2021年12月10日金曜日

日差しがないと…

歩き出した時は曇り空で日差しがなく寒かったです。
 ハシボソガラスがクチバシに歯が並んでいるみたい(*´▽`*)
何の実かな?
草の中に隠してご満悦な顔をしているような…
このような行動を「貯食(ちょしょく)行動」というそうです。

これまでにも何度か目撃しています(たとえば2016年1月7日の記事
 岩波書店のTwitterに

今日は寺山修司の誕生日(1935年)。
前衛芸術家として短歌・演劇・映画など多方面で活躍。
劇団「天井桟敷」を結成し、小劇場運動を推進しました。
没後30年を経て今もなお多くの人びとに影響を与え続けています。

岩波書店発行、寺山修司関連の書籍
 血と麦
 私のノオト


 とうとう信じられなかった世界が一つある。
そしてまた、私の力不足のゆえに今も信じきれないもう一つの世界があるように思われてならない。
多分、それはまだ生まれ得ない世界なのかも知れないが、しかし私はその二つの間にはさまれて耳をそばだてている。
「今日、人類の運命は政治を通してはじめて意味をもつ」と言ったトーマス・マンの言葉がいまになって問題になっている。
 だがいったい、そんな警告がどんな意味をもっているだろうか。
私は決して「永遠」とか「超越性」とかにこだわるのではないが「人類の運命」のなかに簡単に「私」をひっくるめてしまう決定論者たちをにがい心で見やらない訳にはいかない。
 だが同時にビートニックス詩人スチュアート・ホルロイドのように「ぼく自身の運命、世界からもほかの人たちからも切り離されたぼくだけの運命がある」と思うのでもないのだ。
 むしろ、そうした一元論で対立としてとらえ得ないところに私自身の理由があるように思われる。
(『寺山修司全歌集』講談社学術文庫 2011年)
 大きい「私」をもつこと。それが課題になってきた。
「私」の運命のなかにのみ人類が感ぜられる……そんな気持で歌をつくっているのである。
第一歌集『空には本』の後記を読むと、まるで蕩児帰る、といった感がする。
そちこちで勝手気ままな思考を醗酵させて帰ってくると、家があり部屋があるように、「様式」が待ちかまえていると私は思っていたらしい。
 私はコンフェッション、ということを考えてもみたこともなかった。
だが、私個人が不在であることによってより大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力が望ましいのだ。
私はちかごろSoulという言葉が好きである。
 心、鬼、そんなものを自分の血のなかに、行動のバネのようなもとして蓄積しておきたい、と思っている。
 いま欲しいもの、「家」
 いましたいこと、アメリカ旅行
 いませねばならなぬこと、長編叙事詩の完成。
いま、書きたいもの、私の力、私の理由。
そしていま、たったいま見たいもの、世界。
世界全部。
世界という言葉が歴史とはなれて、例えば一本の樹と卓上の灰皿との関係にすぎないとしてもそうした世界を見る目が今の私には育ちつつあるような気がするのだ。
  今日までの私は大変「反生活的」であったと思う。
そしてそれはそれでよかったと思う。
だが今日からの私は「反人生的」であろうと思っているのである。

  一九六二年夏 小諸にて
(『寺山修司全歌集』講談社学術文庫 2011年)
 (「蜜柑」つづき)

 しかし汽車はその時分には、もう安々(やすやす)と隧道(トンネル)を辷(すべ)りぬけて、枯草の山と山との間に挟まれた、或貧しい町はずれの踏切りに通りかかっていた。
踏切りの近くには、いずれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであろう、唯一旒(いちりゅう)のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色を揺っていた。
(『蜜柑・尾生の信 他十八篇』芥川龍之介 岩波文庫 2017年)
やっと隧道を出たと思う――その時その䔥索(しょうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押(めじろお)しに並んで立っているのを見た。
彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思う程、揃って背(せい)が低かった。
そうしてまたこの町はずれの陰惨たる風物と同じような色の着物を着ていた。
それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉(のど)を高く反(そ)らせて、何とも意味の分らない喊声(かんせい)を一生懸命に迸(ほとばし)らせた。
するとその瞬間である。
窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽(たちま)ち心を躍らすばかり暖(あたたか)な日の色に染まっている蜜柑(みかん)が凡(およ)そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上はばらばらと空から降って来た。
私は思わず息を呑んだ。
そうして刹那に一切を了解した。
小娘は、恐らくこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐(ふところ)に蔵(ぞう)していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報(むく)いたのである。
  暮色を帯びた町はずれの踏み切りと、小鳥のような声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に乱落(らんらく)する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。
が、私の心の上には、切(せつ)ない程はっきりと、この光景が焼きつけられた。
そうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗(ほがらか)な心もちが湧き上がって来るのを意識した。
私は昂然(こうぜん)と頭を挙げて、まるで別人を見るようにあの小娘を注視した。
小娘は何時かもう私の前の席に返って、相不変(あいかわらず)(ひび)だらけの頬を萌黄色の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。…………………

 私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅(わずか)に忘れる事が出来たのである。
    ――大正八(1919)年四月作――
解 説  石割 透
…前略…

「ある踏切の横木の上には小鳥のように子供が四五人ならんで腰かけていた。一人の貴婦人らしい人が菓子の箱を窓から投げてやった。箱の蓋がぱっと開いて中から細く切った色紙と菓子とが花火のようにこぼれ出た。子供は一度に声を挙げた。驚喜したその顔とその声――疾走する汽車はすぐそれ等のものを僕から奪ってしまったけれども、僕は伊太利にいるのか、日本にいるのかを区別することが出来ない程親しみのある暖かい印象をその瞬間の光景から受け取った」(「アッシジの秋」1917年8月19日『時事新報』)。
これは有島武郎『旅する心』(1920年11月、叢文閣)の一節であるが、「蜜柑」と「あまりに類似した図柄」で、芥川は「この文章に触発されて、「蜜柑」を構想したのではなかったか」と岩佐荘四郎氏は指摘された。
当時菊池寛は『時事新報』の記者であり、この小品は「私小説」を擬装した、徹底した引用の織物」というわけである。
この指摘を思えば、「蜜柑」について新たな感想を抱かれる読者も、少なくないであろう。
…後略…
『蜜柑・尾生の信 他十八篇』芥川龍之介 岩波文庫 2017年)
有島武郎は「親しみのある暖かい印象をその瞬間の光景から受け取った」ようですが、
私は、戦後、進駐軍の兵士に「ギブミー・チョコレート」と群がる子どもたちの姿と重なった。
「蜜柑」に対して「擬装」と決めつけているけど、まったく違う世界を描き出している。
貴婦人の行為に、恵んであげるという優越感を感じるけど
芥川の作品には、貧しい暮らしの中でも姉と弟たちのけなげに生きる姿に胸を熱くした。
「蜜柑」の転記は2回目だけど、解説を読んだ後でも感動は薄れるどころか、いっそう強まった。
「小娘」と書かれているけど、一か所「娘」と表現が変わっている。
私という視点で「小娘」を見ているうちに、「娘」への見方が一気に変化する。
そして、この姉と弟たちの幸せを願った。
今朝の父の一枚です(^^)v

午後から3週間ぶりの心臓リハビリ。
金曜日の午前中、父の泌尿器科受診で、午後からの心臓リハビリを休止していました。
理学療法士のNさんの祖父も前立腺ガンだそうです。
80歳を過ぎているので体に負担になる手術などは受けていないそうです。
それでも、漁師として毎日、海に出ているほど元気に暮らしていると教えていただいた。