時々風が吹くと木陰で立ちどまって一休み(*´▽`*)
この暑さは、台風13号と15号が続いてきているからかな…
歴史秘話ヒストリア「西郷と最後まで闘った男」を見て
初めて、酒井玄蕃(げんば)を知りました。
山形県の庄内藩は、西郷隆盛と最後まで戦ったので
憎しみ合っているのかと思っていると
100分de名著「南洲翁遺訓」でも紹介されましたが、
「南洲翁遺訓」を編纂したのが元庄内藩の有志たちですね。
(岩波文庫『西郷南洲遺訓』)
庄内藩と言えば藤沢周平の作品を思い出します。
ゴロッと話は変わりますが(^^ゞ
『今昔物語』の中に「猫におびえた腹黒い大夫(たいふ)」があります。
福永武彦氏の現代語訳で紹介したいと思います。
猫におびえた腹黒い大夫(たいふ)の話
今は昔のこと、大蔵省の判官をつとめて更に五位の冠を賜った者に、藤原の清廉(きよかど)という者があった。
大蔵の大夫(たいふ)と呼ばれていた。
その者は前世は鼠ででもあったのだろうか、猫というと怖気(おぞけ)をふるって怖がった。
そこでこの清廉の行く先々で、いたずら好きの若い男たちは、それ清廉が来たというと、猫を取り出して見せた。
清廉はどんな大事な用事で行ったところでも、猫を見ると顔を隠していちもくさんに逃げ出した。
そこで世間の人々が、この清廉を猫恐(ねこおじ)の大夫と渾名(あだな)した。
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
さてこの清廉は、山城(やましろ)・大和・伊賀の三ヵ国に、多くの田を作らせていて、世にきこえた金持ちだった。
藤原の輔公(すけきみ)の朝臣が、大和の国の国の守として任地にあった時に、その国の官物(つかさもの<租税の糧米>)をこの清廉が一つも納めなかった。
そこで国の守の輔公の朝臣は、何とか官物を徴集したいと思ったが、これがなまなかの田舎者ではなし、京での役所勤めの末に五位の位を賜わったほどの者であるから、めったに検非違使庁につき出すこともできない。
といって、このまま放っておけば、こすからい奴であるから、何とかかんとか言い逃れてとても出しそうにない。
どうしたものかといろいろ思案したあげく、うまい手立てを思いついた。
ちょうどそこへ、清廉が守のもとに現われた。
守はそこで、侍たちの宿直(とのい)する壺(つぼ)屋で、まわりが全部囲ってある二間つづきのところに、まず自分一人ではいった。
そこで家来に命じて、
「大蔵の大夫をこちらにお通ししろ。実はちょっとお話したいことがあるから」
と言わせてやったので、清廉も、いつもは怖い顔つきで睨まれる殿さまから、こんなにこっそり宿直壺屋(とのいつぼや)へ呼び入れられるのは、何ぞいいことでもあるのかしらん、と喜んで、垂布(たれぬの)をあけて壺屋の中にはいると、そのあとから侍が出て来て、あとの遣戸(やりど)をびしゃりとしめた。
奥のほうに守がいて、
「こちらに」
と招く。
清廉はかしこまっていざり寄ると、守がおおせられるには、
「大和の国司の任期もようやく終わり、今年ばかりとなり申した。ついては官物(つかさもの)をいだまに納めないのは、どういう所存か?」
ときびしく責め立てたので、清廉が答えて、
「いやそのことでございますが、それがしもこの国ばかりでなく、山城の国、伊賀の国にも納める官物があり、あちらこちらの御沙汰に追われて何かといそがしく、いっこうに今まで失礼をいたしましたが、今年の秋にはどれもみな納めるつもりでおります。
ほかの方の御任期ならばともかく、殿さまの御任期のあいだにけっして粗忽(そこつ)な真似はいたしません。これまで延び延びになってまいりましたので、心のうちにはなはだ申し訳ないと存じておりました。
必ずやおおせのとおり、数のままに取りそろえて差し上げます。
たとえ千万石といえども滞納などをいたすそれがしですか。
