少しでも秋らしさを探すけど…
これでは残暑でなくて猛暑ですね…
最近、公園の東屋の温度計が26度位だったのが
今朝は、9時頃で30度になっていた(;'∀')
夕食の準備をしている時に気分が悪くなってきて冷汗も少し…
耳鳴りもひどくなってきたので天気が悪くなるなと思っていたら
すごい雷雨…(その前に虹がでていたのに…)
気圧の変化に体調が左右されます。
昨年の再放送なのですがEテレの
「趣味どきっ! カラダが変わる!自律神経セルフケア術 」
が参考になっています(^^)v
昨夜のサラメシ シーズン9「第15回」を見ていてビックリ!
北野天満宮の近くにポルトガルのお菓子の店があるんだ。
それも本格的なんだ!
「カステラ ド パウロ」
木・日曜日に再放送があるから行列になっているだろうな…
そしてもっと危機感を覚えたのは西成の
「聖天坂 春日(しょうてんざか かすが)」が紹介されていた。
実は、
「うどん屋さんの風邪薬 なにわの特効薬 ~安くおいしく風邪に効く~」
を見て、いつか行きたいとマークしていた店だった(^-^;
明日のことですが
9月5日
日露講和反対の民衆が日比谷焼打ち事件をおこした。
1905(明治38)年
日露講和条約調印のこの日、午後から日比谷公園で日露講和反対の国民集会が開かれた。
警察が集会を禁止し、会場を封鎖したにもかかわらず、ロシアから賠償金もとれない講和に不満の数万の民衆が詰めかけた。
集会後、警察がデモや演説会を力ずくで解散させたため、怒った参加者は戦争中の苦しい生活の不満を一気に爆発させ、暴動化した。
それはたちまち東京全域に広がり、5日夜から7日朝まで東京はたいへんな騒ぎとなり、それは横浜や神戸にも広がった。
東京では6日に軍隊が出動し、夕方には戒厳令が出された。
言論がきびしく取りしまられ、28の新聞・雑誌が発行停止となった。
その間、内務大臣官邸・外務省・首相官邸や警察署・政府系新聞社・キリスト教会などがおそわれ、また東京の交番・派出所の7割もが焼打ちされた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
この時の全権が小村寿太郎でした。
小村は対ロシア強硬派だったそうです。
その小村がポーツマス講和会議に全権として赴きました。
「小村寿太郎」(宮崎県郷土先覚者)
ポーツマス講和会議
小村外相は首席全権として7月8日、群衆の歓呼に送られてアメリカへと出発した。
元老伊藤博文や政府首脳はこの講和会議の困難を予想していた。
伊藤は小村に向かって、他人はどうあろうとも吾輩(わがはい)だけはかならずむかえにでると約束して、講和後の容易ならない事態を予想しながら、その困難な使命を果たすよう激励するのであった。
(『日本の歴史 第26巻 日清・日露』宇野俊一 小学館 1976年)
講和会議は酷暑のワシントンを避けてポーツマス軍港でおこなわれることになり、8月9日の予備会議をへて、翌10日から正式会議がはじめられた。
その日小村全権は12か条からなる講和条件を一括して提出した。
それにたいしてロシア側は、12日樺太の割讓(かつじょう)と賠償支払いをふくむ4か条について、拒否の回答をしてきた。
これ以後8月29日まで、十数回の会談がひらかれたが、最後まで日露両国が妥協できなかった問題は、その轄地と償金問題であった。
ロシア皇帝はウィッテあての電訓で「1ピャージの土地も、1ルーブルの金」も日本にわたすことはできないときびしい指示をあたえていたため、この問題でロシア側全権は譲歩できない立場にたたされていた。
こうして会談がゆきづまっていることを知ったルーズベルトは、両国の斡旋にのりだした。
かれはロシアにたいし、すでに占領下にある樺太については割譲のほかないであろうとしながらも、償金問題についてはなお交渉の余地をのこすことで妥協するようすすめた。
さらにドイツ皇帝やフランス首相にも書簡を送って、ロシア皇帝の説得を依頼した。
日本側は、樺太全島の割譲よりも、その北半をロシアに返還してその代償のかたちで償金を獲得しようとした。
小村外相にとって償金獲得が困難であろうことは、この年3月の意見書でも指摘していたことであるし、講和談判への基本方針をきめた6月30日の閣議決定でそれを絶対的必要条件から除いて比較的必要条件としたのも、政府首脳の償金問題への見とおしをしめすものであった。
それではどうして日本側全権はこの償金問題に固執したのであろうか。
それは開戦いらい、各方面から提出されていた講和論のほとんどが償金獲得の要求をかかげていたし、とりわけブルジョアジーは戦後経済の見とおしを、償金獲得を前提としてうちたてていた。
また、この領地と償金の獲得は、生活の窮迫するなかで熱狂的に戦争を支持してきた国民各層の悲願になっていたことである。
これにたいしロシア皇帝は、賠償金を支払うことはあまりに屈辱的であり、絶対にうけいれられない問題であると考えていた。
会談は暗礁にのりあげ、その中止を考えざるをえなくなった。
しかし、日本政府はこれ以上戦争を継続することは不可能であると判断し、轄地・償金の二つを放棄しても講和条約を締結するよう訓令を発した。
その直後に在日イギリス公使からロシアが譲歩して樺太南半を譲渡する意思があるとの情報がつたえられたため、急いで修正の訓令を送り、結局8月29日の最終会議で最後の妥協がおこなわれた。
そして9月5日、正式に日露講和条約は調印されたのである。
その主な内容は、ロシアが日本の韓国にたいするいっさいの指導権を承認し、旅順・大連の租借権(そしゃくけん)と長春(チャンチュン)以南の鉄道ならびに付属利権を日本に譲渡すること、さらに北緯50度以南の樺太を割譲するとともに、沿海州とカムチャッカにおける日本の漁業権をみとめるというものであった。
(『日本の歴史 第26巻 日清・日露』宇野俊一 小学館 1976年)
今朝の父の一枚です。
雲が刻々と変化していたのを何カットか写していました。
まだ遠いですが、台風の動きが気になりますね…
昨夜のニュースを見ていてビックリしたのは
まだ台風も来ていないのに
「大雨 住宅など50棟余り被害 一夜明け住民が後片づけ 岡山 新見」
「市街地に水たまる『内水氾濫』か 昨夜の大雨で浸水相次ぐ 横浜」
こちらでも夕方、すごい雷雨になりましたが…
このニュースにもビックリです。
「香港 容疑者引き渡し条例改正案 撤回を正式表明 行政長官」