2019年9月25日水曜日

秋季彼岸会(四天王寺)~空堀~大阪城など

四天王寺の五智光院永代祠堂施餓鬼法要に父と参列しました。
デジカメのスイッチを押すと
バッテリーを充電してください」のメッセージ( ゚Д゚)
いつもは出かける前にスイッチを入れて確認するのに…
今回は、ガラホで撮影することに…
メールに添付することを考えて2Mに設定しているで
昔を思い出す画質になっているなぁ…(^^ゞ
浮世絵EDO-LIFE「宙に浮く亀…広重“名所江戸百景 深川万年橋”」で
亀が吊り下げられているのですが放生会の一コマだそうです。
名所江戸百景 深川万年橋」(錦絵でたのしむ江戸の名所)

江戸名所図会7巻」(9/56 国立国会図書館)には
図の左下に亀を売る男が描かれています。
お土産に「釣鐘まんじゅう
祖父母と義弟の墓参りをしたあと帰りました。
父とは谷町六丁目で別れて…
「きっと なせる 市蔵」
「なせる」
大久保市蔵はそういってうなずくと
吉之助の手を握った
軽輩のすべては同じ心で
磯浜を桜島を眺めていた
  直木三十五「南国太平記」より

直木三十五の文学碑が石段の途中にあります。
なんかビームが射している…

榎木大明神の由来
 長年に亘り、地元の人達に「エノキさん」「巳さん」と親しみ呼ばれているこの大樹は、正しくは「槐(エンジュ)」という中国原産の樹である。
楠木正成公がお手植という説もあり、樹齢はおよそ650年と言われている。
 豊臣の時代には当地も大阪城域で、この辺りは紀州熊野参りとお伊勢参りの街道筋だった。
だから大きくそびえるこの樹は、何よりの目印になったし、また地元の人達は土地神として「白蛇大明神」の祠を建てて、代々この樹をお守りしてきた。
 昭和20年(1945年)第2次世界大戦の大空襲の折には、襲ってきた猛火がこの樹の辺りでぴたりと止まり、東側一帯が危うく類焼を免れた。
これも霊験のひとつとして語り伝えられており、毎年春のお彼岸前後には、地元「箔美会」の人達により、榎木大明神の大祭が挙行されている。
 昭和63年(1988年)、当樹が枯死寸前の状態になったとき、大阪市と「箔美会」からの依頼を受けた山野忠彦樹医の適切な延命治療により、再び元気をとりもどした。
 そして現在、樹勢は極めて盛んとなり、地元で生誕された直木賞で有名な直木三十五の文学碑とともに、都心のオアシスとなっている。
 平成6年(1994年)10月吉日
   榎木大明神 箔美会
 散歩がてら、昌一はよく大阪大空襲の体験談を大輔に語って聞かせた。
爆弾でやられた人の死体が、電信柱の高さまで吹っ飛んで、電線に引っかかっていたという話は怖くて嫌いだったが、榎木(えのき)大明神が空襲を受けても燃えなかったという話は、大輔のお気に入りだった。
 実際に巳さんから、約二百メートル南に位置する空堀商店街の周辺にかけ、町には古い長屋がいくらでも残っている。
なかには築百年を超える長屋もざらである。
それらが燃えずに残ったのは、祖父曰く、己さんが守ってくれたおかげなのだそうだ。
 己さんの御神木は、樹齢六百七十年を超えるらしい。
豊臣秀吉が大阪城を建てる二百五十年前から、己さんは今の場所に立っていた計算になる。
昌一によると、豊臣秀吉の時代、大阪城は今よりもさらに規模が大きく、榎大明神もかつては大阪城のなかにあったという。
「空堀商店街の『からほり』は、大阪城の空堀があったからなんやで」
 己さんの他にも、近所の地名の由来を、昌一は大輔にあれこれ教えて聞かせてくれた。
大坂夏の陣で、家がたくさん焼けて、復興のために瓦職人が集まったから瓦屋町。
その瓦職人が素焼きの人形をついでに作ったことがきっかけで、人形店街へ発展した松屋町。
空堀商店街を松屋町筋とともに挟む谷町筋は、大阪城を攻める徳川軍が進軍したところ。
相撲のタニマチは谷町筋に昔住んでいたお医者さんが、大の相撲ファンだったから――。
(『プリンセス・トヨトミ』万城目学 文春文庫 2011年)
巳さんなので玉子が供えられていました(*´▽`*)
戻る時に直木三十五文学碑の裏を見ると

