おなじみさんと気温の変化が急だと
体調を崩しやすいですねと話していました。
その方も脳梗塞を発症して以来、ほぼ毎日、歩いておられます。
柵を乗り越えた野良ちゃんと目が合いました(*´▽`*)
『日本神道史』に時々、記事にしている天皇のことが載っていました。
天皇祭祀権
近代以前の政治制度は、古代律令制の仕組みを基本とし、天皇に関しては、律令の規定を超越した存在として位置づけられていた。
とくに天皇祭祀権の事項に関しては、不文の律、不文の法として公家社会のなかに強く意識されてきた。
(『日本神道史』岡田荘司編著 吉川弘文館 2010年)
大嘗祭は天皇祭祀権の最高峰に位置する祭祀である。
摂政藤原忠通の『大嘗会卯日御記』(『図書寮叢刊』九条家歴世記録一)は保安4年(1123)11月18に斎行された崇徳天皇大嘗祭の次第をくわしく記録している。
藤原頼長の『台記』には「摂政は即ち天子なり」と記されているほど、摂政は幼帝である天皇の天皇権を掌握し、代行できる立場にあったが、祭祀権、なかでも大嘗祭の祭儀の代行はかなわなかった。
崇徳天皇御年四歳という幼帝(童帝)といえども、自らの祭儀実修が必要とされた。
4歳といえば物事の正否の判断がつく年齢には至らず、まして徹夜で長時間行われる祭儀に耐えられるものではなかった。
忠通の記録によると、悠紀(ゆき)の儀に入った頃から「幼主、頗るむつがる」とある。
摂政忠通は大嘗殿の室の天皇御座近くに控え、供膳の作法も一度だけ形のみ天皇が行い、残りは摂政が代行した。
この間、幼帝は憤(むつか)りつづけた。
忠通は「手自ら神事を勤仕す、此の事、偏に帝者の所為なり、人臣の勤に非ず、怖畏の至、謝するところを知らず」と書き加えて、天皇祭祀権への侵犯を自ら律している。
つづく主基(すき)の儀においても、神膳親供の所作は忠通の役目とならざるをえなかった。
不文の法である天皇祭祀権への侵犯行為は、摂政忠通が恐懼(きょうく)する姿が浮き彫りになる。
天皇祭祀権の核となるのは、天皇親祭の大嘗祭と新嘗祭、6月・12月の神今食など、天照大神祭祀である。
古代以来の儀礼における臣下の作法に称唯がある。
称唯はイショウと読む、
もとはショウイと読んできたが、譲位の発音に近いため、譲位を忌み嫌い、読みを逆転させたもので、いわゆる有職読みにあたる。
称唯は上位の者に対して、下位の者が「おお」と声を発して、了解、応答する作法である。
称唯は文章行政以前の古い口頭政治に系譜をもつもので、人臣に超越した天皇が称唯の作法をすることはない。
唯一の例外は、親祭の天照大神祭祀の時のみであった。天皇は神膳の供進につづいて、神に向かって低頭し、低音で称唯をした。
天皇親祭につながる伊勢祭祀は、斎宮・勅使・四姓使を遣使とした代行祭祀であり、天皇祭祀権のもと、神宮では天皇以外が祭祀に直接関わることを禁ずる私幣禁断の制が貫かれていた。
伊勢祭祀において、天皇祭祀権が強調されているのは、各神社における氏族祭祀権と表裏の関係のなかに位置している。
古代の神祇祭祀は二重構造になっていた。
古墳時代、「神道」成立の淵源期において、ヤマト王権が確立していったが、その基盤は氏族社会にあり、地域の祭祀はそれぞれ地域の首長層に委ねられていた。
氏族祭祀が基本となり、天武・持統天皇朝以後は律令祭祀制が、その上に覆われことになる。
本来、氏族祭祀制と律令祭祀制とは、相反する関係にあり、氏族祭祀そのものに、直接天皇が関与することには制限があった。
氏族祭祀権に天皇は不介入の立場であった。
(『日本神道史』岡田荘司編著 吉川弘文館 2010年)
今朝の父の一枚です(^^)v
毛虫によって葉を食い荒らされた桜が花を咲かせていました。
台風で葉が吹き飛ばされた時などにも開花するようで「不時(ふじ)現象」というそうです。
「台風と秋の桜(不時現象)」 (「気象ひとくちメモ」熊本地方気象台)
〇 〇 〇 〇
午後から心臓リハビリでした。
30分間の歩行距離は、2.14㎞、消費カロリーは129kcalでしたp(^^)q
リハビリの途中で友達から勤めている仕事場で
インフルエンザを発症した職員がいるとのメールが届きました。
今年は、流行がかなり早まっているようです。
千葉の方では、停電が続き体調を崩す人が多いと聞きます。
早く、元の生活に戻ることができることを祈っています。
「インフルエンザ学級閉鎖等」(大阪府感染症情報センター)