2021年12月27日月曜日

雪は降らなかったけど

昨日の予報で雪が降るかなと思っていたけど
東屋の温度計が0度位だけど池に氷がはるくらいですんでいる。
一方、近畿北部では大変なことになっている。

近畿北部で記録的大雪 車の立往生など交通影響に厳重警戒を」(NHK)
12月27日
 大宝元年(702.1.29) 〔忌〕大伯(おおく)皇女(41、天武天皇皇女)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

万葉集の歌人のなかで大伯(大来)皇女の歌が好きで、発病した当日も二上山の大津皇子の墓を訪ねていました。

巻第二(挽歌) 165 
  大津皇子(おほつのみこ)の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたがみやま)に移し葬(はぶ)りし時に、大来皇女(おほくのひめみこ)の哀傷(あいしやう)して御作(つく)りたまひし歌

 うつそみの人なる我(われ)や明日(あす)よりは二上山(ふたがみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む

この世の人である私は、明日からは、二上山を弟して眺めることでしょうか。
(『万葉集(一)』佐竹昭広他 校注 岩波文庫 2013年)
▽「二上山」は、葛城山系の北端、河内国と大和国の国境に位置し、雄岳・雌岳の二峰をもつ。
その雄岳山頂に大津皇子の墓と伝えられる墳墓がある。
処刑の地は、香具山の北東「訳語田(おさた)の宮」。
その地から葬所から二上山へ移葬したか。
題詞・左注の中で行き倒れの死体などを言うことの多い「屍」の語を用いる。
続日本紀に、「使を遣はして長屋王・吉備内親王の屍を生馬山に葬らしむ」(天平元年二月十三日)の記事がある。
その長屋王同様、大津皇子も罪死の人だったので「屍」の字が使われたのだろう。
大津皇子を二上山に葬ったことは史書に見えない。
 「うつそみ」は「うつせみ」の古形。ここでは人にかかる枕詞。
「いろせ」は同母の兄弟を言う。
(『万葉集(一)』佐竹昭広他 校注 岩波文庫 2013年)
悲運の人大津皇子――その没落の過程
 大津皇子の誕生と幼年期


 天武天皇の皇子大津が謀反の罪で捕えられたのは、天武が没した朱鳥元年(686)9月9日から一月(ひとつき)もたたない10月2日、そして早くもその翌日の3日、「訳語田(おさだ)の舎に死を賜ふ。時に年二十四なり」と日本書紀に見える。
有間皇子が十九歳で没した斉明4年(658)から28年後である。
(『万葉集と古代史』直木孝次郎 吉川弘文館 2000年)
 二十四という歳から逆算すると、大津の生れたのは天智2年(663)であるが、そのころ父の天武(このときは大海人<おおあま>皇子)は北九州にいたと考えられる。
というのはさきに唐に亡ぼされた百済(くだら)の復興を助けるため、斉明天皇は2年前の斉明7年(661)、大軍を率いて北九州へ出陣するが、斉明を助けて大海人は兄の中大兄(なかのおおえ)皇子とともに従軍していたと思われるからである。
それはたんなる想像ではない。
斉明7年正月6日に難波津を出発した二日後の正月8日、船団が吉備の大伯(おおく)の海(岡山県邑久<おく>郡の沖)に到った時、大海人の妃・大田皇女が女子を産み、大伯皇女と名づけられたと日本書紀は伝えている。
当然大田の夫の大海人も同行していたにちがいない。
 3月、船団は北九州の那(な)の大津(博多港)に着く。
同年7月、天皇は朝倉橘広庭(たちばなのひろにわ)宮(福岡県朝倉郡朝倉町か)で没するが、百済救援のことは中大兄皇子=天智天皇の指揮によって進められ、翌天智元年(662)に万を越える大軍(書紀によれば3万2000)が海を渡る。
この年、大海人のもう一人の妃・鸕野讃良(うののさらら)皇女(以下鸕野皇女と略す。のちの持統天皇)が草壁(くさかべ)皇子を大津宮で生み、海を渡った大部隊の主力は天智2年8月に、百済の旧領白村江(はくすきのえ)で唐の大軍と戦って大敗する。
 このような切迫した情勢のなかで大津は生まれた。
生れた場所は大津という名からして、草壁が生れたのと同じ那の大津であろう。
  のちに天武の後継者の地位を争う二人の皇子が、1年ちがいで同じところで生れたのである。
しかも二人を生んだ大田皇女と鸕野皇女はともに天智の娘、母は大化の右大臣蘇我山田石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)である。
天智2年の暮れまでには、天智は敗戦の軍を率いて大和へ帰ったのであろうが、東へ航する船上には何のうれいもなく遊びたわむれる三人の幼な子(大伯・草壁・大津)の姿があったと思われる。
 天智天皇と書いてきたが、実は天智はこのときまだ即位しておらず、正しくは中大兄皇子で、皇太子のまま政治を取った。
これを称制(しょうせい)という。
称制6年(667)、都を大和から近江大津に移し、翌年大津宮で即位した。
この年が天智元年となるのだが、ふつうには天智7年という。
そして同10年に死去、翌年の壬申(みずのえさる)の年(672)、天智のあとをついだ大友皇子に対し、大海人皇子は反乱を起す。
前章でもふれた壬申(じんしん)の乱である。
このとき11歳になっていた草壁と10歳の大津は大海人の挙兵に従軍するが、前線には出なかった。
乱が終るまで鸕野皇女などとともに後方の伊勢国桑名付近にとどまっていたようである。
大津の母大田皇女は天智5、6年ころになくなっていた。
(『万葉集と古代史』直木孝次郎 吉川弘文館 2000年)
 今朝の父の一枚です(^^)v
今日もモズ♀に、昨日と同じような場所で出会えて喜んでいました。

モズ(モズ科)
…前略…

生活
 北日本や高原で子育てしたモズの一部は、秋に暖かい地方へ渡る。
秋から冬は自分の食料を確保するために1羽1羽がなわばりをもち、異性を受け入れない。
 そんなモズの社会も、早春の2月から動き出す。
オスは冬のなわばりにそのままとどまるにもいるが、新たに移動し、繁殖のためのなわばりをもつものもいる。
メスは例外なく冬のなわばりを離れ、オスのなわばりを訪問し始めるのである。
オスはもう追い出すわけもなく、大歓迎でメスを迎える。
初めは追いかけ、メスが少し興味を示してくれると、体を伸ばして上下左右に振り子のように動かし、顔の黒い線をよく見せつける。
オスはこの求愛ダンスのときに、明らかに他の小鳥の鳴き声を織り交ぜた小声で歌う。
こうしたオスのディスプレイを通してメスは品定めをし、何羽ものオスのなわばりをまわって相手を決める。
オスには決定権はないのだ。
1羽のメスが去れば、次のメスを待つしかない。
 やがてつがいになると、今度はメスが子供じみた声と身振りでオスに甘えて見せ、オスは求愛給餌をする。
オスは繁殖期間中しばしばメスにプレゼントをするので、仲良し夫婦に見える。
だが、最近のDNA分析により、1巣のヒナたちでも10%程度の割合で、他のオスの血を受けている、つまりメスの浮気による子供が混じっていることが明らかになった。
一夫一妻とはいっても侮れない、はなはだ不道徳な(?)鳥の世界が暴露されたわけである。
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)