週末には再び寒波が襲来するみたい…
動きがゆっくりだなと思っていた台風22号が、被害を大きくしている
「台風22号 フィリピンで被害広がる 死者169人 行方不明50人」(NHK)
台風の影響かな?
「マレーシア 大雨のため各地で洪水 2万人超が避難」(NHK) 龍谷ミュージアム元館長さんのTwitterに
テレビ局に申し上げたい。
いまこの時点で、急死した神田沙也加さんのことを大きく取り上げるのはやめるべきです。
影響が大きすぎます。
コロナ禍で不安が蔓延しているのです。
とりわけ若者は過敏です。
配慮があってしかるべきです。
(大阪のクリニック放火事件も京都アニメーション放火事件の模倣犯だと思う)
2 伝承のなかのマリヤ受胎告知
マリヤ讃歌
マリヤは大急ぎでザカリヤの家にいるエリザベツのもとにゆき、出来事を語ると、エリザベツの胎(たい)にいる子供(洗礼者ヨハネ)も喜んで躍ったという。
わが魂は主をあがめ
わが霊は救い主なる神をたたえます
この端女(はしため)をさえ、み心にかけ給うた
今よりのち代々の人々はわたしを幸いの女というでありましょう……
これは有名なマリヤの讃歌といわれるものである。
マリヤは聖霊にみたされるだけでなく、エリザベツも神殿奉仕の大役をつとめるその夫ザカリヤや預言者シメオンなど、いずれも聖霊にみたされて全く啞(おし)になったり、預言を語ったりして、霊感の働きが随所に見られる。
ヨハネ福音書も、「血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、ただ神によって生れる」霊性への自覚を強調している。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年) 喜びの音信
この受胎告知については昔から多くの議論があり、さまざまな意見があるが、それをここでいちいち紹介するわけにはいかない。
今はこの出来事の主要な問題と思われるものをここにあげてみたい。
この受胎告知は神とマリヤの対話である。
この対話においてマリヤが示した敬虔な帰依の態度は、後のキリスト者の模範と仰がれており、「天使ケルビムの旅人」という短詩集の有名な宗教詩人アンゲルス・シレジウエスもこれに基づいてつぎのように歌っている。 神がわたしに永遠に祝福を与えてくれるとすれば
わたしはマリヤでなければならぬし
わたしから神が生まれなければならぬ
マリヤが神の祝福を得たことを、ただ外側の一つの出来事として理解し、受け取るだけでなく、それぞれの「わたし」がマリヤと同じ場に立ち、いかにしてその祝福を受けるか、その言葉にしたがうかを問いかける。
無意識に生まれてくる幼児に神が人間の子となって生まれてくる秘儀は、神秘思想において内面化されるのである。
わたしは神の子であり、神はまたわたしの子である
双方が互いにこのようであることがどうして起こるのか
マリヤは神の花嫁であるが、他方生まれた神はわが子となる。
神と人間の新しい結合をシレジウスはこのように歌っている。
やはりマリヤにおける受胎告知は新しい神の子の誕生の喜びの音信であり、キリスト教の成立を告げる重みをもつ。2 伝承のなかのマリヤ
神の子の誕生
新しい希望
文化史的に見ると、さきにあげたエジプトのオシリス、イシスのあいだに太陽神ホルスが誕生するように、ギリシャでも、復活の神であり、葡萄の神として熱狂的な祭がおこなわれたディオニソスの神は、穀物の女神デメーテルの娘でハデスの女王となったペルセフォネとゼウスのあいだに生まれた神の子である。
インドのクリシュナ神の誕生も、神の子の誕生である。
世界の諸宗教のなかには年々に新しく若々しい神の子が誕生し、これを迎えるとか、年老いた神が再生して新しい春の生命を持って訪れるという考えがある。
神が人間のなかにはいってくるのに、母胎の混沌の中へ眼に見えぬ小さな種子や芽となって誕生するという宗教的思惟には一つの共通の原型が見られる。 中世につぎのよう伝説がある。
マイスター・エックハルトは美しい裸の幼児に出合った。
