2021年12月15日水曜日

穏やかな朝

今朝も東屋の温度計を見ると3度と2度の間だった。
日陰は霜が降りていましたが、風がなく日差しが暖かったです。
暖かいのだけどサンシュユの蕾がもう開いていた(*_*)
サンシュユが薬になることは知っていたけど(「サンシュユ」熊本大学薬学部)
ヨーグルトのようなものをつくることもできるのですね!
(「樹木の枝に住む乳酸菌について」日本植物生理学会)
でも、食べるのは、研究が進むまで控えたほうがいいみたい…
朝刊の一面記事に
国交省、基幹統計を無断書き換え 建設受注を二重計上、法違反の恐れ」(朝日新聞)
昼のニュースでも報道されていました。
国土交通省 統計データ二重計上など不適切な取り扱い」(NHK)
8年前と言えば、安倍元首相の時代

平野啓一郎さんのTwitterに

嘘つき政権の時代に始まってる。
「建設業の受注状況が8年前から実態より過大になっており、統計法違反に当たる恐れがある。」 /
国交省、基幹統計を無断書き換え 建設受注を二重計上、法違反の恐れ
 (朝日新聞デジタル)

赤木俊夫さんのようにデーターを改竄させられている役人は大勢いるのだろう。
昨日ブログを更新した後に気がついた記事

日本に帰りたくない? ノーベル賞受賞 真鍋さんのメッセージ」(NHK 12月14日)

私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです

中国が自然科学の論文の「質」で初の世界1位 日本は10位〟(NHK 8月10日)

日本人が受賞すると、日本人素晴しいというような報道がされるけど、
中国の研究者が受賞するのは、時間の問題だと思うし、
日本のレベルはさらに下がると思う。
真鍋さんの他に中村修二さん、南部陽一郎さんなどアメリカ国籍の日本人科学者が受賞しているけど
将来、中国に頭脳流出した日本人科学者や技術者などが受賞するかもしれない。
先日、朝河貫一のことを知り、本をさがしました。
まだ、読みだしたばかりですが、解説を転記したいと思います( ..)φ