物がないならともかく、日ごろずいぶんと貯えもつかまつりましたから不自由はいたしておりません。
そのそれがしをお疑いになったとは心外に存じます」
このように口先では言ったが、内心で考えるには、この貧乏国司が何をぬかすか、屁でも一発かがせてやろうか。
この場をうまく逃げ出して伊賀の国の東大寺の荘園にはりこめば、どんなお偉い国も守でも、いまさら糧米を取り立てることはできまい。
大和の国の官物などを、はいはいときいて納めるばか者がどこにいよう。
以前にも、米は天からの授かり物、地からの授かり物、などと言ってごまかしたものだ。
いまさらこの殿さまが、したり顔をして、必ず取って見せるとふんぞりかえっているのがおかしい。
だいたい大和の国などという貧乏国の国司になるようでは、お上(かみ)の覚えもめでたい人ではあるまい。
たいしたことはないぞ、とこのように内々で考えてはいたが、表面だけはすこぶる恐縮したように、手をこすり合わせておべんちゃらを言った。
ところが守は相手の心中をみてとり、
「お主は口先だけはうまそうなことを言っているが、そのくせ戻ったらならば使いの役人にも会わず、官物も納めない気であろう。
とすれば他日を期すわけにはいかない。
今日にも必ず取り立てようと思うのだ。
お主は官物を出さなければ家に帰るわけにはいかぬぞ」
と言っても、清廉はどこ吹く風で、
「殿さま、帰りましたら必ずこの月のうちにととのえます」
などと言うが、守もどうしてその手に乗るものか。
「お主と知り合いになってもう幾年になる。
お主もまた輔公を知ってひさしいであろう。
それゆえ互いに人情のないふるまいはしとうない。
この儀ばかりは、ぜひききとどけて即刻納めてもらいたい」
と言ったので、清廉は、
「もちろんのことでございます。
必ずお納めいたします。
屋敷へ帰りまして、文書をつけて差し上げましょう」
などと答える。
これでは埒(らち)があかぬと見て、守は大声を出し、上体を起こして居ずまいを正すと、怖い顔で相手を睨(ね)めつけた。
「それではお主は、今日のうちにはどうしても納められぬというのか?
今日この輔公は、たとえお主と刺し違えても、取るべき物は取るつもりでいるぞ。
命など惜しむものではないぞ」
と言ったうえ、壺屋の外へ向けて大声で、
「男どもいるか」
と二声ばかり呼んだ。
しかし清廉はちっとも怖がる様子もなく、にやにやしながら守の顔を見守っているばかり。
そこへ壺屋の外で侍が返事をしたので、守が命じて、
「かねて用意の物をこちらへ持って参れ」
と言えば、清廉はこれを聞いて、自分に恥をかかせようと思って、何か仕出(しで)かすつもりかな、そうはいかぬぞ、などと平気でいた。
そこに五六人の侍どもの足音がして、遣戸の外から、
「持って参りました」
と言うので、守は、
「その遣戸をあけてこちらへはいれ」
と命じた。
遣戸があいたので、清廉がそちらを見ると、灰色の毛並みのぶちになった大猫で、それも大きさが一尺以上もある奴が、琥珀(こはく)をみがいたような赤い目玉をして、大声でにゃあと鳴いた。
それも一匹だけではなく似たようなのが五匹、次から次へとはいって来た。
みるみるうちに清廉は、目から大粒の涙をこぼして、守に向かって両手を合わせて顫(ふる)えあがった。
そのうちにも五匹の猫は、わがもの顔に壺屋の中を歩きまわり、清廉の袖のあたりの匂いをかいだり、こっちの隅あっちの隅と歩いてみたり。
清廉はたちまちまっ青な顔になって、つらそうにうずくまっている。
守は見ているうちに気の毒になって、侍を呼び入れて猫を引き出させ、遣戸のもとに短い縄でつながせた。
五匹の猫は摑まえられたので、互いににゃあにゃあと鳴く。
その声が耳を聾(ろう)するばかり。
清廉は汗びっしょりになり、目をしばたたきながら、生きた心地もない様子。
そこで守が威丈高(いたけだか)になって、
「それでは官物を出すのだな?
