2021年12月6日月曜日

曇り空だったけど

 昨日の天気予報では、雨。
歩きはじめは曇り空だったので雨を覚悟していましたが、
しだいに青空が見えてきました。
天王寺蕪が顔を出していた。
信州方面に旅をした時の楽しみだった野沢菜は、
健命寺の和尚さんが天王寺蕪の種を持ち帰ったことから生まれたそうです。

その由来の碑が四天王寺にあります。
野沢菜伝来の記念碑が建立! 天王寺蕪→進化→野沢菜!」(四天王寺活動報告ブログ)
アナザーストーリーズ 「時代に翻弄された歌 イムジン河」(見逃し配信:12月12日まで
を地上波で見ることができました。
中学生の頃、ラジオから流れてきた「イムジン河」は1、2回ほどしか聞いていないと思うけど忘れられない曲だった。
発売中止になった時になんでやと思った!
もうCDは廃版になり、本は品切れになっているけど…
CDのライナーノーツを松山猛さんが書いている。
ザ・フォーク・クルセダーズ/イムジン河  ライナーノーツ 
 
僕が“イムジン河”という歌を初めて耳にしたのは、京都で育った中学生の頃のことだ。
その頃朝鮮系の生徒と日本の若者は、ことあるたびにケンカばかりしているという現実をなんとかしたいという、純情な動機を胸に、サッカーの対抗試合を提案に出かけた時、当時銀閣寺近くにあった朝鮮中高等学校の、どこからか聴えてきたコーラスが“イムジン河”だったのだ。
ビクターエンタテインメント 2002年)
それから数年、十代の終り頃にザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦に、ステージで歌ってみたらとその歌をつたえた。
あの頃京都はアマチュアによるフォークソング・ブームの只中であり、そしてアジアの一画ヴェトナムでは、終りのなさそうな戦争が続いていたのだ。
戦争で傷つく人や破壊される文化や暮し、そして政治的対立による国家の分断。
そんなことはもうごめんだし、早く世界が希望にあふれた人間の棲家となれるようにとの、願いをこめて詞を書いたのだった。
ザ・フォーク・クルセダーズのアマチュア時代の自主製作レコード“ハレンチ”が、思いがけなくも世間の注目を浴び、“帰って来たヨッパライ”に次ぐ、シングル・カット第2弾として用意された“イムジン河”は、あまりに政治的問題の種にされやすいと、発売を目前に、東芝レコードが発売を中止するとの判断をしてしまった。
以来三十余年、この歌は封印されてしまったにもかかわらず、多くの人の魂の中で歌い継がれてきたのだった。
当時ラジオ番組で数回流されただけだと言うのに。
イムジン河はそれから、僕にとっても幻の流れとなりそうだったのだが、今から五年前に、在日韓国系の知人が、松山さんにはあの河を見る責任もあると言われ、彼と共に朝鮮半島三十八度線への旅をしたのだった。
厳寒の一月、凍てつく大気のもと、イムジン河周辺は白氷におおわれていたが、雪溶けが始ると、機雷が浮ぶとその日に聞いた。
発売中止から三十年以上の時が流れたが、朝鮮半島には事実上の国境と言うべき軍事境界線が今もあり、また世界各地では民族や宗教の対立による紛争が、ますますエスカレートするばかりの現実がある。
イムジン河は、地理のうえの河だけではなく、実は人間と人間のあいだにも流れる、心のへだたりであるかも知れないと、僕は大人になって考えたのだ。
二〇世紀に生み出された、イデオロギーの対立、そして経済の南北問題、この世はこれからも複雑で在り続けるだろうけれど、自らの魂の窓を大きく開いて、他者を見つめその言葉を聴き、相手の文化に敬意を払うことから、僕たちは生き続けていかねばならないのだ。
今回、封印をとかれた“イムジン河”から、それぞれが乗り越えなくてはならぬ何事かを感じ、未来への希望の種を、多くの人に発見してもらいたいとこの一文を記した。
   松山猛
ビクターエンタテインメント 2002年)
「イムジン河」は国境を越え日本人の歌になった 加藤和彦

