2019年6月8日土曜日

高台寺、圓徳院、茶亭よし本…

建仁寺の前を通って…
2015年7月9日の記事
覗いているのは…(^^ゞ
崇徳天皇御廟 
  御由緒
崇徳上皇(75代)は、平安時代の末、保元の乱(西暦1156)により、
讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。
上皇は血書をもって京都への御遷幸を願われたが、
意の如くならず憤怒の御炎のまま、
長寛二年(1164)夏、四十六歳にて崩御。
五色台白峰山の御陵に奉葬された。
 上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けて、
この場所に一塚を築き亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
 その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、
御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、
此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。
 なお、孝明・明治両天皇の聖慮により、
白峯神宮が創建され元官幣大社として尊崇され今日に至っている。
  当御廟所 月次祭 毎月二十一日 齋行
    白峯神宮
(上京区今出川堀川東入る)

 「白峯神宮 由緒 崇徳天皇御廟所
好きな小路に入るとあっちこっちに
「撮影禁止」のマークがありました…
 「石塀小路(いしべこうじ)」(祇園商店街振興組合)
今日、多くの人々が
「ねねの道」を散策
楽しんでいる。
この地を、
桜で覆うことが
湯浅卯之助氏の
夢であった。
その夢を叶えるため、
植樹し続けた翁に
敬意を表す。
  髙臺寺執事長 圓徳紹道
   平成26年4月吉日

今日の目的の一つです!
高台寺掌美術館
明日までですが、おねねの肖像をみることができます。
(てのひら)のように小さな美術館です(*´▽`*)
この掌美術館、高台寺、圓徳院を回ることができる
共通割引拝観券」(900円)があります。
「オリジナル絵はがき」をいただきました(^^♪
豊臣秀吉の出世守本尊
三面大黒尊天の由来

 東山圓徳院の三面大黒天は、
福徳信仰の象徴として豊臣秀吉が
念持仏としたといわれる珍しい尊像であります。
 三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像であります。
 大黒天は、いうまでもなく福の神であり、
毘沙門天は、勝利あるいは子宝の神であり、
弁財天は、音楽・知恵・情操等をつかさどる学問、芸術の神であります。
 この開運三面大黒天を信仰されることによって
皆様方の家運益々の隆昌と、
ご家族の無事息災を得られることをお祈り致します。
  東山 圓徳院
 歌仙堂
「歌仙」とは安土桃山時代から江戸時代初期の
武将・大名・歌人であった木下長嘯子(ちょうしょうし)のことです。
この歌仙堂には、彼の御位牌(大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士)がまつられています。
 長嘯子は、名を木下勝俊(かつとし)といい北政所ねねの兄、
家定(いえさだ)の嫡男として、1569年尾張に生まれました。
幼い頃から秀吉公に仕え、19歳の時に龍野城主となり、
1594年26歳で若狭小浜城主となりました。
しかし、関ケ原の戦いの際、家族の情を優先してしまい、
武人になり切れず、徳川家康に領地を奪われてしまいました。
その後、出家して東山に隠棲し、文人として生きることを選びました。
高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営み、長嘯子と号しました。
この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣があり、
その2階には三十六歌仙図を掲げました。
 長嘯子の歌風は感動の発露の中にいきいきとした清新さが息づき、
近世和歌の革新の萌芽を内包していたといいます。
ひとことでいうと、人としての感情、心の動きをありのまま奔放に表現していたのです。
大名として最高の文化的素養を備えていた人物を言えます。
これが、木下長嘯子をして「歌仙」と呼ぶいわれなのです。
 1649年に死去しましたが、遺された和歌作品の数々は、
弟子の山本春正らによって編纂された歌文集『挙白集』に収載されています。

