風が吹いていて日陰は寒かったけど、日向はポカポカしていました。
ソテツの実について母が教えてくれたこと
戦時中、米軍の攻撃から避難していた時に
ソテツの実の毒抜きの方法を知らない町の人が中毒になったと話していました。
「雄花も雌花も、渡嘉敷の海岸でソテツ満開」(琉球新報 2020年6月5日) 注文していた『地の底の笑い話』が届いたので本屋に行くと
炭坑記録画が表紙になった『まっくら 女坑夫からの聞き書き』を見つけました。
『地の底の笑い話』の挿絵にも使われているのが山本作兵衛の作品。
日曜美術館「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」(再放送、5日午後8時~)を見ていて
当時、稚拙だと評価されていなかった山本作兵衛(やまもとさくべえ)の絵に
菊畑茂久馬(きくはたもくま)が絵画の本質を見出し評価していたことを知りました。
「山本作兵衛コレクション」(福岡県 田川市)
『地の底の笑い話』に
〔挿絵のこと〕
本書に使用した挿絵は、すべて山本作兵衛さんの作品である。
山本さんは当時筑豊の石炭輸送の主力であった遠賀川(おんががわ)の川船船頭の息子として、明治25年福岡県嘉穂(かほ)郡に生まれ、昭和30年田川市の位登(いとう)炭鉱の閉山によって50年間の坑内生活を離れるまで、上三緒(かみみお)、三内、綱分、赤坂、飯塚、二瀬など、数多くのヤマを転々としつつ、ひたすら筑豊の地底で生きてきた生粋の炭鉱労働者であるが、離職後はツルバシを絵筆に持ちかえ、幼年時代よりつぶさに体験した炭鉱生活を克明に絵で記録することに専念し、今日なお倦(う)まずたゆまず継続されている。
既にこの十年間に完成した作品三百余点は、炭鉱労働者自身の手による貴重な歴史資料として、田川市立図書館に保管されているが、このたび本書の挿絵としてこころよく提供していただいた。
記してここに厚く感謝する次第である。
(『地の底の笑い話』上野英信 岩波新書 1967年)(そして「はじめに」にあたるのが…)
地の底で働くひとびとの笑い話をともしびとして、日本の労働者の深い暗い意識の坑道をさぐってみたいというのが、このささやかな仕事にこめた、わたしのおこがましい願望である。
笑い話ということばを題名にかかげることについては、いささかの不安とためらいを覚えないではない。
限界もあいまいであり、それだけに誤解にも蒙りやすい。
昔からともすれば卑俗に「小咄」「軽口噺」というふうに受けとられがちであったが、とくに現代では、笑い話ということばなり笑話という活字なりの誘うイメージは、一般にそれほど健康で創造的なものではあるまい。
にもかかわらず、あえてわたしが使用することにしたのは、今日も依然として、働く民衆がみずから名づけて「笑い話」と呼ぶ世界に生きており、生活と労働のもっとも思い真実をそこに托しているからである。
彼らはなぜそれほど重要なものを笑い話と名づけなければならかったのか。
彼らにとってそもそも笑い話とはなんであるのか。
しかしその問題は本文にゆずるとし、ここではただ、この小稿の生まれ出るまでの経過について述べておこう。
(『地の底の笑い話』上野英信 岩波新書 1967年)
わが国の石炭産業の労働者が、いわゆるエネルギー革命によってどのように壊滅的な打撃を受け、いかに悲惨な状態に追いこめられているかということについては、いまさら説明の必要もないだろう。
幼いころから筑豊炭田のあらあらしい脉動をききながら育ち、敗戦後は幾つかのヤマで働き、生涯を炭鉱労働者とともに生きたいと願ってきた人間の一人として、これほどたえがたい痛恨はない。
なにかをしなければならぬ。
だが、いったいなにをすればよいのか。
一介の非力な文学の徒にすぎないわたしにできる、なにがあるのだろうか。
そんな絶望的な焦燥にかられているとき、ふっとわたしの心によみがえったのが笑い話であった。
ボタ山のふもとの納屋生活のあけくれ、あるいはまた、一秒後の生命の保証もない坑内労働のあいまあいま、おりにふれて老抗夫たちの語ってくれた、古い、なつかしい笑い話であった。
