2021年12月16日木曜日

朝のうちは…

朝のうちは晴れてくれて歩いているとポカポカしてきました。
昨日、軽いぎっくり腰になった(^^;)
歩ける程度の痛みなので50mmマクロでリハビリ散歩をしています。
もうじき、ぎっくり腰でなくても軽いレンズで歩くようになると思う…(^^ゞ
昨日のニュースを見て、こんな卑怯な手を使うんだと思った。

財務省文書改ざん自殺訴訟 国側が一転して賠償責任認め終結」(関西NHK 12月15日)

雅子さんは
「お金を払えばすむ問題ではない。
夫がなぜ死んだのか、なぜ死ななければいけなかったのかを明らかにするための裁判でした。
財務省にひきょうなやり方で裁判を終えられてしまって不意打ちで頭の中が真っ白になりました。
真実を知りたいという思いで国と闘ってきたが、
このような形で裁判が終わってしまったことが悔しく、夫にどのように報告するか悩んでいます」


上野千鶴子さんのTwitterに

1億円で森友事件の隠蔽を「買った」政府。
安倍とその「妻を守るためなら安いコストだろう。
原資は税金だ。
(『日本の禍機』、「解説」つづき)

 朝河のこのような史家としての心構えは、すでに早く1900年1月1日の日付のある「年頭の自戒」に明らかである。
「だから表現の仕方は、わたしにとって重大な関心のある問題である。この点でわたしは、わたしの実際の境遇に負うところ多大である。それは多分、わたしが日本をあとにしてこのアメリカという異国の地にきたり、人類史上の日本の相対的地位を知ったということが、史学研究によって日本に貢献しようとする決心をわたしに起こさせたためであろう。さらに言えば、わたしの頭のなかの歴史そのものにたいする考え方の変遷を、境遇によって大幅に教えられるところがあったためである。現在のわたしの確信は、日本の歴史は主として制度の面から研究せられるということ、それもわたしの所期の目標は西洋にたいして東洋を解説しようとするよりも、むしろ人類史とその運命の真相にたいして組織的貢献をなそうとすることにあるのだから。これはもちろん、わたしの<愛>の世界における進展の表われにかかわることであって、<進歩>そのものにかかわることではない。」(イェール大学朝河文書蔵、原文は英文)
(『日本の禍機』朝河貫一/由良君美 校訂・解説 講談社学術文庫 1987年)
 狭い一日本の視野を離れて人類史のなかで日本を見ようとする客観性の態度と、日本の比較法制史家として、たんなる東洋史の通弁ではなく人類史とその運命の真相にたいして組織的貢献をなそうとする態度とが、キリスト者としての愛の追求の願いのなかに抱合されているのである。
とりわけダートマス大学からイェール大学に進むことで、より多数の日本人留学生を身辺に実見したことから、日本人にありがちな狭量な物の見方を離れて、世界史のなかに客観視してゆこうとする自戒の言葉が右に引用した部分のあとに続いていることは見逃すことができない。
 朝河のこの態度は、一つは日本弁護論として日露戦争がアメリカの仲裁によってポーツマス条約締結を見るに至る前後に、またもう一つは日本に対する苛烈な諌言として、中国大陸での権益をめぐる日本の帝国主義的伸張の兆しが漸く顕在化しようとする時期に、二つの記念すべき時局的著書して発刊された。
前述したように、前者は英米両国から発行された英文の名著『日露紛争――その諸原因とその諸争点』(1904年)であり、後者は日本から邦文で発行された『日本の禍機』(1909年)であった。
前者は世界を前にして日本を弁護する堂々の論陣であり、後者は日本の心ある人にたいする痛烈な批判と叱咤の文章である。
『日露紛争』は日露戦争中の発刊であり、時あたかも二0三高地での乃木第三軍が苦戦中、バルチック艦隊は日本海をめざして北アフリカにようやく到着した頃のこと。
日露戦争の帰趨がどうなるか、誰にも分らなかった頃なのである。
その頃朝河はこの戦争が世界史上の日本の命運を決するものであることを洞察し、あるいは数十回にのぼるアメリカでの講演に、精力的な活躍を行ったいたのである。
『日露紛争』のなかで朝河は383ページを費して、世界史上における日本の抬頭と東アジア経済との関係、歴史的なロシア南下の志向、満州をめぐる日満朝の共通問題を冷徹に論じ、清国をめぐるヨーロッパ諸国の植民政策の史実を追い、清国の中立および朝鮮の領土保全にたいして日本が果たしうる立場を、ロシアの領土的野望に抗する日本の、清国主権・満朝機会均等を護る旗手としての役割を説得し、以てアメリカはもとよりヨーロッパの汎中国大陸に対する政治経済上の妥当な解決として説いたのである。
 当時は<黄禍論>が激しく渦巻き、またおなじキリスト教国としてのロシアに同情する傾向の自然であった欧米に、朝河のこの明晰な論旨は大きな説得力をもった。
その後も、二0三高地陥落、バルチック艦隊撃滅のあと、ポーツマス日露講和条約が実現するに至るまで、朝河のこの論旨は欧米にゆきわたり、とりわけポーツマス会議に臨むアメリカ側の基調を定めたと考えられるイェール大学での日露和平シンポジウムをめぐる影の立役者としての朝河の活躍はめざましいものがあった。
さらにポーツマス講和会議そのものにも、朝河はオブザーバーの資格で出席し、1905年8月24日の『ヘラルド』紙には朝河の論考が掲載された。