作品
・あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな

・よしあしを人の心にまかせつつそらうそぶきてわたすよの中

・むらさきも朱(あけ)もみどりも春の色はあるにもあらぬ山桜かな

・枝も葉もかぞふばかりに月すめば影たしかなる庭のときは木

・露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり
石段(台所坂)を上がっていくと
高台寺(こうだいじ)
高台寺
 正しくは鷲峰山(しゅうほうざん)高台聖寿禅寺(しょうじゅぜんじ)と号する
臨済宗建仁寺派の寺院。
本尊は釈迦如来。
1605(慶長10)年、豊臣秀吉正室北政所が徳川家康の援助を得て、
亡夫の菩提をとむらうために建立。
当初は曹洞宗であったが、1622(元和8)年に
三江紹益(さんこうじょうえき)を迎え中開祖とし、臨済宗に改めた。
以後、再々火災にあったが、
表門・開山(かいさん)堂・霊屋(たまや)・観月台・
茶室の傘(からかさ)亭および時雨(しぐれ)亭は、
開創当時の建造物で、いずれも桃山期の荘重華麗な特色を保ち、重要文化財。
とくに表門・観月台と2つの茶室は伏見城の遺構と伝える。
建物内部および調度品に、高台寺蒔絵(まきえ)と称される金蒔絵の華麗な装飾がほどこされている。
開山堂を中心に広がる庭園(国史跡・名勝)は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の築造という。
寺宝に「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)十六羅漢図」(16幅)・「豊臣秀吉像」および蒔絵調度類など多数。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
KBS京都の「京都浪漫悠久の物語」の
第29回 八坂の塔から高台寺~ねねの思いが宿る地へ~
を見ていて訪ねたいなと思っていました。
偃月池(えんげつち)
臥龍池(がりょうち)に…
臥龍廊(がりゅうろう)
開山堂
霊屋(おたまや)は工事中でしたが
台風の被害の修復工事ではなくて
漆の塗り替えが行われていました。
傘亭(左)と時雨亭(右)が見えてきました。
傘亭
雨が降り出しました。
時雨亭
勅使門
うさぎと唐獅子が見えました。
圓徳院(えんとくいん)
圓徳院(北政所終焉の地)
 豊臣秀吉没後、その妻北政所ねねは、高台寺建立を発願し、
慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の
化粧御殿と前庭をこの地に移築して移り住んだ。
 ねねは、77歳で没するまでの19年間、この地で余生を送り、
その間北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、
この地はねねの終焉の地となった。
 圓徳院はねねの没後9年目(寛永9年)、
甥の木下利房(足守藩主)が、
高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開いた寺である。
 方丈は創建時のもので、内部の襖には、
長谷川等伯の三十二面の水墨画が描かれ、
国の重要文化財に指定されている。
 化粧御殿跡前庭は、伏見城より移した
庭石や枯滝の石組が配された豪華なもので、
桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。
 また、境内に奉祀されている三面大黒天像は、
豊臣秀吉の守り本尊であり、今日でも多くの信仰を集めている。
  京都市
秀吉公好み手水鉢
 秀吉が西尾家に世話になったお礼として贈った手水鉢
西尾家は今川義元の親戚にあたる
後に西尾家から圓徳院に寄贈
南庭
宗旦(そうたん) 幕末~明治
江戸時代御所周辺に出没した古狐。
茶の湯の宗匠に化けて、茶会に出たり、僧侶に化けたりしたという。
豊臣秀吉公の伏見城より移築された、日本国名勝指定庭園
 北庭

 北政所ねね様が高台寺を建てられ際、
伏見城でのお住まいだった化粧御殿とその前庭をこの場所に移築され、
余生を過ごされました。
〝化粧をしたように美しい〟と言われたその御殿は
残念ながら度重なる戦火で焼失しましたが、
お庭は現存しており、「北庭」と呼ばれています。
 一番の特徴は庭石が多いことで、大小合わせて二百以上あります。
各地の大名達が自分の地所から選りすぐりの巨大な天然石を寄進したもので、
中には名や家紋のついた物もあります。
 作庭したのは小堀遠州で、秀吉好みの、
とても迫力のある桃山時代を代表するお庭の一つです。
国の名勝指定を受けています。
 伏見城にあった時は水が張られている池泉回遊式庭園でしたが、
この地に移されてからは水のない枯山水庭園になっています。
 北東側の石の色合いで滝組を表現し、
二つの島は左を亀島、右が鶴島と言われます。
巨大な天然石の橋が左から右に一、二、三と架かり、
中央の紅葉の下に三つ並んだ石が「三尊石(さんぞんせき)」、
三体の仏様に見立てられたものです。
 桃山時代ねね様が見ておられた当時そのままの姿で残されており、
ねね様にとって安らぎの庭でありました。

京都浪漫の中でチラッとお店が映っていました(*´▽`*)
キリシタン燈籠(織部好みの燈籠)が
お庭にあるので撮らさせていただきました。
紅茶専門のお店でレアチーズケーキが美味しい(^^♪
ワインにも合うそうですが、
心筋梗塞を発症して以来
お酒を飲むことを主治医から止められています(T_T)
京都祇園 茶亭 よし本
以前、石塀小路を歩いた時に
「撮影禁止」のマークはなかったのだけどと
お聞きすると、最近、通行止めをして撮影する業者があるそうです。
お店の前を写してもいいですかと許可をいただいて撮影しました。
この後、三条に向って歩きましたが
時間が遅くなったので後日続きを書きます。

↓追記です
シダに隠れて分かりにくいのですが
旅館の玄関に織部灯籠がありました。
観光客が多い道を避けて歩くと…

正伝永源院(しょうでんえいげんいん)並びに織田有楽斎(おだうらくさい)の墓
 当院は建仁寺の塔頭(たっちゅう)寺院の一つで、
建仁寺第39世無涯仁浩(むがいにんこう)が創建し、
もと永源庵と称したが、
明治6年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院をこの地へ移し、
のち「永源」の名を受け継ぎ現在の院名正伝永源院に改めた。
 釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡(くり)・鐘楼・唐門のほか、
表門の左手に織田有楽斎や近親者の墓がある。
寺宝には有楽斎に関する遺品が多い。
 有楽斎は、織田信長の弟で本名を長益(ながます)といい、
茶人として有楽斎という号を使っていた。
信長の死後は剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。
晩年は祇園花見小路四条下ルに正伝院を再興し、
そこで茶道三昧の生活を送ったが元和(げんな)7年(1621)に75歳で亡くなった。
 有名な国宝茶室如庵(じょあん)は有楽斎がそこで丹精込めて完成させた。
現在は所有が変わり愛知県犬山市に移転しているが、
平成8年にはゆかりの寺である当院に如庵が復元された。
 有楽斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、
昭和37年(1962)秋、有楽斎夫人、息女
そして孫の織田長好(ながよし)の三墓と共にここに移された。
現在も各地に有楽流の茶道が受け継がれている。
   京都市
ブラタモリ「#70京都・祇園~日本一の花街・祇園はどうできた?~」で
紹介されていました。
案内人の梅林秀行さんの『京都の凸凹を歩く』には