それらの話をいつかわたしなりにまとめておきたいと思いながら、日に日に変転する破局に気を奪われ、手をつけることさえ忘れていたのである。 わたしは夢からさめたように、これまできき集めていたものを整理するかたわら、未知の笑い話を求めて、ほうぼうの炭鉱を歩きはじめた。
もう二度とふたたび機会はないのだという気持だけがわたしを支え、わたしの足を前はおし進めた。
幾代ものいのちを埋めてヤマを築きあげ、ヤマに生きぬいてきたひとびとが、いまは一朝にしてのら犬のように追いはらわれ、あてもなく離散し流亡してゆくときである。
とにかく一刻も早く、一人でも多くのひとに会い、一つでも多くの笑い話をききだすこと、それ以外にはなにを考え、なにを顧みる余裕もない歳月がつづいた。それにしてもなんと残酷な行路であったことか、たずね歩くヤマはほとんど例外なくスクラップと化した廃墟であり、会うひとびともまが飢餓のどんぞこに喘ぐ失業者である。
そのひとたちから奪われた時代の笑い話を求めることは、わたし自身の主観的な願望や意図はともあれ、正直なところ、少なからぬ苦痛をわたしに覚えさせずにはおかなかった。
しかし彼らはわたしを咎めるどころか、むしろ大喜びで、すすんで話をきかせに集まってきてくれるのがつねであった。
わたしはその一つ一つに耳をかたむけながら、労働者にとって、労働とは何であるか、職場とは何であるのか、愛とは何であるのか、死とは、性とは、夫婦とは、仲間とは、いったい何であるのか、あらためて根本から考えなおさずにはいられなかった。
なによりも、わたし自身その一員として働いてきながら、労働者の歴史について、思想について、人間そのものについて、じつはなに一つ知らなかったのだということを、いやというほど思い知らされたのである。 それらの笑い話の集録と紹介が、かならずしもこの稿の目的ではない。
それを拾い歩くなかでわたしの感じたことを、幾つかの話をよりどころにしながら、思いつくまま、なるべく自由に書きとめてみたまでである。
したがって論理も一貫していなければ、独断も多い。
いつかあらためて整理すべき仕事のためにきわめて私的な覚え書き、ノートというほどのものとして、どうか読み流していただきたい。
炭鉱の歴史とは切っても切りはなせない囚人労働者や朝鮮人労働者、米騒動や数多くの争議をめぐる話など、ぜひふれておかねばならない重要なものがたくさんあるが、ここでは残念ながら割愛することにした。
とりあげた笑い話の舞台も九州と山口県の炭鉱に限られており、北海道や常磐地方まで足をふまえる余裕がなかった。
羊頭をかかげて狗肉を売るのそしりはまぬがれまい。 ただ、こんなものでもなにかの捨て石になって、さらに広く深く現代の日本の底から笑い話が掘り起こされるようになれば、もっとも愚かしいものにわたしを賭けようとした目的の半ばは達せられることになろう。
わが国の労働者階級の歴史や思想につていは、すでにさまざまの角度から照明があてられている。
しかしまだまだ多くの暗黒の部分が残されており、それを明らかにするためにも、笑い話の掘り起こしは欠くことのできない仕事であろう。
もとより一部の専門家や好事家にまかせておけばそれですむというような性質のものではない。
なによりもまず、それぞれの産業のなかで、そこに働く労働者自身の手によって積極的に仕事がすすめられることこそ肝要である。
それを突きあわせ重ねあわせることによって、はじめて日本の労働者の人間像なり思想像なりは、いまのようなひからびたものでなく、いきいきとして豊かな真実の生命を回復し、獲得するにちがいない。 ともあれ、地の底の笑い話をしてくれた老抗夫たちも、もうほとんど地底の闇の彼方へ去ってしまった。
いまとなっては、わたしに語ってくれたのは、地底の闇そのもであったのではなかろうかと思われてならない。
いつかふたたび、この無限の暗黒の底から新たな思想の火種を掘りだす者もあろう。
それだけがせめてものなぐさめである。
(『地の底の笑い話』上野英信 岩波新書 1967年)