「おまえはどこから来たのか」とたずねると、「神から来た」と答えた。
「ではこどへ行こうとするか」と問うと、「徳のある心に」と答える。
「おまえは神をどこに見出すか」とたずねると、「すべての被造物から見出す」という。
「おまえはだれなのか」ときくと、「わたしは王者である」と答える。
「おまえの王国はどこか」とたずねると、「わたしの心のなかである」と答える。
エックハルトのような神秘思想家が思索の果てにこのように幼児と問答したのは興味深いことである。
この幼児は人間となった神、神の幼児である。 神の子の誕生は、つねに新しい出発点となる原型である。
とくにキリスト教においては名もなく、貧しい、取るに足らない存在のなかにひそかに神の救いの意図が宿され、あらゆる苦難や危険のなかをくぐり抜け、人間としての悩みを味わいながら、やがてその真の姿をあらわしてゆくという態度がある。
ガリラヤのナザレの町といい、マリヤ、ヨセフといい、ベツレヘムの馬小屋の誕生といい、すべて同じである。
もっとも力のない弱い幼児、母親の献身的な愛なくしてはけっして存在を保ち得ない幼児に新しい希望が托されているいることが一つの劇的で神秘で測りがたい道を暗示している。 キリストの誕生
キリストの誕生について、マタイ福音書はつぎのように語っている。
東方の博士たちが星をたよりに旅をして来、メシヤがどこに生れたかを探し求める。
彼らはベツレヘムの馬小屋で生れたイエスをその母を見て拝し、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を献げて帰っていった。
ルカ福音書によれば、マリヤとヨセフはベツレヘムで宿るところがなく、馬小屋に宿り、そこで幼児(おさなご)を産む。
荒野で羊を飼っている羊飼いたちに天使があらわれ、メシヤが生まれたことを告げる。
そのとき天の軍勢があらわれ、天使と一緒に讃美していった。
羊飼いたちは飼葉桶(かいばおけ)の幼児を探しあて、お告げのごくであったことを喜び、神を讃美して帰っていった(ルカ二ノ1-20)。 これらの叙述は、すぐれた聖者や大王のごとき存在は異常な出生をするというオリエント地域の伝承を背景にしている。
モーセやサルゴン大王が捨子として蘆舟に流されたが、奇しくも拾われてイスラエルの諸部族の統一をはかったり、メソポタミヤに大帝国を築いたりするのと同じである。
救い主がきらびやかな宮殿で生れずにみすぼらしい馬小屋で生れるという伝承はネストリウス派(景教)の中国伝道を通じて、倭国(わこく)の教主廐戸皇子(うまやどのおうじ)聖徳太子の誕生にまで及んでいる。
このベツレヘムのイエスの誕生と東方の博士、羊飼いたちの礼拝は、キリスト教の最大の行事のクリスマスとして祝われるようになる。
(『聖母マリヤ』植田重雄 岩波新書 1987年)
つづく…今朝の父の一枚です(^^)v
シジュウカラが朝ごはんを探しています。
嵯峨野の鳥便り 瀬戸内寂聴
寂庵を賑(にぎ)わす小鳥
寂庵は五月頃から十月頃まで障子をあけ放っておく。
すると、小鳥は、座敷の中と外との区別がつかなくなり、客の坐っている頭の上を平気で飛んで横ぎる。
(中略)
花の蜜を吸う小鳥はちっとも人を怖れない。
私の姿が使づいても、悠々(ゆうゆう)とおなかいっぱい花蜜を吸いあげないと動こうとしない。
小鳥に蜜を吸われて、ゆらゆら、ゆらめいている花の姿は最も美しく、エロティックな匂(にお)いがする。
小鳥の方も、食欲をみたしているというより、性欲をみたしているような、やさしいこまやかな動きを見せる。
(中略)
目白や、四十雀(しじゅうから)もよく来るが、椋鳥(むくどり)が騒々しい声で鳴きながら、木立の中から降りていることがある。
四十雀や鶺鴒(せきれい)は可愛い。
(中略)
嵯峨の小鳥は雀をはじめ、何鳥でも、どうも、人おじしないようだ。
特に寂庵に来る小鳥は逃げる気が全(まった)くないようで、そばに寄ってもいっても平気でいる。
(後略)
(『野鳥の歳時記4 秋の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)