この段差と裏口が連なる風景は
あたかも「祇園のうしろ姿」と呼べるようなまちなみで,
祇園のお茶屋街が近代以降に移転した物語を象徴するかのように思えます。


2016年6月30日の記事
三条駅近くでお昼をと思っていたけど定休日でした(T_T)
で、学生時代に飲み会の後、
利用していたラーメン店を目指しましたp(^^)q
貧乏学生に京都は優しかった(^^)v
本当はスープも飲みたかったけど
退院するときに管理栄養士さんが
「ラーメンも食べてもいいけど、スープは残してください」
と注意を受けていました(^^ゞ
博多長浜らーめん みよし

ラーメン文化
(…略…)

 京都はラーメン王国である。
そう言えば、きっとだれもが首をかしげるだろう。
京都の食べものと言えば、まずは京料理ではないかと。
おうどんと、お惣菜、とくに野菜の「たいたん」(煮物)。
言うまでもなくこれが京都の庶民の味の代表だが、これとならんで、
京都はラーメン屋とお好み焼(やき)屋とがとにかく多い。
それも屋台では「老舗」が軒を連ねる。
ともに、終戦直後から営業というのが山ほどある。
木屋町にある(博多名物の)「長浜ラーメン」は、
わたしの子どもこの頃にもあったから、
かれこれ開店五十年ほどになるのではないだろうか。
 京都が元祖ラーメン王国だというのは、存外知られていない。
終戦直後からラーメン屋台がしのぎを削り、
1970年前後に第二のブームを迎える。
いまでは「長浜ラーメン」はすでに老舗に、
ポタージュのような超こってりスープの「天下一品」もすでに全国版になっている。
(…略…)
(『京都の平熱―哲学者の都市案内』鷲田清一 講談社学術文庫 2013年)
原本は2007年に刊行されています。
長浜らーめんの近く(赤→)にあるのが…

2014年8月31日の記事
子どもの頃、豊臣秀吉が好きだったけど
このように歴史を知ってゆくとどうもな…と思うことが
今回、掌美術館を訪ねましたが、
目的は、ねねの肖像を見たかったからです。
ねねの肖像画を見ていると膝を立てて座っています。
この座り方の変遷を調べるのも面白いだろうなと思いました。

4 件のコメント:

  1. Kazeさん

    こんばんは
    マナーの悪い一部の人の為に
    撮影禁止になっているのでしょうか。
    京都らしい街並みに出ると
    つい撮影したくなります。

    てるてる坊主のおかげで
    お天気に恵まれた京都でしたが
    雨もまた風情がありますね。

    返信削除
    返信
    1. becoさんこんにちは(^^)/
      石塀小路は、情調のある小路で撮影ポイントなんでしょうね。
      でも、細い小路なので通行止めをして撮影するのはマナーが悪いです。
      そんな業者?が増えて店の中まで入ってきたことがあるそうです。
      仕方なく「撮影禁止」のマークを貼ったようです。

      becoさんは、仲間で楽しいひと時を過ごせたのですね(^^♪
      前日の金曜日に京都を歩こうと思ったのですが
      土砂降りになったので諦めて土曜日に歩きました。
      なんでもほどほどがいいですね(^_-)

      削除
  2. こんにちは~

    先日、コメントを2回挑戦しましたが届いていなかったようです。
    たぶん、アカウントミスのような気がします。
    気を取り直して、もう一度。。。(^-^;

    >・よしあしを人の心にまかせつつ そらうそぶきてわたるよの中
    この和歌が目に留まり、少し調べました。
    Kazeさんは、いつも良く調べていらっしゃって教えてもらえてうれしいです。

    木下長嘯子が武将から歌人になったこと。
    そしてあの小早川秀秋のお兄さんだったんですね。
    すぐに忘れてしまいそうですが(^-^;。。。




    返信削除
    返信
    1. カイさんこんばんは(^^)/
      >先日、コメントを2回挑戦しましたが届いていなかったようです。
      3回も挑戦して頂き申し訳ありませんm(__)m

      木下長嘯子は、歌仙堂に掲示されていて初めて知りました。
      功成り名を遂げた者が人々の記憶に残るのですが
      長嘯子のように挫折した者はなかなか話題にのぼりませんよね。
      このような記録が残され伝えられているのを見るのが
      町歩きの楽しみだなと思います。
      できるだけ間違いがないように気をつけていますが
      後で、間違いではと思うことが多いです(^^ゞ

      削除