2022年3月29日火曜日

寒の戻り

今朝は、冬に逆戻りしたような寒さでしたが
明日は、グ~ンと気温が上がる。
と、思ったら金曜日はまたもや気温が下がるという不安定な天気。
 冴返(さえかえ・さえかへ)
  冱返(いてかえ)る・しみ返る・寒返(かんかえ)る・寒もどり

「冴ゆる」とは、光、光沢、色、音響、寒気などが澄みとおることで、そこから転じて頭脳や面貌やわざのあざやかさなどにも言う。
冬の季語とされているのは、特にあざやかな寒気や冷気について言ったもので、光や色や音について言う場合にも、冷たさが伴っている。
 「冴返る」は、春になって、いったんゆるんだ寒気が、寒波の影響でまたぶりかえすことである。
余寒、春寒を意味する。
(『基本季語五〇〇選』山本健吉 講談社学術文庫 1989年)
 藤原家隆の歌「冬の歌の中に しぐれつる宵の村雲冴えかへり更け行く風に霰(あられ)降るなり」(『新後拾遺集』第六冬)などは、すっかり澄みきる意で、冬の歌に詠み、新古今時代には必ずしも春の季語と決っていなかった。
その後、藤原為家の歌に「余寒の心を さえかへり山風あるゝ常磐木に降りもたまらぬ春の沫雪」(『玉葉集』巻一春上)などと、余寒を詠み、春の季感を持ち出した気配がある。
連歌時代になって、一月(初春)のものとされ、あるいは二月辺りまでも言う、とされた。
…後略…
(『基本季語五〇〇選』山本健吉 講談社学術文庫 1989年)
先日、紹介した『この世界の片隅で』に

挨拶に立った初代委員長の大村英幸は、当時広島文理科大学の学生でしたが、彼は軍事一色に塗りつぶされた戦時中の学内でトルストイの『戦争と平和』を読み、日本の戦争勢力に批判の眼を向けるようになった青年でした。

と、トルストイに大きな影響を受けたことが書かれていました。
内田莉莎子さんの『ロシアの昔話』には、

トルストイの再話はすばらしいのですが、短い動物昔話などはロシア語の完成度の高さ故に、翻訳が絶望的に困難になるということもあります。
平たくいえば、訳すと味もそっけもなくなってしまう場合がままあるのです。


と、トルストイの翻訳の難しさが書かれていました。
  訳者のことば

 芸術は一部特権階級の玩弄物(がんろうぶつ)であってはならず、万人にとっての心の交流の場であるべきだという思想に基づいて書かれたトルストイの民話は、老若男女を問わず、あらゆる階層の人々に親しみやすい平易さと簡潔さの中に深い真理が含まれていて、全人類にとっての最高の教科書になっていると思う。
現にこの私(わたくし)も、民話によってトルストイと出会い、トルストイによって、彼自身の著作を含めての百花繚乱(りょうらん)の読書の世界へ案内された。
そのとき以来私(わたし)の、≪ひとり燈火(ともしび)のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする≫心豊かな時間が始まったのである。
その心豊かな時間は私を絶対的非暴力主義者とし、暴力機構を背景に民衆の上に権力をふるう人々と相容(あいい)れぬ者とした。
そのため私にとって、世俗的栄達の道は固く鎖(とざ)されたのである。
(『トルストイの散歩道1 人は何で生きるか』レフ・トルストイ著 北御門二郎訳 あすなろ書房 2006年)
 世俗的栄達の道は鎖されたとはいえ、それと引き替えに私は数多くの友を得た。
ことにトルストイの作品の翻訳を世に問いはじめて以来、数多くの友が周囲に集まり、全国から心温まる便りが寄せられるようになった。
(はる)けくも来つものかなの感慨とともに、トルストイの民話との出会い以来今日までの半世紀あまりを振り返るとき、トルストイは私を、人間としての真の幸福の道へ案内してくれたのだとつくづく思う。
 世界文学の中でも極(きわ)めてユニークな立場にあるトルストイの民話は、一言をもってこれを蔽(おお)えば≪一宗(しゅう)一派(ぱ)に捉(とら)われぬ純粋理性宗教としてのキリスト教のすぐれた解説書≫であり、≪神の国を地上にもたらすための平和革命の書≫である。
そしてそれはそのまま、仏陀の慈悲に、孔子の仁(じん)に、老子の道に通じている。
 それゆえ私は、この書がなるべく多くに日本人に読まれるよう願わざるを得ない。
ことにそれが、現場の良心的教師によって、勇気をもって学校教育に取り入れられたらどんなに素晴らしいかと思う。
自由と人権と平和を目指す新憲法下の教育理念に照らしても、これほどふさわしい事があろうか!
≪善(よ)き教育こそ、あらゆる善事(ぜんじ)の源(みなもと)である。(イマヌエル・カント)≫
 1993年 北御門(きたみかど)二郎
 解説にかえて

