2019年9月8日日曜日

朝から厳しい暑さ…

5時前に戸を開けても生ぬるい空気しか入ってこない…
これも台風から送られてくる風のせいかな?
台風15号 今夜遅く関東・静岡に接近し上陸の見込み 厳重警戒を
野鳥たちに出会うことが多くなってきました。
でも、まだ望遠レンズを下げて歩くには暑くて体力的に無理だなぁ…
甘い香りがしてきたので探すとクズの花が咲いていました(^^♪
昔は、利用価値の高い植物だったのに
今は、嫌われ者になってしまっている。
憎まれっ子の「葛」が、美しい「葛布」へと生まれ変わるまで”(ニッポン手仕事図鑑)
この事を知っていると以下の万葉歌も理解できると思います。

巻第七 1272
  旋頭歌(せどうか)
剣太刀鞘(つるぎたちさや)ゆ入野(いりの)に葛引く吾妹(わぎも) 
 真袖
(まそで)もち着せてむとかも夏草刈(か)るも

剣を鞘に入れる入野に葛を引いて採る吾妹よ。
私に両袖をつけた衣を着せようとして夏草を刈っているよ。
(『万葉集 全訳注原文付(二)』中西進 講談社文庫 1980年)
昨夜のブラタモリ「京都御所~天皇の住まいはなぜこの場所だった?~」で
最後に冷泉家を訪ねていました。
そこで当主の冷泉為人さんが明治に天皇が東京に行かれた時に
冷泉家が残るようになったいきさつを話しておられました。
そのときに「天皇さん」と仰っていた。
「天皇」に親近感を持って話されているなと思いました。
私も「陛下」と呼ぶよりも「さん」や「さま」などの方がしっくりするのですが…
今年、皇位継承に係るニュースを見ていて
森鴎外の「最後の一句」を数回に分けて転記しようかなと思いました。
最後の一句
 元文(げんぶん)三年十一月二十三日の事である。
大阪で、船乗業桂屋太郎兵衛(かつらやたろべえ)と云うものを、木津川口(きづがわぐち)で三日間曝(さら)した上、斬罪(ざんざい)に処すると、高札(こうさつ)に書いて立てられた。
市中到(いた)る処(ところ)太郎兵衛の噂ばかりしている中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衛の家族は、南組堀江橋際(ぎわ)の家で、もう丸二年程、殆(ほとん)ど全く世間との交通を絶って暮しているのである。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外 
  新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)
 この予期すべき出来事を、桂屋へ知らせに来たのは、程遠からぬ平野町に住んでいる太郎兵衛が女房の母であった。
この白髪頭(しらがあたま)の媼(おうな)の事を桂屋では平野町のおばあ様と云っている。
おばあ様とは、桂屋にいる五人の子供がいつも好(い)い物をお土産に持って来てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶようになったのである。
 おばあ様を慕って、おばあ様にあまえ、おばあ様にねだる孫が、桂屋に五人いる。
その四人は、おばあ様が十七になった娘を桂屋へよめによこしてから、今年十六年目になるまでの間に生まれたのである。
長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。
その次に、太郎兵衛が娘をよめに出す覚悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰(もら)い受けた、長太郎と云う十二歳の男子がある。
その次に又生まれた太郎兵衛の娘は、とくと云って八歳になる。
最後に太郎兵衛が始(はじめ)て設けた男子の初五郎がいて、これが六歳になる。
 平野町の里方は有福なので、おばあ様のお土産はいつも孫達に満足を与えていた。
それが一昨年太郎兵衛の入牢(にゅうろう)してからは、とかく孫達に失望を起こさせるようになった。
おばあ様が暮し向きの用に立つ物を主(おも)に持って来るので、おもちゃやお菓子は少なくなったからである。
 しかしこれから生(お)い立って行く子供の元気は盛んなもので、只(ただ)おばあ様のお土産が乏しくなったばかりでなく、おっ母様の不機嫌になったのにも、程なく馴(な)れて、格別萎(しお)れた様子もなく、相変らず小さい争闘と小さい和睦(わぼく)との刻々に交代する、賑(にぎ)やかな生活を続けている。
そして「遠い遠い所へ往(い)って帰らぬ」と言い聞かされた父の代りに、このおばあ様の来るのを歓迎している。
 これに反して、厄難(やくなん)に逢(あ)ってからこのかた、いつも同じような悔恨と悲痛の外に、何物をも心に受け入れることの出来なくなった太郎兵衛の女房は、手厚くみついでくれ親切に慰めてくれる母に対しても、ろくろく感謝の意をも表することがない。
母がいつ来ても、同じような繰言(くりごと)を聞せて帰すのである。
 厄難に逢った初(はじめ)には、女房は只茫然(ぼうぜん)と目を睜(みは)っていて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分は殆ど何も食わずに、頻(しきり)に咽(のど)が乾くと云っては、湯を少しずつ呑(の)んでいた。
夜は疲れてぐっすり寝たかと思うと、度々目を醒(さ)まして溜息(ためいき)を衝(つ)く。
それから起きて、夜なかに裁縫などをすることがある。
そんな時は、傍(そば)に母の寝ていぬのに気が附いて、最初に四歳になる初五郎が目を醒ます。
次いで六歳になるとくが目を醒ます。
女房は子供に呼ばれて床にはいって、子供が安心して寝附くと、又大きく目をあいて溜息を衝いているのであった。
それから二三日立って、ようよう泊まり掛に来ている母に繰言を言って泣くことが出来るようになった。
それから丸二年程の間、女房は器械的に立ち働いては、同じように繰言を言い、同じように泣いているのである。
 高札の立った日には、午(ひる)過ぎに母が来て、女房に太郎兵衛の運命の極(き)まったことを話した。
しかし女房は、母の恐れた程驚きもせず、聞いてしまって、又いつもと同じ繰言を言って泣いた。
母は余り手ごたえのないものを物足らなく思う位であった。
この時長女のいちは、襖(ふすま)の蔭(かげ)に立って、おばあ様の話を聞いていた。

元文三年 1738年。

木津川 江戸時代、廻船の発着場であった。

南組 大坂の区分。他に、北組、天満組があり、これに南組を合わせたものを「大坂三郷」という。

堀江橋 大阪市西区内を流れる堀江川の上流にかかる橋。

平野町 現在の大阪市中央区。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外 
  新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)