11 「福島からの伝言」で早川篤雄さんが語っていたように
寺の金仏や鐘が人を殺すための鉄砲の弾や爆弾などになっていた。
日本軍兵士は、戦闘で戦死するよりも
「飢餓、自殺強要、私的制裁ーー戦闘どころではなかった旧日本軍」(森永輔 日経ビジネス 2019年8月14日)
ニュースを見ているとロシアも
〝ロシア軍は「食料不足に士気低下」、戦闘前に部隊ごと降伏する例も…米高官指摘〟(読売新聞 3月2日)
日本軍兵士は、アメリカ軍兵士と戦うのではなく、
その食糧を得るために夜間に出撃(?)していたのを見て
日本は負けると思ったといいます。
歴史探偵「缶詰は見た 日本近現代史」(2月2日放送)でも紹介していましたが
日本は鉄や銅などの金属不足で缶詰を生産することができなかった。
アメリカ軍は、兵士の食糧の缶詰を大量に製造し士気を高めていました。
「銃後国民の銅鉄献納<週間話題>」(NHKアーカイブス 1941年)
シリーズ 私にとっての3・11 「福島からの伝言」で早川篤雄さんが語っていたように
寺の金仏や鐘が人を殺すための鉄砲の弾や爆弾などになっていた。
日本軍兵士は、戦闘で戦死するよりも
「飢餓、自殺強要、私的制裁ーー戦闘どころではなかった旧日本軍」(森永輔 日経ビジネス 2019年8月14日)
ニュースを見ているとロシアも
〝ロシア軍は「食料不足に士気低下」、戦闘前に部隊ごと降伏する例も…米高官指摘〟(読売新聞 3月2日)