2022年4月1日金曜日

新年度

今日から新年度。
各地で入社式などが行われている。

新年度 本土復帰50年の節目の年 県庁の新人職員に辞令交付」(沖縄 NHK)
“うれしい”新学期」(NHK放送史 昭和24年)
映像は昭和24年の新学期。
当時は教室が不足し、
今の教室の半分以下の部屋に63人の子どもが密集する事態も。
中にはなんと便所を改造した教室まで!
昨日から雨と風で桜が散り始めました。
日差しは暖かいのだけど、雲が陽を遮ると冷たい風…
天和・貞享
 さまざまの事おもひ出す桜かな (笈日記)

 『笈日記』には「同じ年の春にや侍らむ、故主君蟬吟(せんぎん)の庭前にて」と前文がある。
また真蹟懐紙に、「探丸子(たんがんし)のきみ別墅(べっしょ)の花みもよほさせ玉(たま)ひけるに、むかしのあともさながらにて」と前書きがある。
探丸は芭蕉の故蟬吟の子、良長の俳号で、その別墅(しもやしき)は玄蕃町のあり、八景亭と称した。
芭蕉はこの時、探丸の花見の席に招かれてこの句を作り、探丸は脇句「春の日はやくふでに暮行」と付けた。
 芭蕉は、若い日のことを思いだし、感無量の体(てい)で、結句さまざまの思いをこめてこう詠むより仕方がなかった。
こういう句は、句の善悪よりもその場に臨んだ作者の言語に絶した思いを汲みとるべきものである。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
4月1日 昭和13年(1938) 国家総動員法を公布(5月5日施行)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

戦時下の生活」(中学・高校)

(「手と足をもいだ丸太にしてかへし  鶴 彬」つづき)

 ともかく、そういうファッシズムの嵐のまっただ中。
 犠牲者をさがし求めるのに鵜(う)の目鷹(たか)の目の特高が、川柳だけを拾いわすれていたのだから、川柳としては、嬉しいような腹立つような次第。
 なんで特高がそれを知ったかというと、どうやら、同じ仲間の川柳誌が密告(さし)たらしいのである。
鶴彬は『川柳人』という柳誌に載せていたのだが、『鶴彬全集』の参考資料編によると、川柳誌『三味線草』に
「時局に所(ママ)する日本人として愛国に至情に欠くるものなきやを憂(うれ)ふる」
「現下、国民精神総動員、尊法週間等の叫ばれる時、吾等の柳壇を暗くするこれ等の徒に対しては、更に更に監視を要するのである。
 しかし依然として反省せざる場合は、吾人は別の手段によつて善処したいと思ふ」
 と、『川柳人』と鶴彬の作品を難じて恫喝(どうかつ)している。
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)
 その「別の手段」によるためかどうか、「特高」はあわてて『川柳人』をぱらぱらめくって驚倒した。
特高のオッサンたちは愕然としたにちがいないと思う。
 お国のために戦地に赴(おもむ)くのを最高の名誉、と勇んでいる戦時下に、<手と足をもいだ丸太にしてかへし>とは何ごとや、と目をむいたことであろう。
 それだけではない。
その本にはほかに

  高粱(かうりやん)の実りへ戦車と靴の鋲(びやう)

  屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい

  出征の門標があつてがらんどうの小店

  万歳とあげていつた手を大陸へおいて来た

  胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき
            (鶴 彬)
 などというのがあるではないか。
 特高のオッサンらは、雑誌を叩いて、ようもこんな作品を今まで野放しにしとったもんやと怒号したのではないかと思われる。
 中国大陸に高粱はみのっている。
平和な農村の高粱畠を容赦なく荒らす戦車と靴は日本軍のそれなのだ。
その侵略のさまを写すニュース映画は、皇軍大勝利の勇ましいシーンばかりで、草むす屍(かばね)、水漬(みづ)く屍は出てこない。
 名もなき兵と屍と朽(く)ち、あるいは手足を失い、その手は大陸の土となるのである。
 男が遺骨となってかえるのに、そのころ女は胎動を感じているではないか。
父の顔を知らぬ子が生まれようとしている。
この民衆の痛哭(つうこく)
 特高らはあわてて鶴彬をマークし、その作品を読み漁(あさ)る。
  タマ除(よ)けを産めよ殖(ふ)やせよ勲章をやらう

  稼(かせ)ぎ手を殺してならぬ千人針

  ざん壕で読む妹を売る手紙
        (鶴 彬)

 農村は疲弊しきって娘の身売りがつづく。
貧農の娘たちは紡績工場などへ周旋人によってつれていかれるが、そこでまち受けているのは「女工哀史」である。
  「工場は地獄よ主任が鬼で
      廻る運転火の車
   籠(かご)の鳥より監獄よりも
      寄宿ずまひはなほ辛(つら)い」
 などと女工小唄にある通りである。
鶴彬は悲惨な紡績女工たちに代って川柳のピストル、川柳の匕首をブルジョアや国家権力へつきつける。
  玉の井に模範女工のなれの果て

  みな肺で死ぬる女工の募集札

  ふるさとは病(やま)ひと一しよに帰るとこ

  修身にない孝行で淫売婦

  お嫁にゆく晴衣(はれぎ)こさへるのに胸くさらせてゐる

  ふるさとへ血へど吐きに帰る晴衣となりました

  吸ひにゆく――姉を殺した綿くづを

  売られずにゐるは地主の阿魔(あま)ばかり
       (鶴 彬)
 当時の日本の資本主義の中で、綿製品は目玉の産業であったが、これは紡績労働者の低賃金に支えられている。
<凶作の村から村へ娘買ひ>という鶴の句にもあるように、くりくりと健康な村の娘たちが周旋人の手であつめられて紡績工場へ送られるが、何年かたつと頬(ほお)の色も褪(あ)せ、コンコンと咳(せ)いて肺病やみの身で村へ戻るか、または淪落(りんらく)の淵に沈む。
 劣悪な環境――もうもうたる綿ぼこり。
粗末な食事。日常生活のきびししがらみ。
 鶴彬は、無名の兵士の死に泣くように、無数のニッポン庶民の娘たちのために泣くのである。

つづく…
(『川柳でんでん太鼓』田辺聖子 講談社 昭和60年)

ウクライナ難民を狙う性的人身取引業者、ポーランド国境で活動」(BBC 3月29日)

ウクライナの子ども150万人が国外退避、人身売買を懸念 国連」(CNN 3月20日)

戦争は、いつも女性や子どもたちが犠牲になる。
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♀の目がかわいいなぁと話していました。

本土復帰前の沖縄 基地建設労働者の4割が奄美出身者」(鹿児島NHK 3月30日)

以前、父と母はどうして出会ったのか聞いたことがあります。
昭和28年(1953)12月25日に本土復帰するまで、沖縄への往来しかできなかったので
沖縄へ仕事を探しに行っていたそうです。

奄美大島 本土復帰へ」(NHKアーカイブス 1953年)