直木 三十五
1891(明治24)年 南区安堂寺寺町に生まれる
「南国太平記」以下の新しい大衆文芸の創造を目ざした
その名は大衆文学作家の登竜門である「直木賞」に残る


と紳士靴が残っていました?
「直木三十五記念館」に寄ったのですが休館日でした(:_;)
 空堀商店街とは、実に奇妙な商店街である。
 地下鉄鶴見緑地線(つるみりょくちせん)松屋町駅を出て、松屋町筋を百五十メートル南下する。
 通りに面した案内ゲートをくぐると、正面にアーケードの入り口が見えてくる。
アーケードを見上げると、「空堀商店街」という丸っこい文字の横に、「KARAHORI MALL」と英語で表記されている。
 ここから商店街は約八百メートルにわたって、一直線に坂道を駆け上がる。
八百屋、魚屋、昆布屋、肉屋、和菓子屋、豆腐屋、時計屋、鰹節屋、カーテン屋、おもちゃ屋、ジャコ屋――などの商店をびっしり両脇に従え、谷町筋までひたすら急な坂道が続く。
自転車で漕ぎ上がるのは、若者でもなかなか困難だ。
しかし、自転車のカゴにわんさと荷物を積んで、中高年のおばさま方はたくましく坂道を漕いでいく。
さらに前後にちびっ子を乗せ、お母さま方が勇ましくあとに続く。
豊臣秀吉の偉業に因(ちな)んだ地名を戴く商店街は、今も活気溢れる庶民の台所である。
(『プリンセス・トヨトミ』万城目学 文春文庫 2011年)
脇に路地(ろーじ)があってついつい誘われる(^_-)-☆
 もっとも、大阪城の空堀だったという言い伝えはあれども、堀の跡はどこにも残っていない。
「馬の背」にもたとえられる、上町(うえまち)台地から派生する大小様々な坂が、人々の前に立ちはだかるのみである。
まさしくこの街は、〝坂道を抱いて〟いる。
(『プリンセス・トヨトミ』万城目学 文春文庫 2011年)
万城目学さんおすすめのお好み焼き屋「冨紗屋本店」
平日は夜のみ営業だった…(T_T)
もう一軒、どうかなと思っていたお好み焼き屋も開店していなかったので…
歩いて歩いて…日替わりサービスランチを食べることに…
「チェダーチーズ入りミンチカツ」でした。
ご飯を少な目にしてもらいました(*´▽`*)
ついついここを目ざしてしまいました。
グリル「stereo(ステレオ)」
四 室戸台風と教育塔
 水害の源は洪水だけではない。
高潮や津波によって、流れ込む海水も都市を洗い尽くす。
大阪でいえば、昭和9(1937)年9月21日の大風水害が記録に残る。
一般に室戸台風の名で知られる大型台風による被害は甚大であった。
死者2702人、このうち大阪湾一帯の溺死者がかなりの割合を占めた。
行方不明者334人、負傷者1万4994人を数えた。
四国を抜けて関西に最上陸をしたのが午前8時頃、満潮を過ぎてはいたがまだ潮位は高かった。
加えて室戸岬に上陸した際には911.6ヘクトパスカルの強さ、大阪方面に到来した際にも最大瞬間風速60メートルを維持していた。
ゆえに大阪湾沿岸一帯に4メートルを超える高潮をもたらす。
大阪港では、半時間程の間に堤防を2メートルも超える海水が市街地に逆流した。
 港湾地区の被害は甚大であった。
市域の西半分は高潮で水につかり、工場地帯は大きな打撃を受けた。
停泊する船舶も百隻ほどが沈み、総計1942隻が損傷を受けた。
大正橋付近には、多くの艀(はしけ)が吹き寄せられ、ぶつかりあって損傷し、あたかも「船の墓場」のごとき様子を示したという。
築港大桟橋も中間部で分断された。
大阪港修築工事のシンボルであった東洋一の大桟橋の近傍には、千トン級の汽船・瑞宝丸が赤い腹を見せて、岸壁に乗りあげていた。
また倒壊した桜島の大クレーンの脇には1千トン級の運天丸、第一突堤基部では6300トンの「うらる丸」が座礁した(図4―7~8 略)。
 水位の上昇が極端に速かったため、多くの人が逃げ遅れた。
加えて強風が建物を襲う。
四天王寺五重塔は一瞬にして倒壊、測候所の計器は60メートルを示したまま吹き飛ばされた。
鉄道の鉄塔は折れ曲がったまま、電車も横倒しになった(図4―9~10 略)。
 なかでも被害は学校に集中する結果となった。
最大風速に達したのが、子供たちの登校時間に合致したことが悲劇を招いたのだ。
