2021年12月21日火曜日

日差しがあると

今朝も歩きはじめは、曇り空でしたが
しばらくすると青空が広がりポカポカして暑いくらいでした。
今朝の天気予報は8時頃曇りで、9時は晴れになっていました。

ガッテン!「予想が“外れる”ワケ判明!?天気予報とことん活用SP

番組の冒頭で「天気予報は見るな」(見るのではなく…)
そして気象庁にクレームの一番は、予報をコロコロかえるなだとか。
天気予報の見方を考えないといけないなと思いました。

よく天気予報が外れたと文句を言う人がいるけど
その前に明日、再放送(午後3時10分~)があるし、
12月22日(水)まで見逃し配信もあるので
一度、天気予報について学習したらどうかな?
ちなみに私は、晴天でも折りたたみ傘はカバンに入れています。
と言うのは、京都の大学に通っていた時の教訓です(^_-)

σ(*^^*)にとっては役に立つ番組なんだけど

「生活笑百科」「ガッテン!」終了を検討 NHK、来春の改編で〟(朝日新聞 12月15日)
天気予報以上に予測が難しいのが地震予知

 昭和21年の12月21日に
昭和南海地震から75年を前に体験者から話を聞く授業」(NHK徳島 12月20日)

昭和南海地震 1946年(昭和21年)12月21日」(NHKアーカイブス)

今日も
午前11時53分ごろ道東で地震 根室市で震度3 津波なし」(NHK 北海道)

日本は地震の活動期に入っていて
千島・日本海溝で巨大地震と津波被害の新たな想定を公表」(NHK)
というような想定が発表されると、地震予知というデマ情報が流れるのですが
第4章 国をゆるがす南海トラフ巨大地震
 ●地震は日付までは予知できない


 ここで述べた予測は、科学的データに基づいて行われたものであり、週刊誌やテレビでよく報道される「予言」とはまったく異なります。
 これらのメディアでは何月何日に大地震発生などと予言していますが、現在の地震学では、日付まで予知することはまったく不可能です。
まず「何月何日」という予言はすべて根拠のないものと考えて差しつかえありません。
 もともと地震現象にはピンポイントでの予測はできないのです。
科学的根拠のない地震予知とのちがいが、そこにあります。
さらに西暦何年に起きると年号を特定して予測することも、同様にできません。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)
 先ほど、地震活動の統計モデルから次の南海地震が起こる時期を2038年ごろと書きましたが、これはシミュレーションによってこうした年単位の数字が出るだけで、2038年と確定したわけでは決してないのです。
 かつて私が講義や講演会で2030年代に起こると述べると、「では2029年の12月31日までは大丈夫ですか?」と質問してきた人がいました。
もちろん、2030年代という予測にも誤差があるので、その前に起きても不思議はないのです。
 よって、確率として2030年から起きる可能性がきわめて高いことを念頭において準備してください、と私たち専門家はメッセージを発しているのです。
地学では、シミュレーションによって比較的細かい数字が出されることもありますが、実際には大きな誤差をともなっていることを理解してほしいと思います。
 じつは、世界の変動帯(へんどうたい)でこれほど次の巨大地震が予測できるケースは他にはないと言っても過言ではありません。
その意味では、2030年代というのは非常に貴重ないわば「虎の子」の情報なので、ぜひ活用していただきたいと願っています。
(『地震はなぜ起きる?』鎌田浩毅 岩波ジュニアスタートブックス 2021年)
2 伝承のなかのマリヤ
 神の子の誕生

  内部の誕生

 
 母親が幼児を抱いていたり、いとしむように見つめる姿は普遍的な人間の姿である。
しかし一度宗教的な道にはいれば、「この世のもっとも貧しい者となり、神の与えるもっとも苦しい苦悩を味わうとき」人間の内面に神の子が誕生するというマイスター・エックハルトの思念に結晶する。
聖母マリヤの存在は神の子信仰の基礎となっている。
マリヤはイエスとともに悩み、悲しみに耐え、心の貧しき者となり、柔和とあわれみに生きる。
シレジウスはつぎのように歌っている。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
  キリストが千度もベツレヘムに生れたとしても
  あなたのなかでなければ
  それは永遠に意味なきことである

