2021年12月12日日曜日

曇り空でも…

今朝は、曇り空でしたが、風がなかったので暖かかったです。
今夜遅くからあすにかけて 北日本中心に暴風 高波に十分注意を」(NHK)
明日の天気予報では7度も下がるみたい…
一方、
アメリカで竜巻相次ぐ ケンタッキー州“死者 70人超のおそれ”」(NHK)
 「水素爆発の福島第一原発1号機 内部映像公開 金属破片など散乱」(NHK)

今朝の目撃!にっぽん「“空白の10年” 被爆者の闘い
原民喜の『夏の花』は、GHQの検閲を考慮して発表が控えられていました。
被爆者のみなさんが「空白の10年」と呼ぶ、
救済の手が届かなかった10年間について語られていました。

1945年3月1日アメリカの水爆実験による第五福竜丸の被爆によって
日本政府から船員たちに援護処置がとられるようになった一方、
被爆者たちは置き去りにされたままでした。

被爆者は国に治療や生活の支援を行うことを求め活動を続け
1957年3月に「原子爆弾被害者の医療等に関する法律(原爆医療法)」が成立しました。

一方、空襲被害者のみなさんは、いまだに救済されていません。
問われる空襲被害者の戦後補償」(NHKクローズアップ現代 2021年8月18日)
日本列島が活動期に入ったことは、以前紹介した
江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』や『地震はなぜ起きる?』などに書かれています。

茨城 栃木 群馬 埼玉で震度4 津波の心配なし」(NHK)

島外避難始まる 悪石島住民乗せたフェリー 奄美大島に到着」(NHK 鹿児島 12月11日)
昨日の記事で太宰治の『正義と微笑』について紹介しました。
今日は、『右大臣実朝』について津島美知子さんの『回想の太宰治(旧版)』より紹介したいと思います。
なお、人文書院の旧版では「吾妻鑑」と「吾妻鏡」の表記が混在していますが
講談社文芸文庫版では「吾妻鏡」に統一されていますので、「吾妻鏡」と表記します( ..)φ
転記しながら『右大臣実朝』を読みたくなりました(*^^*)
 『右大臣実朝』と『鶴岡』