今日限りで必ずこのことは決着をつけよう」
と言えば、清廉は何ともいえぬ哀れっぽい顫え声になって、
「おおせのとおりにいたします。
いかにも命あっての物種、命さえあればまたのちにいい目にもあえましょう」
と答えた。
すかさず守は侍を呼び寄せて、
「硯と紙とを持って参れ」
と言いつけたので、侍が言われたとおりにした。
そこで守は清廉にそれを渡して、
「お主が差し出すべき糧米は、すでに五百七十石余りになる。
はしたの七十石余りは屋敷に帰って算木(さんぎ)をおいてよく数えてみよ。
五百石のほうはまちがいないから、たしかに下文(くだしぶみ<荘園の管理人に下す命令書>)を出せ。
その下文も伊賀の国の納所(なっしょ<糧米を納めるところ>)に送ってはならぬ。
お主のような心がけでは、偽の下文を書くやもしれぬ。
よって大和の国の宇多(うだ)の郡(こおり)にある屋敷の米を差し出すべきである。
もしその下文を書かぬようなら、もう一度猫をここへ呼び入れ、私は壺屋を出ることにする。
そのあと遣戸を外からぴったりしめて、錠をおろしてくれる」
とおどかせば、清廉は、
「これは殿さま殿さま、そんなことをなされては、この清廉の命はありません」
とおろおろして、手をこすり合わせた。
そこで宇多の郡の屋敷にある稲、米、籾(もみ)の三種を、五百石ほど差し出すと下文に書いて、守に渡した。
守はそれを受け取り、清廉を壺屋から出してやった。
その下文を家来に持たせ、清廉とともに宇多の郡の屋敷に行かせて、書かれたとおりに五百石の糧米をたしかに受け取り、引きあげた。
この清廉が猫を怖がったのは、いかにもばかげて見えるが、大和の守、輔公の朝臣にとっては大事中の大事、猫さま猫さまであった。
当時の人がこのことを噂しあって、みな腹をかかえて笑った、という話である。
(巻廿八第卅一話)
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
〇 〇 〇 〇
午後から心臓リハビリでしたp(^^)q
30分間での歩行距離は、2.17㎞、消費カロリーは131kcalでした(^-^;
理学療法士のNさんは山口出身なので
藤田傳三郎のコレクションがもとになって藤田美術館が開館したこと、
藤田は山口県萩出身だと話していました。
当時、明治維新で日本の美術が粗雑に扱われていたことに危機感をもって収集したのです。
同県人だと言っても広いので知らない(習っていない)人物は多いですよね。
歴史秘話ヒストリアの冒頭、山県駅で「酒井玄蕃」を知っているかと聞いていたけど
鶴岡で聞けばご存知の方が多いと思うけどな…(^_-)-☆
リハビリが終わったあと会計をするのに待合室のテレビを見ていると
韓国の聴聞会のことを解説しているみたいだった。
他国のことをこれだけ詳しく放送しているのに自国のことはタブーになっているような…
平川克美さんも呟いていた(2019年9月6日)
「病院で暇を持て余し、テレビ。
ワイド!スクランブルというテレ朝の番組で、延々と文在寅側近のスキャンダルをやっている。
世界で、おそらく日本だけだろう。
それが、どれほど奇妙な倒錯なのか、番組制作者も、視聴者も気がつかなくなっているということか。」
「『嫌韓』あおり報道はやめよう」(日本新聞労働組合連合)
という声明がでました。
賛同します。
国民が冷静に判断できる材料を提供できないのは、戦前に逆戻りだと思います。
西郷隆盛や酒井玄蕃などのように肝っ玉の据わった人物がいなくなった。