 解説  由良君美

 ここに現代日本の読者になじみやすいように表記法を改めて提供しようとする『日本の禍機』は、もともと78年昔、日本において公刊された単行本であった。
ではそのような過去の、それも歴史的文献というよりは時局を論ずる<時事論>ともいうべき性質の著書を、いまさらこのような体裁で再刊しようとする理由は何であろうか?
いまこそ広く読まれ理解さるべき著作だ、ということに尽きよう。
(『日本の禍機』朝河貫一/由良君美 校訂・解説 講談社学術文庫 1987年)
 故イェール大学名誉教授朝河貫一博士の名は、少なくとも比較法制史を専攻する世界の学界人のあいだでは、いまだに轟く名声であり、また朝河の故郷福島県では郷土の生んだ偉人として知れわたった名であるといえよう。
しかし、ひとたびこの二つの狭い枠の外にでてみれば、朝河の知名度はあまりにも低い、とりわけ現代日本においては。
それでよいのであろうか?
 欧米に学界におけるゆるぎない名声に比べ、朝河の母国日本においては、学界においてさえ、その価値にふさわしい評価を得ているとはまだ言い難いのが、悲しい現実であろう。
 朝河の生涯の大半がアメリカで過ごされたこと、また朝河の業績の過半が流麗だが精緻な英文によっていることを考えれば、あながち無理とばかりはいえないことであったろう。
われわれは学究朝河貫一の生涯をここに概観しておかねばならない。
1873年(明治6年)福島県安達郡二本松に生れた朝河は、故郷の安積中学校、ついで東京専門学校(のちの早稲田大学文学部)をいずれも首席で卒業。
1895年(明治28年)23歳で渡米して以来、二度の短い帰日をのぞけば実に五十年以上もアメリカの史学界に雄飛し、イェール大学歴史学正教授定年後1948年(昭和23年)ウェスト・ワーズバラに74歳で死去するまで、謹厳なキリスト者の学究として始終した。
その学者としての第一歩は、1902年(明治35年)にイェール大学の審査を通過し、日本で出版された英文の『六四五年の改革』と題する大化の改新の比較法制史の研究によって輝かしく印された。
1904年(明治37年)には、英文著書『日露紛争』が英米両国より出版され、その後も「中国の新体制」「満州国協定」(1909年)、「封建日本の新日本への寄与」(1913年)、「日本における封建地代の起源」(1914年)、「中世日本における仏教の社会的反動」(1917年)、「日本封建制のいくつかの様相」(1918年)、そして1929年(昭和4年)には朝河の最大の業績と目される『入来文書(いりきもんじょ)』(英文と邦文資料)が刊行され、世界的法制史家としての地位は不動のものとなり、同年、「初期荘園とマナアの比較研究」も発表。
続いて「日本の封建制度」(1931年)、「源頼朝による将軍家の基礎」(1933年)が発表され、その学問的努力は没年にまで継続された。
日本封建制の国際的比較研究の可能性の基礎は、全く朝河によって学問的に定立されたものと言ってよい。
この面の朝河の偉大さは、フランスの比較法制史の大家マルク・ブロックが朝河の業績によって鼓舞され、しきりに文通をかわし、ナチスによるその非業の死に先立って、朝河との共著を構想していた事実ひとつを取っても、十分に理解されるであろう。
 日本においても戦後の昭和30年に、原著刊行後29年になって『入来文書』は学術振興会の手によって増補刊行され、さらに1965年(昭和40年)には英文の論集が『中世日本における土地と社会』と題して、おなじく学術振興会の手によって編さん刊行され、故阿部善雄教授の評伝『最後の日本人――朝河貫一の生涯』が1983年(昭和58年)に岩波書店から発刊された。
 こういう象牙の塔のなかのたゆまぬ学者朝河とならんで、実はもう一つの朝河貫一の側面があったのであり、それは本書『日本の禍機』の著者としての朝河の生涯を一貫して変えなかった在外憂国者としての側面であった。
 朝河の七十余歳の生涯は、ちょうど幕末明治維新の激動期に生をうけ、日清日露の二つの戦いを経て、満州国建設、日中紛争、太平洋戦争、第二次大戦敗戦を目撃し、戦後日本の再建復興を目前にして死ぬという、日本現代史の重要画期のほとんどを経過せざるを得ない一生であった。
そのうちでも特に日露戦争中とそれ以後とは、朝河の識見が成熟期に達し、とりわけ日韓併合、日中紛争、太平洋戦争にいたる時期は、遅れた帝国主義の道をひたすら驀進して国際的孤立の果てに破局への道を選んだかに見える祖国日本の姿を、憂国の心情のうちに客観視しようとする史家朝河の一種の試煉の時であったといえよう。
 朝河の史家としてのゆるぎない信念の一つに、世界史ないし人類史を貫く道義または倫理性の存在があった。
史家朝河にとって世界史を究明しようとすることは人類史を究めようとすることに他ならず、人類の一員である日本は、いかに世界史の舞台に遅く現れたにせよ世界史の軌道に正しく貢献すべきであり、日本を離れアメリカの地から客観的な眼で見得ればこそ、己れだけに見える事柄も、それが日本の危機存亡にかかわることであれば、手をつくし身を賭してでも直言することが在米日本人としての己れの義務でもあり、ひいては人類のためでもあるとする信念は生涯を通じて変っていない。
したがって世界史を貫くことの道義に貢献するかぎり、日本の歩みを世界の前に弁じ、また一転してこの道義に違反するかぎり、日本の選択を批判し叱咤する朝河の態度が生れ、それらの態度の著書における代表的形体が、前者は英文による『日露紛争――その諸原因とその諸争点』(1904年)であり、後者が邦文による『日本の禍機』(1909年)であると考えることができる。
(つづく)
(『日本の禍機』朝河貫一/由良君美 校訂・解説 講談社学術文庫 1987年)