2021年12月8日水曜日

12月8日

 昨日は「大雪(たいせつ)」で雪は降らなかったけど、一日中、冷たい雨が降っていました。
今朝は、雨が止んでくれたけど北風が冷たかったです。

12月8日はお釈迦様が悟りを開いた日、「成道会(じょうどえ)」。

コロナ終息へ祈り 法隆寺で新年を前にお身拭い 奈良 斑鳩町」(NHK 奈良)

成道会の日に悟りを開いたのではでなく…
真珠湾攻撃80年 ハワイ オアフ島で犠牲者追悼する式典」(NHK)

真珠湾攻撃80年 101歳元整備兵「戦争防ぐには対話大切」〟(NHK)

首相は所信表明で「敵基地攻撃能力含め 現実的に検討」されるようですが、
敵基地攻撃よりも原発を守ることができないという「現実」を見ていない。

岸田首相が所信表明「コロナに慎重対応 3回目接種は間隔短縮」〟(NHK 12月6日)
 10年前の加藤陽子さんのコラム記事

第4章戦争の記憶 歴史は戦争をどう捉えたのか

 「12.8」を迎えて思う、通牒で削除された開戦の意図


 2011年は、日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開始されてから70年にあたる。
12月8日がまためぐってくる。
丸70年といえば、ひと一人の人生の時間に相当するだろう。
もっとも、世界に冠たる長寿国の日本では、女性の平均寿命が86.39歳、男性が79.64歳(2010年簡易生命表より)に達しているが。
(『この国のかたちを見つめ直す』加藤陽子 毎日新聞出版 2021年)
 戦場を体験した世代で最も若い層であるはずの敗戦時に16歳の少年飛行兵だった人々を考えてみても、彼らでさえ、今は優に80歳を超える現実である。
やがて、戦場を知る人々が世代ごといなくなる時代もやってこよう。
戦争の裏と表をつぶさに見た人々が、折々の生活の中で、家族に伝えてきた多様な体験。
彼ら彼女らによって伝えられた「戦争の話」こそが、日本人の戦争観を大きく規定してきたと思われる。
 人々の戦争観を見る際に参照されることの多い、2005年に読売新聞が行った調査は、そのような意味で興味深い結果を出した。
1941年に開始されたアメリカと日本の戦争を侵略戦争だとする人は34.2%。
それに対し、1937年からの中国との戦争を、日本の侵略だとする人は、そう思う、ややそう思う、を合わせると68.1%に達する。
注目すべきは、日中戦争を侵略戦争ではなかったとする積極的な否定論が、1割程度にとどまったことだろう。
 当時も激しかった歴史認識論争の中で、調査結果を読んだが、第一印象として、先の大戦に対する日本人の戦争観は思いの外穏当なものだと感じたことを思い出す。
日本社会において、戦場や戦争を体験した人々の存在とその語りが、調査で見られた、比較的穏当な戦争観をもたらしてきたのではないか。
そうだとすれば、戦場や戦争を知る世代が退場してゆく今後が正念場となる。
 先に私は、アメリカとの戦争を侵略戦争と考える人が3割強、中国との戦争を侵略だと考える人が7割弱と出た調査結果を「穏当」と書いた。
こう書いたのは、新聞調査に表れた国民の戦争観が、日本政府によって公式に表明されてきた見解に近い内容となっていたからである。
 1995年、村山富市(むらやまとみいち)内閣は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」とする首相談話を閣議決定の上で発表した。
同談話は「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」として国民と戦争の関係を述べ、対外的には「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とまとめていた。

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)外務省 平成7年8月15日)
 10年後の2005年、小泉純一郎内閣も終戦記念日にあたっての首相談話を発表する。
国民と戦争の関係を述べた前段「先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷に地に亡くなられています」のトーンは、村山談話と大きく異なっていた。
だが、対外的側面について述べた後段「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との評価は、村山談話を踏襲したとわかる。
(「戦後60年にあたり内閣総理大臣談話」慰安婦問題とアジア女性基金 2005年8月15日)
 小泉内閣以降の歴代内閣もまた、アジア諸国の人々に対する植民地支配と侵略についての見解につき、基本的には二つの談話を踏襲してきた。
そうであれば次に浮かぶ問いは、アメリカとの戦争、太平洋戦争についてはどうなのか、ということである。
 開戦から70年もたったのだから、新たな発見などそうそうあるまいと思われるかもしれない。
だが、そうした予想は嬉(うれ)しいことに裏切られる。
一例として、真珠湾攻撃30分前、アメリカに手交されるはずだった「最後通牒」1件を挙げておく。
ワシントンの日本大使館の職務怠慢によって、宣戦布告分の手交が攻撃開始後50分後となり、奇襲攻撃の汚名を負ったとの解釈と経緯はご存じだろう。
 この通説的解釈に、新史料を提示して反論を加えたものに井口武夫『開戦神話』(中公文庫)がある。
東郷茂徳外相から野村吉三郎大使宛ての最終訓令は、実のところ、日米交渉打ち切り通告文以上のものとして読めないよう作文されていたのではないか。
交渉打ち切り通告だけでは宣戦布告の意思表示とならないのはハーグ条約からも明らかなのに、なぜ外務省は打ち切り通告文を送ったのか。
これが、元外交官であり外交史を専門とする井口氏の見立てと問いである。
 事実、1941年12月3日、当時外務省アメリカ局長であった山本熊一は、明確な開戦通告の文言を含む最後通牒草案を準備していた。
だが翌4日、大本営政府連絡会議の席上、開戦決定をアメリカに察知されるのを忌避する軍部の反対によって、明示的に開戦意図を述べた末尾の一文が削除されることとなった。
 緒戦の軍事作戦の成功のみを考える軍部に、外務省本省がこの時点で屈していたことの意味は大きい。
災いの種は東京でまかれていたともいいうる。
先の調査で見た国民の戦争観でも、アメリカとの戦争に対する評価はいまだ定まっていないようだ。
歴史学の出番は、むしろこれからが本番なのかもしれない。
(『この国のかたちを見つめ直す』加藤陽子 毎日新聞出版 2021年)
今朝の朝刊の記事
それでも、日本人は「戦争」を選んだ あの授業を受けた生徒たちは今〟(朝日新聞)

それでも、日本人は『戦争』を選んだ」で加藤陽子さんに学んだ当時中学・高校生たちのインタビューが載っていました。
「歴史の研究とはこういうアプローチをするのか、と新鮮でした」などという経験をしたことは
その後の人生に大きな力となっているようです。
加藤陽子さんの任命を拒否した前首相などは、
ものごとを深く考える若者が育つことが国策を進めるうえで邪魔なんだと思う。
中国のように国や党に感謝する国民が望みなんだろう。
中国は、政府(党)に反対する者を弾圧しても「民主主義」国家だという。