九月ですね…
今日は、「防災の日」
9月1日 関東大震災により東京・横浜の大半が壊滅した。
1923(大正12)年
午前11時58分44秒、ゴーッという地鳴りとともにマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。
昼食時で、火を使っている家が多く、東京の下町(したまち)と横浜一帯はまたたく間に火の海となった。
こわれたり焼けたりした家は55万戸、死者行方不明は10万におよんだ。
人々が不安におびえていた時、どこからともなく朝鮮人や社会主義者が騒乱をおこすという噂が流れた。
これにまどわされた民衆は各地で朝鮮人を虐殺し、その数はおよそ六千人にもおよんだ。
また警察や憲兵隊はこれに乗じて社会主義者も捕え虐殺した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)
「関東大震災朝鮮人虐殺事件」(Wikipedia)によると、
朝鮮の人たちだけでなく
東北や奄美の人たちも犠牲になっていますね。
東京の知事は、3年続けて追悼文を寄せていません。
「関東大震災」(中・高校 動画)
「関東大震災の犠牲者慰霊 朝鮮人追悼文は3年寄せず」(産経新聞)
「『忘却は悲惨な歴史招く』関東大震災朝鮮人犠牲者 知事の追悼文見送り抗議」(東京新聞)
「関東大震災の映像が伝える教訓 西郷像は伝言板になった」(朝日新聞)
震災にあった与謝野晶子の歌
大地をば愛するものの悲しみをあざめる九月朔日(ついたち)の空
人あまた死ぬる日にして生きたるは死よりはかなきここちこそすれ
愛憎(あいぞう)の極度のものを運命がほしいままにも現せるかな
(『与謝野晶子歌集』与謝野晶子自選 岩波文庫 1985年)
今朝のEテレ
日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
小早川秋聲のことを初めて知りました。
現在、あの暗い時代と同じだなと思うことが多いです。
デマの情報が、検証もされずに発信され同調する人々が多くなっている。
表現の自由は、どんどん狭められている。
戦時中でもこんな表現をする画家がいたんだと思うと嬉しくなりました。
再放送は、Eテレ9月8日午後8時~です。
8月26日に見に行った
「ニャンダフル 浮世絵ねこの世界展」で見た歌川国芳の作品に
賢女烈婦伝(けんじょれっぷでん) 大納言行成女(だいなごんゆきなりむすめ) 歌川国芳
弘化年間(1844~48)頃 大判錦絵
伊場屋仙三郎版
「賢女烈婦」としてここに紹介されているのは平安時代の書の名手として知られる藤原行成の娘です。
左上の枠には、この女性が花と蝶の絵を描き、疲れてうたた寝してしまったところ、いつも膝の上にいる猫が描かれた蝶を捕らえようと飛びつき、紙を破ってしまったというエピソードが書かれています。
まるで蝶が生きているように見えたのでしょう。
この話は、この女性がいかに絵が上手だったかを物語っています。 (長井)
『~国芳、広重、国貞、豊国、英泉…江戸・明治の浮世絵師たちが描く~ニャンダフル 浮世絵ねこの世界展』
“「賢女烈婦伝」「大納言行成女」” (東京都立図書館)
歌川国芳は天保の改革で役者絵などが禁止される事態に
アイデァで幕府の締め付けをものともせずに描き続けました。
表現することへの執念を見ることができた特別展でした。
特別展の 説明に『更級日記』に藤原行成の娘が猫に生まれ変わるとありました。
『更級日記』より「十六 乳母、侍従の大納言の御むすめの死」と
「二二 猫と夢と」の現代語訳を転記しますφ(..)
