真夏に戻ったな…(・_・;)
昨日、週刊誌の新聞広告を見てビックリした。
開いた口がふさがらなかった…
これでは、戦前・戦中の「鬼畜米英」と同じ見出しではないかと思った。
母は、沖縄で日本軍の飛行機だと思って手を振ったら米軍の戦闘機で、
その後、機銃掃射からなんとか逃げのびることができた。
頭を撃ち抜かれた死体も見ている。
何故、米軍の戦闘機に手を振ったか
日本軍が勝ち進んでいるという大本営発表を毎日聞かされていたからだ。
父は、徳之島で特攻機が墜落した現場を見ていました。
「無駄死にばかり」と呟いていました。
「新潮45」の時は、
「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事(佐藤義亮)」(2018年9月19日)
という新潮社出版部文芸の気概を見せてくれたけど
小学館の内部からの声をまだ見つけることができないでいる。
国民が政府の韓国への政策を支持するのは当たり前だと思う。
民放のバラエティー番組(?)では、政府のことは触れないで
さんざん韓国批判を繰り返し放送している。
(病院の待合室のテレビを見ていると、そんな場面をよく見る)
また、NHKのニュースは政府の発表をそのまま流している。
これでは、戦前・戦中の日本に逆戻りするだけだと思う。
戦前、日本国民が戦争への道を進んだのは、マスコミの力が大きと思っています。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の作品から
僕の好きな「蠅のはなし」を転記しますφ(..)
ハーンのおかげで日本の「怪談・奇談」が世界の人々に発信されたと思います。
また、ある私たちが昔の人々の心に触れることができたと思っています。
蠅のはなし
いまから二百年ばかり前のこと、京都に飾屋(かざりや)久兵衛という商人が住んでいた。
店は、島原道からすこし南によった寺町通りという街にあった。
久兵衛は、若狭の国の生まれの、たまという女中を使っていた。
(『怪談・奇談(書籍版)』ラフカディオ・ハーン著、
田代三千稔訳 角川文庫 昭和31年)
たまは、久兵衛夫婦から、やさしく遇されていたので、主人夫婦には、心からなついているようだった。
ところが、たまは、ほかの娘たちのように、美しく着飾ろうなどという気持はまるでなく、幾枚もきれいな着物をもらっていながら、休みの日でも、いつも仕事着のままで出かけるのだった。
たまが久兵衛のところへ奉公にきてから、五年ばかり経ったころの、ある日のこと、久兵衛はたまにむかって、どうしておまえは、身なりを小ざっぱりするように気をつけないのか、と尋ねてみた。
たまは、この小言がましい問いに、顔をあからめながら、いんぎんに答えた。
「ふた親が亡くなりましたとき、わたしはまだ小さい子供でございました。
そして、ほかに子供がありませんでしたから、ふた親の法事をするのは、わたしの務めとなったのでございます。
そのじぶんには、まだ法事をするほどのお金を手にいれることはできませんでしたが、それだけのお金がいただけるようになりましたら、さっそく父母の位牌を常楽寺というお寺へおさめ、法事をしていただこうと、心にきめたのでございます。
そして、この決心をはたそうと思いまして、お金や着るものをつづめてまいったのでございます。
自分をなりふりをかまわぬ女だと、旦那さまに気づかれたくらいですから、わたしも、あんまりつましくし過ぎたのかもしれません。
でも、ただいま申しましたような目あてのお金を、もう銀百匁ほども、貯めることができましたので、これからは身なりもすこしはきれいにして、旦那さまのまえに出るようにいたしましょう。
そういうわけでございますので、これまでのだらしなさや、ぶざまなところは、どうかおゆるしくださいませ」
久兵衛は、この率直な打明け話に、心をうたれた。
それで、彼はこの女中に言葉やさしく話しかけ、これからはどんな身なりでも思いどおりにやるがよいと、よく言いふくめ、かつその親孝行をほめてやった。
二人がこんな話をしてから間もなく、たまは両親の位牌を常楽寺におさめて、それ相応の法事を営んでもらうことができた。
かねて蓄えておいた金のうちから、七十匁をこれに費やした。
そして、残りの三十匁を、たまは、おかみさんに預かってもらうように頼んだ。
ところが、その翌年の冬のはじめに、たまは急病になった。
そして、わずかな煩(わずら)いのあと、元禄十五年(1702年)一月十一日に、死んでしまった。
久兵衛夫婦は、たまが死んだので、ひどく心をいためた。
さて、それから十日ばかりしたころのこと、たいへん大きな蠅が一匹、家のなかへ飛んできて、久兵衛の頭のうえを、ぐるぐる舞いはじめた。
これを見ると、久兵衛はおどろいた。
なぜかというと、いったい蠅というものは、どんな類のものでも、ふつう大寒のじぶんに出てくるものではないうえに、こんな大きな蠅は、あたたかい季節ででもなければ、めったいに見られるものではないからである。
久兵衛は、あんまりその蠅がしつこくつきまとって、うるさいので、わざわざそれをつかまえて、家のそとに出した。
なにぶん信心家なので、そのさい、蠅をすこしも損なわないように気をくばった。
ところが、蠅はすぐまた、もどってきた。
それで、またつかまえて、追いだした。
しかし、またもや、はいってきた。
久兵衛の女房も、これは妙なことだと思った。
「もしかしたら、たまじゃないかしら」と女房は言った。
〔というのは、亡者――ことに餓鬼道におちる者は、どうかすると虫の姿になって、この世にかえってくることがあるからである。〕
久兵衛は笑って、「じゃ、目じるしをつけておいたら、わかるだろう」と答えた。
そして、蠅をつかまえて、羽の両端をすこしばかり鋏で切ってから、こんどは、家からずっと離れたところへ持っていって、放してやった。
次の日になると、その蠅は、またもどってきた。
久兵衛は、蠅がこうたびたびもどってくることに、なにか霊的な意味があるかどうか、まだはっきり、納得がいかなかった。
で、またもや蠅をつかまえて、羽とからだに紅(べに)をぬりつけ、前よりもさらに、家からずっと遠いところへ持っていって、放してやった。
ところが、それから二日たつと、蠅はすっかり紅をつけたまま、もどってきた。
そこで久兵衛は、もう疑わなくなった。
(画像を180度回転させています)
「なるほど、これはたまにちがいない」と彼は言った。
「あの子は、なにか欲しいものがあるんだな。――だが、いったい何が欲しいんだろう?」
女房はこう答えた。
「わたし、たまのためたお金を、まだ三十匁あずかっています。
おおかた、あの子は、自分の霊魂の供養に、あの金をお寺へ納めてもらいたいのでしょうよ。たまは、ふだんからいつも、後生のことばかり気にしていましたから」
こう言うと、蠅はとまっていた障子窓から、ぽたりと落ちた。
久兵衛が拾いあげてみると、その蠅は死んでいた。
そこで、夫婦はすぐ寺へ行って、たまの金を住職に納めることにした。
夫婦は、蠅の死骸を小さな箱にいれて、それをいっしょに持って行った。
寺の住職の自空上人(じくうしょうにん)は、蠅のはなしを聞くと、久兵衛夫婦に、よいことをなされたと言った。
それから、自空上人は、たまの霊のために施餓鬼をおこない、蠅の遺骸に妙典八巻を読誦した。
そして、蠅の遺骸をおさめた箱は、寺の境内に埋められ、そのうえに、しかるべき銘をしるした卒塔婆(そとば)が建てられた。
――「骨董」より
(『怪談・奇談(書籍版)』ラフカディオ・ハーン著、
田代三千稔訳 角川文庫 昭和31年)