 アメリカの仲裁によって辛くも勝期のうちにロシアと和平を結びえたというのがポーツマス条約の真相であったが、国内の新聞報道によって連戦連勝の夢に酔っていた日本国民は条約の成果に落胆し、これを屈辱外交として、憤激の眼を以て迎えた。
事実、日本人ジャーナリストたちかた<親米派>的策動の徒として非難さえされた朝河だったのである。
『日本の禍機』は『日露紛争』のあと僅か5年にして世に現われることになる。
「序」にも明らかなとおり、朝河はあくまで『日本の禍機』を『日露紛争』の一種の続編――<同一問題の継続>として見ている。
同一問題とはいえ、また僅か5年の歳月とはいえ、この間の日本の変質は全くめまぐるしいものとなり、かつて日本を世界を前にして弁護した朝河の筆は、世界を背に日本を叱るものに変っている。
これは朝河が変ったのではなく、日本の対外政策が変ったのである。
 詳細は本書をお読み頂くことに委ねるが、極く簡単に言って、その数年間に日本はポーツマス条約精神に違背する対外政策の道を走り始め、門戸開放・機会均等の公約を公然と破り、朝鮮に満州に中国に、さらに東南アジアに<権益むしりとり>の<私曲>をたくましくしようとし、1907年(明治40年)を境としてアメリカの対日感情も反日に転じ、破局への一歩を踏もうとしていたのである。
本書はその年のうちに起草された。
 朝河は日本人として、日露戦争を<驚くべき技倆をもって>切り抜け、いまや国運隆盛を謳歌するかに見える日本を喜びながらも、<一つの危機を通過して><すでに早く別種の危機>が眼前に迫っているという警鐘を鳴らそうとする。
もしも日本が現在の背信外交のままにアジアに<私曲>を通そうとするならば、いずれ日米が戦うことになろう。
 朝河は歴史家らしく日露戦争以後の日本の大陸権益伸張の過程を、ひとつひとつ検討し、日本の<新旧外交>の齟齬を尋ね、それが日本の<私曲>として世界に映らないか否かを冷静に分析している。
<吾人は自ら日本人なるがゆえに、平静に評する能わざれども>と断りながら、朝河の筆致は能うかぎり公平である。
<日本は自ら資本の乏しきを歎ずれでも、列国は偏に日本の優れたるを見て嫉妬するのみ>のような指摘は、その言葉が現時点の日本にも少しも変らず当てはまると言っても言い過ぎではあるまい。
さらには<工業国としての日本の隆起は、列国をして日本の決して不公平の機会を有すまじきを要求せしめ>と続くあたりは、<私曲>の怨みを、たんに優者への嫉妬と説くのみではなく、そこに世界史に働く道義の必然を見ようとする点に、史家朝河の面目が躍如としていよう。
日露戦争でロシアが勝てば、その南下の必然性のために欧米のためにならない、日本が勝てばアジアのためにも欧米のためにもなる、と説いた日露戦争中からポーツマス条約締結時までの朝河の論旨の底には、日本の勝利による大陸の門戸開放・機会均等の実現という前提が横たわっていた。
事実、当時の日本はそれを約束したのであった。
それだけにその後の日本の歩みが<競争跋扈>を許す方途に走った時、朝河はそこに、世界史の底を流れる倫理への重大な背信を読みとったのである。
工業化に伴う貿易競争の激化、それによる中国大陸の重要性の増大、日本への嫉妬の情、そうであればこその日本の機会均等の厳守の必要――それを遙かアラブとポルトガルの東西交易史の発祥から説きおこして、二十世紀の世界の東洋にたいする<大要求>に及ぶあたりに、史家朝河のゆるぎない視座は据えられている。
中国をめぐる<悲しむべき事情の間に正義の生れ出たるは、近世史上注目すべき一大現象なり>と言い、また<世界史の判断は日本に利ならざらんか><これはたして世界史の大勢の要求するところと合わせる行為なりや>とたたみかけ、<けだし日本の最も恐るべきところは清国にあらず欧米の諸国にあらず。実に己れを不正の地に陥れ清国および欧米をして正義の側に立たしむるにあるなり。真に国を愛するもの誰れか日本がかくのごとく正義の賊、進歩平和の破壊者たるの地位に陥るを目撃するに忍んや>と括るあたりに、ひとはほとんど預言者に似る朝河の今に褪せない忠告の声を聴くことであろう。
(後略)
(『日本の禍機』朝河貫一/由良君美 校訂・解説 講談社学術文庫 1987年)
今朝の父の一枚です(^^)v

エナガ〔柄長〕
 スズメ目エナガ科。
全長13.5センチ、体重7.5グラム位。
赤紫色をおびた褐色と白い体をした、尾の長い鳥。
本州以西のものは、目を通る太い線があるが、北海道のものはこれを欠き、顔全体が白い。
ユーラシア大陸北部の森林地帯に広く分布しており、渡りをしない。
日本では北海道、本州、四国、九州、佐渡、隠岐(おき)、対馬(つしま)などに分布している。
主に低山の森や林にすんでいる。
外部に苔(こけ)を虫の糸でからめ、内部には羽毛を集めた長楕円(ちょうだえん)形の巣を造り、出入口は上部横についている。
普通7~12卵を産む。
木の枝先につく虫や虫の卵を主食にしている。
体つきが柄杓(ひしゃく)に似ており、柄が長いということでこの名がある。
(『野鳥の歳時記5 冬の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)