2021年12月11日土曜日

空が霞んでいた

青空で風もなかったので歩いているとポカポカしてきました。
気温は、昨日とあまり変らないのに日差しがあたると違う!
暖められたからか?霞がかかったような空でした。
朝刊に
西平せれなさん 黒糖焼酎の酒蔵4代目を継いだミュージシャン」(朝日新聞)
父は、記事を切り抜いていました。
故郷で活躍していると人がいると嬉しそうにしています。

西平せれな 西平酒造4代目(Twitter)
奄美大島の酒蔵4代目代表&杜氏 創業94年 西平酒造 @kana_sango
奄美黒糖焼酎とmusic artistの「二足のハイヒール」というのがいいなぁ(*^^*)
NHK映像ファイル あの人に会いたい「サトウサンペイ(漫画家)」(見逃し配信:12月18日まで)
10分番組ですが、サトウサンペイさんが描いてきた漫画は、今でも新しい。
内容を一部転記します( ..)φ

(戦時中は勤労動員先で高射砲の弾丸作りに明け暮れ、迎えた終戦…。
戦後初めての授業が強く印象に残っているといいます)

先生が入ってきて、戦後1本目のチョークで
書いた字が何か知らないけど4文字あって
それは『民主主義』だった
あの日で、
『今までの軍国主義はなくなったんだよ』
『帝国主義や今までのはなくなりましたからね』
なんて言われると、そんなもん信用しなくなるよ
やはり哲学とか、
何か人間のものの考え方みたいなものが
もっと大事だと思った
三太郎も結局そうかもしれない
(漫画家として独立しようか)
どうしようかと思っているときに
たまたまチャップリンの映画がきてましてね
「ライムライト」(1952年)という
クレア・ブルームという
かわいい娘さんが出て来ますね
バレリーナで、それが脚を痛めて自殺未遂を図ると
その中でクレア・ブルームちゃんが
「どうしたら生きていけるの」と聞くところがあります
チャップリンは「簡単なことだ」と
「三つのものがあれば生きていける」
「希望と勇気と
サムマネー(a little dough)だろう」と
それをフッと聞いたときに
マッチマネーだとやっていけないけど
サムマネーと思えばいいんだなというふうに思いまして
それなら何とかやっていけるかと
 (政治や事件、風俗や流行に常に目を配り、ニュースや社会現象を積極的に取り込む。
サトウさんは「フジ三太郎」を「キョロキョロ漫画」と表現しました)
こういう漫画はサラリーマン生活をベースにしているけど
やはりキョロキョロしている
「キョロキョロ漫画」なんですね。
ですから目も、見る方の観察眼に方にも
やはりリアリズムの老眼鏡が欲しいわけですね。

(バブル経済の時期に)
「豊か豊かと言っているけど本当ですか」という疑問がいつもありますね
クリスマスなんか、プレゼントすると
お金持ちの子どもはもらっても
たくさんもらってるから「フン」なんて言ってこうやてるけど
三太郎のところの子どもは「ワーオ! ワー ヤッター!」なんて
そういうの描いたり
それは、こっちとしては、ささやかな抵抗だったと思いますね。
62歳で連載を終了後、運転免許やPCで描くことに挑戦
(それまで描くことのなかった戦争体験にも正面から向き合います)

空襲警報の最中にですね
もう慣れっこになっているから外にいたんですね。
そしたらいきなりアメリカの攻撃機が、僕を目がけて機銃掃射をしたんです。
ババババ~ン
びっくりしました本当
戦争って、いいもんじゃないよね
みんな分ってほしいよね
というのはあるんじゃない
やっぱり心の中に
描いてみると、あっこれはどんどん伝えられるなと思いました。

<終戦記念日のメニュー>
] おカユ または スイトン 少し
] ぬき(クー、クー、クー)
] イモ または イモツル
(4コマ目)
食べもので 教えるのがいちばん
戦時下の思想と作品群
 『正義と微笑』


 昭和17年初頭、太宰は『恥』を「婦人画報」、『新郎』を「新潮」、『十二月八日』を「婦人公論」、『律子と貞子』を「若草」に発表したあと、二月中旬から甲府市湯村の明治温泉に滞在し、二番目の長編小説『正義と微笑』の執筆にとりかかる。
そして二月末に一たん帰京してから、今度は武州御嶽駅前の和歌松旅館にこもって残りを完成するのである。
この『正義と微笑』は、私の弟の康久の、16歳から17歳にかけての日記をもとにしたもので、一中学生が大学の予科に進み、やがて大学を中退して、めざす演劇の世界に入ってゆくまでの、二年間の哀歓と苦闘を、やはり日記体でかき綴ったものである。
(『恋と革命 評伝・太宰治』堤重久 講談社現代新書 昭和48年)
その主人公芹川進の家庭環境その他は、ほぼ当時の実状を模したものであるが、作中の私らしき人物は、実は私自身と私の兄を混淆(こんこう)して、そこに世にも稀な一善人を創造していること、私は大学を卒業したのに、私らしき人物は太宰と同じく中途退学していること、実際に康久が師事したのは秋田雨雀氏であったが、それが斎藤市蔵という傲慢不遜の大劇作家と化して、そこには佐藤春夫の雰囲気がただよっていること、当時康久をとらえていたマルキシズムが、そっくり聖書をめぐる信仰精神に入れ替わっていること、その他さまざまの創作的換骨奪還がほどこされていることは勿論である。
その詳細は省くとして、ここにいっておきたいのは、そのもとの康久の日記そのものには、いまだ混沌未分の、少年期の生(なま)な情熱が煮えたぎっていたものが、『正義と微笑』では精緻に整理され、清麗なカットグラスみたいに彫琢(ちょうたく)されて、まったく別種の芸術品に昇華していることである。
 いいかえれば、太宰は「かるみ」の手法によって、重く熱くたぎる激情を洗い落として、そこに軽やかな、陰影の深い、清潔な少年像を創造したのであった。
ことにも末尾の、一少年がついに社会人に転換するくだりは、後年の『津軽』の終章に劣らず、みごとな絶唱となって人の胸を打つ。
「僕は、兄さんと、もうはっきり違った世界に住んでいる事を自覚した。僕は日焼けした生活人だ。ロマンチシズムは、もう無いのだ。筋張(すじば)った、意地悪のリアリストだ。変ったなあ。
 黒いソフトをかぶって、背広を着た少年。おしろいの匂いのする鞄をかかえて、東京駅前の広場を歩いている。これがあの、十六歳の春から苦しみ抜いた揚句の果に、ぽとり一粒結晶して落ちた真珠の姿か。あの永い苦悩の、総決算がこの小さい、寒そうな姿一つだ。すれちがう人、ひとりとして僕の二箇年の、滅茶苦茶の努力に気がつくまい。よくも死にもせず、発狂もせずに、ねばって来たものだと僕は思っているのだが、よその人は、ただ、あの道楽息子も、とうとう役者に成りさがった、と眉をひそめて言うだろう。芸術家の運命は、いつでもそんなものだ。
 誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。
「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」」
(『恋と革命 評伝・太宰治』堤重久 講談社現代新書 昭和48年)