 「イムジン河」は南北を隔てる河でもあるが、松山と私にとっては青春と成年を分かつ河でもある。
松山がこの歌を聞かせてくれたとき、我々は青春の真ったただ中にいた。
そこにはディランが、ギンズバーグが、サルトルが、ルルーシュがいた。
我らの青年期と呼ぶべき年ごろを生きた者にとって、そこにあった歌や詩や劇作や映画やらは、なんと瑞々しく映り、またその後の我らの人生にとってなんと素晴らしい影響を与えたことであったであろうか。
(『少年Mのイムジン河』松山猛 木楽舎 2002年)
 私たちは夜な夜な松山の小さな自室に引きこもり歌を作っていた。
私がギターでメロディを見つけると松山は直ちにそれに詩を付けた。
それを松山はテナーで歌うのであった。
大半はたわいもない愛の歌であったり、ホラ話の歌であったり、まだ見ぬ巴里の街に託したシャンソンもどきであったりした。
 明け方近くまでこの様にして過ごした。
清々しい朝露を感じながら、ちょっと離れた私の自宅まで歩いて帰るのは、若さをもってしても大変であったが毎日そうやって帰った。
ちょっとの睡眠の後、学校に少しだけ顔を出し、午後はアマチュアのザ・フォーク・クルセダーズの練習に向かった。
夕方、松山と四条河原町あたりで落ち合い、松山の遠い親戚の寿司屋で余った烏賊のゲソなどをもらい、松山の家の近くのお好み焼き屋でそのゲソでお好み焼きを作らせてもらい、2人で食べた。
 そのような中で「イムジン河」は生まれた。
この歌は松山が作詞したものでもなければ私が作曲したものでもない。
はるか北の大地から、不思議な運命で我々のもとに届いた。
しかし「イムジン河」に命を与えたのは、我々であると思う。
誰がこの原曲を口ずさみたいであろうか。
誰がこの原曲の歌詞に涙するであろうか。
不遜を承知でこんなことを言う。
「イムジン河」はイムジン河であって、リムジンガンではないのである。
こうして国境を越え「イムジン河」は日本人の歌にもなったのである。
「イムジン河」はいつまでも私と松山にとって青春の河なのである。
「イムジン河」が聴こえる きたやま おさむ

 手に入らず聴くことも許されなかった「あの幻の名曲」が商品になるというのは、確かに事件だろう。
コンピュータで私的に無数の複製を作ることのできる現代では稀なことだが、当時の音楽は、とくに政治と絡むと、本当にドラマチックで大きな事件になった。
  昨年もまた発売が検討されながら、それには及ばずという結論が出て、多くの人が「やっぱり無理か」と落ち込んでいた。
私も実際生きている間は、発売は不可能かなと感じたことがあるくらいだ。
にもかかわらず、この曲のことをずっと愛してくれた人たちが無数にいる。
 我がことのように喜んでくれる彼や彼女たちは、若い頃からこの曲をギターを弾きながら歌えるというのだ。
レコードもないのに。
あの時、ラジオやコンサートで数回耳にしただけなのに。
それだけ熱い思いで耳を傾けたのだろう。
 あの時、誰が、そしてなぜレコードを発売中止にしたのかという問いは、誰が半島を分けてしまったのかという歌詞と同じくらい深い。
その複雑な経緯はひと言では言えないが、この本を読んでもらえば、背景にあるものを理解できるようになっている。
情報化時代の今ならすぐにわかることで、実に考えられないことだが、私たちは素朴に朝鮮民謡だと単純に思い込んでいたのだ。
 それにしても、無理して発売しなくてよかったのだと思う。
あの時強行して発売していたら、歌うことすら難しくなっていたかもしれない。
原詞は、日本語に訳されたものがインターネットでも手に入るが、可能なら松山猛さんの訳詞とを見比べてもらいたい。
この歌詞は、訳詞というより、ほとんど作詞というべきだろう。
原詞が北を中心にした考えを歌っているのに対して、北から南は「飛びゆく鳥よ自由の使者よ」と自由な交流に向けて歌っている。
はっきり言って、歌詞が時代より早すぎたのである。
 今も、目をつむると聴こえてくる。
「皆さん想像して下さい。もし、大阪と東京の間のどこかで日本が引き裂かれていたら」と、司会の私が言って、加藤和彦さんのイントロで歌った私たちは20歳だった。
若かった。
 時代に対してあまりに早すぎたあの歌詞は、55歳になった今でも、まだ早い。
(『少年Mのイムジン河』松山猛 木楽舎 2002年)
中学生の松山少年は、朝鮮中学の友だち文(ムン)くんに歌詞を教えてもらっています。
文くんは、朝鮮語の歌詞と1番の日本語訳、朝日語小辞典の新しいのを学校で買って松山少年にくれたのです。
文くんは、あえて1番の歌詞だけを教えてくれたのだと思いました。
 今朝の父の一枚です(^^)v

ジョウビタキ スズメ目ツグミ科
(前略)
 冬、庭先などに縄張りを持つ個体は、まず、鳴きながら籔を出て、目線ぐらいの枝にとまり、電線まで飛び上がり、やがて姿を消す。
しばらくするともとの籔に戻っており、再度同じパターンの行動をすることが多い。
縄張りに入ったメジロなどを攻撃する姿も見かける。
・とまっているとき、尾を上下に振る。
・鏡に映った自分の姿を敵と間違えて攻撃することもある。
(『野鳥 しぐさでわかる身近な野鳥』久保田修/構成 藤田和生/絵 学研 2006年)