 小説『鉄仮面』に、「実朝を書きたいといふのは、少年の頃からの念願であつたやうで、その日頃の願ひが、いまどうやら叶ひさうになつて来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ」と太宰が書いている。
実朝を書きたい願望を持ちつづけながら、それまで(昭和17年秋)執筆をためらわせていた理由に、実朝が歴史上の人物であるということがまず考えられる。
(『回想の太宰治(旧版)』津島美知子 人文書院 昭和53年)
 主観のかたまりのような人で、またことさらに意識して、「自我の塔」をうち樹てようとした太宰であるが、史実を無視して実朝を書くわけにはいかなかった。
 「――その願ひが、いまどうやら叶ひさうになつて――」というのは、まるで天から授かったように、実朝を書くのに絶好のテキストを与えられ、「これがあればかける、書こう!」といさみ立って、執筆を決意したことを表わしている。
それが『鶴岡』源実朝号(昭和17年8月9日、鶴岡八幡宮社務所発行)である。
同年8月19日付、戸石泰一氏宛に「――ことしの秋は、例年になく大事な秋のやうな予感がする。『実朝』も、いよいよことしの秋からはじめる予定――」と書き送ったのは、この『鶴岡』を入手して、間もなくのことと思う。
 実朝生誕七百五十年を記念して、鶴岡八幡宮社務所と鎌倉文化聯盟の協賛で、実朝の誕生日に当たる八月九日に、盛大に実朝祭が挙行された。
祭のメーンイヴェントは、八幡宮境内に建立された歌碑の除幕式で、続いて、奉納芸能や講演会(講師に龍粛<りゅうすすむ>の名前も入っている)などが催された。
この実朝祭に参列する人々や八幡宮に詣でる人々に、実朝の史実や和歌について知らせ、今後、研究を志すものに手引を与えたい、という目的で、編集発行されたのが、本誌である。
 編集後記の一節を引用すると、「実朝研究の本は坊間なかなか手に入れ難い。金槐集すら新たに入手することが困難なのが今日の実状である。(中略)一般大衆諸士が、この薄くはあるが、常識的知識を洩れなく盛りこんだ、小冊子によつて便宜を得られるやうに望んでやまない」。
この百二十六頁の冊子によって、最大の便宜を得たのは三鷹の太宰治である。
この冊子の内容のうち、「源実朝年譜」は、太宰がこれに欠けている公暁のことなどを補って書き入れたり、〇印をつけたり、インクをこぼしたりなどしていて、『右大臣実朝』構成上の骨子として、この年譜を執筆中役立てたことが歴然としている。
『吾妻鏡』から実朝関係の年譜をひろい出して作製するのは容易なことではない。
 次に、「源実朝関係主要文献」は『大日本史料』からの抜粋であるが、『吾妻鏡』に拠るものは、実朝年譜と重複するので削除して、『大日本史料』に採録されていない多くの古文書や、文献が収めてある。
 太宰がこの「主要文献」によって、『吾妻鏡』以外の古文書から引用した一例を挙げると、元久元年、藤原信清の女が(実朝の御台所となるために)京都を進発したときの記述は、『明月記』の抜萃が、「――泣尋沙塞、出家郷歟」と原文のまま、『鶴岡』の「主要文献」に採録してあるのを、「――けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを――」と太宰が意訳したのであって、他にもこのような箇所がある。
 『鶴岡』の編集には行き届いた配慮がみられ、史実をふまえ、しかも鎌倉で編集されただけに、実朝とその歌を慕う情熱に充ちている。
この無二のガイドブックから、太宰が受けた便宜は多大であったと、言わねばならない。
 次に、太宰にとって大変幸運であったことは、龍粛訳注『吾妻鏡』の第四巻までが岩波文庫本で既に刊行されていたことである。
『吾妻鏡』を仮名交じり文に訳した本の刊行は、あるいはこれが嚆矢ではないだろうか。
鎌倉史の権威、龍氏のこの労作は昭和十四年に巻一、十五年に巻二と三が刊行され、一年近く経って、実朝に関する記述の主要部を含む第四巻が、十六年十一月末(太宰が実朝執筆を決意した一年前)に刊行されていた。
用紙難のためか、他の事情からか、上記のように、『訳注吾妻鏡』の刊行は、次第に間延びの傾向になっていて、第五巻は実朝歿後の記述であるが、昭和十九年に漸く刊行されている。
もし、この『訳注吾妻鏡』第四巻までが入手できなかったら、『吾妻鏡』を原文で読むほかなかったのではなかろうか。
まず『鶴岡』を得、次に『訳注吾妻鏡』第四巻までを求めて、これで根本的な資料は揃ったわけである。
 この『鶴岡』は、どうして、いつ、太宰のところに舞いこんだのだろう。
私は大阪に本社のある錦城出版社の東京支配人、大坪草二郎氏がもたらしてくださったのではないかと思う。
 同社からは、『正義と微笑』を書きおろしで出版していただいた。
その交渉に三鷹に見えたのが最初で、十七年の六月『正義と微笑』が上梓されたあと大坪氏はもう一冊、書きおろし長篇を出すことを太宰にすすめてくださった。
 太宰は実朝を書きたい宿望を持っていること、しかし、資料蒐めが困難で執筆にとりかかれないでいることを語った。
大坪氏はアララギ派(というよりむしろ根岸派)の歌人で、ある短歌雑誌の幹部であり、八月九日の実朝祭に列席し、『鶴岡』を持っておられたので、これを太宰に贈られた。
 大坪氏はいつも羽織袴の和装で、私は国士風の印象を受けた。
また大坪氏には史伝のご著述があった。
それで一層親身になってよい手引書を贈って、太宰の実朝執筆の始動に、力を貸してくださったのでもあろう。
 同社は印税に関する条件でも、申し分なかった。
前払もしてもらったように記憶する。
 条件が揃った。
あとは書くばかりである。
しかし、これがなかなか難航であった。
実朝一本に絞るために、約束した新年号の短篇いくつかを書き上げて、三保園に資料を持って出発したあとに、英治兄から母の危篤を伝える電報が届いたので、その日三鷹へ引き返し郷里に急行した。
母の見舞いと葬式の法事のために、十月から翌年三月までの間に三回、津軽との間を往復しなければならなかった。
『実朝』は三鷹と甲府で書いた。
三鷹のわが家に、『実朝』であけくれた「実朝時代」とでもいうべき時期があった。
一本気の人だから、寝ても覚めても「実朝」で頭がいっぱいになってしまうのである。
実朝の年譜から、実朝が自分と同じく母の妹に育てられたこと、頼朝が父源右衛門と同じ五十三歳で薨じたことを知って、暗示にかかり易い太宰は、宿命的なものを感じ、実朝が乗りうつったかのようになって、つっ立ったまま、「大日の種子より出でてさまや形さまやぎやう又尊形となる」、「ほのをのみ虚空にみてるあびぢごくゆくゑもなしといふもはかなし」など、実朝の和歌を口誦さんでいる姿は無気味であった。
『実朝』の一節を朗読して聞かせたこともある。
 十七年の夏に決意して、ようやく翌年の三月末に、三百枚を脱稿するまで、大坪氏と女子社員のYさんとが、こもごも、三鷹を訪れて作者の肩をほぐし、油をさすような感じで激励してくださった。
 『右大臣実朝』は、十八年九月に刊行された。
『正義と微笑』と同じ、藤田嗣治の桜花の枝の画の装幀で、国粋的な感じである。
錦城出版社にそのような傾向があったか否か知らないが、当時としては、用紙の割当も潤沢であったと見えて、『実朝』の初版は一万五千部であった。(『正義と微笑』は一万部)
それ迄千部台にとどまっていたのに、この数字は著者にとっては嬉しい驚きであった。
 『右大臣実朝』に太宰は実朝の和歌を片仮名で入れているが、平仮名を片仮名に変えただけでなく、あるいは漢字を片仮名に、平仮名を漢字に直して、諸伝本のどれにもない自己流の表記をしている。
その道の専門家の意向を無視しても、「太宰の実朝」を書き現したかったのであろうか、と思うものの「波」を「浪」と、「浪」を「波」とことさらに変えて書いているなど、変更のための変更のような感じを受ける。
 『訳注吾妻鏡』はもちろん龍博士の原文からそのまま引用させて頂いている。
けれども外の作品でも資料からその一部を引用するに当たって、本意は変えないまでも、多かれ少なかれ自己流に表現を変えて引用し、コピーの機械のようにそのまま写さない。
これが太宰の性癖の一つであった。
原文が気に入らない文章なので、引用するとき知らず知らず直して書いた場合もあるだろう。
しかし『右大臣実朝』に入れた金槐和歌集の和歌の表記について上記のように太宰流に書き改めたことは、どう考えたよいのか、真意が不可解である。
(『回想の太宰治(旧版)』津島美知子 人文書院 昭和53年)
今朝の父の一枚です(^^)v