大阪市内の小学校244校のうち7割におよぶ木造校舎が倒壊、もしくは大破した。
学校での犠牲者は府下で650名を超え、市内だけでも262名を数えた。
また堺の三宝小学校では児童54名、教師1名の死者があった。
救出に出向いた保護者たちの二次災害による被害者もあった。
死亡した教師のなかには児童の命を救うため自身が犠牲となった例もある。
子供たちを腕に抱いたまま絶命した、文字どおりの殉職もあった(図4―11 略)。
 この痛ましい災害ののち、大阪では堅牢な鉄筋コンクリート校舎での再建が本格化する。
同時にある婦人が「師弟地蔵」を建立することを提唱するなど、犠牲者の慰霊を求める気運が高まる。
各種の運動が実を結び、帝国教育会の首唱のもと、かつ全国からの寄付を受けて、大手前広場に教育塔が建立されることになった。
高さ33メートル、花崗岩張り、塔上に水煙を飾り、殉難した児童・教職員の氏名が刻まれた芳名板を収める。
正面入口左右のレリーフは右が教育精神、左に教育者の児童愛を表現する。
昭和11(1936)年秋の竣工にあわせて、第一回の「教育祭」が挙行された。
以降、戦時下の動員学徒等をも含めて、教育時間中に不慮の災害によって死亡した児童・生徒・学生や教職員の合祀が継続されている。
 水都の繁栄は、災禍と表裏一体である。
おのずと暴れる川をいかに治め、海から来襲する自然をいかに制御するのか。
人の知恵と技術なしには、都市の物語を綴ることも叶わない。
(『「水都」大阪物語――再生への歴史文化的考察』橋爪紳也 藤原書店 2011年)
万城目学さんの『プリンセス・トヨトミ』を読み返していたので
ここまで来たら大阪城を素通りできないp(^^)q
ラグビーワールドカップが開催されていることもあるのかな?
いつもにまして外国からの観光客が多かったな…
旧第四師団司令部庁舎(もと大阪市立博物館)が現在は、
ミライザ大阪城」になっています。
一度は訪ねてみたいですが、今日は歩き過ぎました(^^;
確か2016年に放送された
ブラタモリ「#54 大坂城・真田丸スペシャル~大坂城はなぜ難攻不落?~
で、蓋が開けられて中を見ることができたと思う(*´▽`*)
徳川の大坂城と現在の大阪城
 三国無双の城とうたわれた秀吉の大坂城も、元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼失。
その後、大坂城主となった徳川家康の外孫松平忠明は、旧三の丸地域に伏見町人を移して市街地の復興に尽力した。
そして元和5年(1619)、大坂を直轄地とした幕府によって翌6年から10年に及ぶ大工事で《二代目の大坂城》が再建された。
工事は徳川の権威を示すために六十四カ国の西国大名を動員して行なわれたが、現在に残る巨石を積んだ石垣などはこのときのものといわれる。
 しかしこの徳川の大坂城も、天守閣は寛文6年(1666)に落雷で焼失し、その他の建物も明治維新の兵火などで大半失われた。
現在の天守閣《三代目の大坂(大阪)城》は、昭和6年に市民の寄付により、「大坂夏の陣図屏風」を参考にして秀吉時代の外観で再建されたもの。
城内は夏の陣図屏風をはじめ、大坂城関係資料を集めた歴史・郷土館となっている。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)
大阪城に残る空襲の跡です(2013年10月17日の記事
秀頼・淀殿らの自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、
徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、
山里丸にあった櫓(やぐら)にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。
京橋駅まで歩いている途中で何度もアイスクリームを食べている姿を目撃。
本当は、途中で食べたかったけど今日の天気では溶けそうだったので
京甘味 文の助茶屋」でソフト入り抹茶あんみつをいただきました(^^)v
高台寺を訪ねたときは素通りしたけど(^^ゞ
2019年6月8日の記事