 神の子の誕生はそれぞれが主体的に出合う出来事であり、自己の内面の深みのなかでうけとめなければならぬ。
 拝むマリヤ

 ベツレヘムのキリスト誕生の画像をみると、飼葉桶に寝ている幼児をマリヤが静かにやさしく見つめている場面とか、マリヤの膝にいる幼児を羊飼いたちが祝ったり拝んだりしている図とか、さまざまある。
そのなかでとくに目立つのは、幼児に向かってマリヤが跪(ひざまず)いて手を合せて拝んでいる図である。
このようなことは時代の考え方が変っていったということで説明さるべきことではなく、キリスト教の本質的なもののあらわれである。
普通では自分の産んだ子を拝むことはあり得ないからである。
マリヤは神の子にたいしその誕生を喜び、感謝し、帰依している。
他方、人間の子となって母の胎に宿っている以上、やはりわが子となった神の子を抱いてあやし、育てるという人間感情もある。
それゆえキリストにたいして「神の子」であり、「人の子」であるという意識が福音書全体を貫いているように、二つの態度をもってマリヤも画かれている。
 人間は自己の内面に神の子を産むという神秘思想家のよりどころをなすものは、人間はすべて神の子であるという根本信条である。
血統、家柄、位階、階層などによって人間は拘束、規定されるものではない。
権力、富、才能の多少でもない。
これらは人間の歴史や社会が造った評価にすぎない。
また自然のさまざまの要素の集合によって成り立った自然的存在でもなく、偶然や宿命の所産でもない。
人間には他に還元できない貴い神聖な性質、神の霊を宿しており、宿すべき存在であるという信仰である。
 「わたしたちが神の子と呼ばれるために、どのようにして大いなる愛を父よりいただいているかを考えて見なさい。わたしたちはすでに神の子である」(ヨハネ第一書簡三ノ1)というように、あらゆる圧迫、不当、不公平な支配管理に屈せず、生き抜く意志を持ったのは、キリスト=神の子信仰によるものである。
パウロが信徒に「あなたがたは神の宮(みや)であって、神の御霊(みたま)がおのれのうちに宿っているのを知らないのであろうか」(コリント第一書簡三ノ16)とのべていることも同じである。
 開く処女祭壇

 フランスに「開く処女祭壇」(ヴィルジェオーボランテ)がある。
両側の扉を閉じたままでは、聖母マリヤが幼児イエスを抱いている平凡な彫像である。
ところがこれを左右に開くと、中央には神が十字架にかかっているキリストを支える彫像がはいっており、左右の扉にはこの神の子の血の贖(あがな)いにひざまずく王侯、司教、信者たちの姿が画かれている。
このように聖母の内部に救いの秘儀がかくされていて、つつましい一女性のなかに神もキリストもはいってしまう。
これはマリヤが神の端女(はしため)でありながら、神を宿し、一切の存在を創り出す母性となっていることを示している。
ロゴス(ソフィヤ)が肉体となって宿ることと、マリヤに聖霊が下ることと全く同義である。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
今朝の父の一枚です(^^)v
カワウを写していました。

カワウ〔川鵜〕

 ペリカン目ウ科。
全長81センチ、体重2400グラム位。
南アメリカと南極大陸を除く各大陸に広く分布しているが、連続して分布している場所は少なく、点在している。
日本でも分布は連続しておらず、記録ははぼ全国であるが、繁殖しているのは青森県、東京都、愛知県、滋賀県、大分県など数ヵ所である。
水辺かそれに近い林の樹上に巣を造る。
繁殖期は他種の鳥より早く、2月頃から始められるのが普通。
繁殖地としての林が減少しており、日本では数の少ない鳥といえる。
東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)は、本種の繁殖地として有名。
(『野鳥の歳時記6 真冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)

現在では、首都圏だけでも1万羽どころではないとか…