  古田織部(ふるたおりべ)

 織部灯籠の考案者として知られる古田織部(重然<しげなり>、1544―1615)は、キリシタン大名と呼ばれていますが(妹はキリシタン)、さだかではありません。
千利休の高弟の一人です。
また、織部型の斬新な茶道を完成した茶人でもあります。
この古田織部が作ったと言われる変形の灯籠がキリシタン灯籠と呼ばれていますが、真実そうなのか、あるいは、新しい好みの自由な発想で作ったものかそのあたりは、明らかではありません。
しかし少なからず、この灯籠がキリシタン灯籠と呼ばれている理由から、織部が関わっていたということをも考えてみる必要があるでしょう。
 とくに、お茶をなさっている方には、独特の織部の黒茶碗に十字の入った茶碗があることもご存じであるでしょう。
そして斬新な時代の先駆者として、焼き物の世界でも有名な織部焼きと言われる近代的なデザインの創始者古田織部なのですけれども、この古田織部に斬新なあの現代的な美意識を与えたのは、じつは織部自身の草案ではなく、これは東南アジアを経てペルシャから渡ってきたデザインで、これをいち早く織部が自分の美意識の中にとりいれ、そして茶道の世界に用いたということが、今日すでに明らかとなっています。
古田織部が作った沓茶碗の中には、十字の入った茶碗がいくつもあるのは、キリシタンとの深い関係のためであります。
ペルシャの文化は、奈良正倉院に大きな影響を残しただけではなく、こうした近代を開いた美意識を持った茶人、文化人、あるいは音楽家など幅広い世界で、大きな貢献をなしているということは、注目されることです。
 小川通りの裏千家(今日庵)、表千家(不審庵)や茶道総合資料館を訪ねられたら、その千家からもう少し北へあがったところに興聖寺というお寺があります。
 このお寺は、織部の素願で建てられ、織部像を安置した織部堂では、彼を偲んで茶会が毎年行われています。
 古田織部のお墓を訪ねてみるのも興味あることかもしれません。
 また、大徳寺の三玄院にも織部の墓があります。
(『京のキリシタン史跡を巡る』杉野榮著 嶋崎賢児写真 2007年)