十六 乳母、侍従の大納言の御むすめの死
その年の春、疫病の大流行で世間がひどく騒がしくて、「まつさと」の渡し場で月光に照らされた姿をしみじみ美しいと思って見た乳母も、三月初めに亡くなってしまった。
どうしようもなく嘆き悲しんでいるうちに、物語を読みたいという気持も失せてしまった。
一日中ひどく泣き通してふと外に目をやると、夕日がとてもはなやかに射しているところに、桜の花がいっせいに散り乱れている。
散る花もまた来(こ)む春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき
(散り行く花は、再び巡り来る春にまた見ることもできようけれど、
あのまま別れてしまった人<乳母>には二度と逢えないと思うと、無性に恋しくてならない。)
(『更級日記 現代語訳付き』菅原孝標女
訳注:原岡文子 角川ソフィア文庫 平成15年)
また聞くところによれば、侍従の大納言の姫君がお亡くなりなったということである。
夫である殿の中将がお嘆きだと聞く御様子も、私自身乳母を失って悲しんでいる折から、何ともおいたわしいことと聞く。
上京してすぐ、父が「これをお手本にしなさい」と言って、この姫君の御筆跡を与えてくれたのだが、それには「さよふけてねざめざりせば」などと古歌が書いてあり、また「鳥辺山谷に煙のもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ(鳥部山の谷にも火葬の煙が立ち上ったなら、それは弱々しげに見えた私が亡くなったのだと知っていただきたい)」と、言いようもなく美しい風情に、見事にお書きになっているのを見て、そのいささか不吉な歌に、御自身の運命が暗示されているようでいっそう涙をそそられる。
注)
疫病の大流行 治安元年春から秋にかけて疫病の大流行があった。
「侍従の大納言」は、藤原行成。才芸に優れる四納言の一人で、小野道風・藤原佐理とともに三蹟に数えられた能書家。
行成の娘は、この時(治安元年3月19日)僅か15歳で没した。
殿の中将 藤原道長の末子、長家。当時17歳。
『栄花物語』「浅縁」に雛遊びさながらの二人の結婚生活が語られる。
また同「本の雫」は妻を失った長家の悲嘆を語る。
「さ夜更けて寝覚めざりせば郭公(ほととぎす)人づてにこそ聞くべかりけれ」(『拾遺集』夏、壬生忠見)による。
「鳥辺山谷に煙…」 『拾遺集』哀傷、よみ人知らずの歌。
「鳥辺山」は、京都東山区の東大谷から清水にかけての地で、当時の火葬場。
二二 猫と夢と
毎年桜の花の咲き散る折ごとに、乳母の亡くなった頃だなあ、とばかり思い出されて切ないのだが、その同じ頃お亡くなりなった侍従の大納言の御娘の筆跡を見ては、どこからなく悲しみが募るそんな時に、五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこから来たとも分からないが、猫がまことにものやわらかに鳴いているので、その声のする方をはっとして見ると、いかにも可愛らしい猫がいる。
どこからやって来た猫かしらと見ていると、姉に当る人が、「あっ静かに、誰にも言わないで。ほんとうに可愛らしい猫ですもの。私たちで飼いましょう」と言うと、猫は実に人馴れしていて、そばに寝そべっている。
猫の行方を探す人があるのではないかと、この猫を隠して飼っていると、全く下々の者のそばには寄りつかず、じっと私たちの前にばかりいて、食べ物も汚らしいものは、顔を横に背けて食べようとしない。
私たち姉妹の間にぴたりとまつわりついて、私たちがおもしろがりかわいがっているうちに、姉が病気になることがあって、ごたごたしていて、この猫を召使のいる北側の部屋ばかりにいさせて、こちらに呼ばなかったところ、やかましく鳴き騒ぐけれど、それでもやはり猫にはそう鳴くだけの理由があって鳴くのだろうと思っていると、
病気の姉がふと目を覚まして「どうしたの、猫は。こちらにつれていらっしゃい」と言うので、「どうして」と尋ねると、「夢の中で、この猫がそばに来て『私は、侍従の大納言の姫君が、こうなったものです。こうなるべき因縁が少々あって、この中の君が私のことを無性にいとおしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくここにおりますのに、近頃は召使いの間にいて、ひどく辛いことです』と言って、たいそう泣く様子は、上品で美しい人と見えて、ふと目覚めたら、この猫の声だったのが、しみじみと悲しく胸を打たれたの」とお話しなるのを聞くにつけ、何とも感動する。
その後は、この猫を北側の部屋にも出さず、大切に世話をする。
私が一人きりで座っている所に、この猫が向かい合っているので、撫で撫でしながら、「侍従の大納言の姫君がここにいらっしゃるのね。父君の大納言殿にお知らせ申し上げたいわ」と語りかけると、私の顔をじっと見つめながらものやわらかに鳴くのも、そう思って見るせいか、ふと見たところ、普通の猫ではなく、私の言葉を聞き分けているようでしみじみと心惹かれる。
(『更級日記 現代語訳付き』菅原孝標女
訳注:原岡文子 角川ソフィア文庫 平成15年)
今朝の父の一枚です(^^)v
実がいっぱい落ちていたので写した後、一つ拾ってきました。
その実の匂いをかいだらモモの香りがしました。
花の頃、モモのような花を咲かせるなと思っていたのですが
モモにすれば幹が細いなと思っていました。
園芸種のモモかな?