 レフ・トルストイというと、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などのほか、膨大な作品を残した、ロシアの文豪として知られています。
 けれども、一方で、子どもたちにわかりやすい、いくつかの民話も書いているのはご存知でしょうか?
この作品の翻訳者である父、北御門二郎が、トルストイの作品に最初に出会ったのが、十七歳の時、友人の本棚からなにげなく取り出した、この民話、『人は何で生きるか』でした。
これは、まさに運命の出会いともいうべきもので、その後の訳者の生き方に大きな影響をあたえました。
 トルストイはこの作品で、人が生きていくうえで何が大切かということを簡潔に述べています。
 神がミハイルにあたえた「人の心の中に何があるか」、「人は何によって生きるのか」、「人が知る力をあたえられていないのは何か」という三つの課題は、寒さの中、裸で凍えているひとりの男を、どうしても見て見ぬふりをすることのできなかったセミヨンとマトリョーナの心の中にあったのは「愛」であるということ、両親を亡(な)くした双子が生きのびることができたのも、我が子と同じようにお乳を含ませているうちに、百姓の妻の心に自然に湧き出た「愛」があったからだということと、そして、もう一つは人の生き死には誰にも決められないということです。
一年先までゆがみもほころびもしない靴を注文した男がその日のうちに死んでしまうということは、人は、自分の死を知る力があたえられていないということ、つまり私たちは、自分がいつ死んでも悔いのない生き方をしなければいけないということを教えてくれます。
 人間はややもすると、つい目先のことにとらわれ、楽な方へまちがった方へと流されてしまいがちです。
トルストイ自身もそうだったのではないでしょうか。
そして、悩み苦しみながら、生きることの意味を追求し続けた結果がこの作品に凝縮されているのだと思います。
この作品が十七歳の父の魂に衝撃をあたえた訳もじつはそこにあったのでしょう。
 訳者である父も、ごく普通の人間でしたから、一生の間にずいぶん悩み迷い苦しんだこともあったようです。
2004年の夏、九十一歳でその生涯を終えた訳者が、自分の死後読んでほしいと言い残した若いころの日記の中に、そのようすが克明に記されていました。
 人はみな悩み苦しみます。
けれども、そのとき道しるべがあるかどうかで、大きく変わってくるのではないかと思います。
そして、父にとって、その道しるべこそ、レフ・トルストイその人でした。
そして、その道しるべによって力を得、軌道修正していたことが、日記のあちこちに見て取れました。
訳者はこの作品が、一人でも多くの方の道しるべとなることを、きっとあの世で願っていることとと思います。
   2006年3月  小宮楠緒(なお)
北御門 二郎(きたみかど じろう)
1913年、熊本県生まれ。
東京帝国大学(現東京大学)英文科中退。
1938年、トルストイから学んだ「絶対的非暴力」を貫き、兵役を拒否。
以後、「トルストイも言うように農耕が一番罪がない」と、
熊本県上村湯山にこもり、農業を営むかたわら、トルストイの研究・翻訳にその人生を捧げた。
1979年、「トルストイ3部作『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』『復活』(東海大学出版会)の翻訳により、第16回日本翻訳文化賞を受賞。
著書に『ある徴兵拒否者の歩み』(地の塩書房)
訳書に『イワン・イリイッチの死』(地の塩書房)、
『文読む月日』(筑摩書房)など、多数のトルストイ作品がある。
(『トルストイの散歩道1 人は何で生きるか』レフ・トルストイ著 北御門二郎訳 あすなろ書房 2006年)

北御門二郎 トルストイ翻訳家」(NHKアーカイブス)

子どもの本の店 竹とんぼ」(熊本県)

小宮由 こみやゆう Yu Komiya」(Instagram)
今朝の父の一枚です(^^)v

昨日、下から写していたのですが、今朝は、今年初めて上ったそうです。
階段がこんなに長かったかなぁと言っていました。
母と一緒の頃は、母の方が元気だった元気に上っていました。

読書欄で香山リカさんが薦めてくださって本

31 久しぶりに親戚の大人に会うと、みんなが「あっという間の1年だった」と言う

それは…ジャネーの法則
 学校の夏休みはあっという間に感じられるかもしれませんが、大人の感覚だともっと早いです。
哲学者のジャネが発案し、甥で心理学者のジャネが本で紹介した「感じられる時間の長さは、年齢と反比例の関係にある」という説は、「ジャネーの法則」と呼ばれています。
10歳の1年は全人生の10分の1ですが、50歳の1年は全人生の50分の1しかありません。
つまり、50歳の1年は10歳の5倍も早く感じられるのです。
(『大人も知らない? ふしぎ現象事典』「ふしぎ現象」研究会 マイクロマガジン社 2021年)