でも、この風は台風17号の影響だろうな…
大阪は、現在、強風でないけど…
「台風17号 長崎など暴風域に 23日朝にかけ九州北部に接近」
昨夜のブラタモリ「比叡山~比叡山はなぜ“母なる山”になった?~」で
広辞苑をひいて山は「②特に比叡山、また、そこにある延暦寺の称。」と説明していました。
で、別の辞書から
「山」は比叡山、「祭り」は賀茂祭り
A 昨日山へまかり登りけり <源氏・夕顔>
B 持仏据(す)ゑ奉りて行ふ、尼なりけり<源氏・若紫>
現在なら「昨日山へ登りました」
「持仏をお据えして何かしているのは尼だった」でよいだろう。
ところが古文では大ちがい、正しくは、
A 昨日比叡山(延暦寺)へ登りました。
B 持仏を据え申してお経を読んでいるのは尼さんだったよ。
このように、一般的な語が特定の意味を表すことが古語ではかなり多い。
次はその代表的な例。
山=比叡山(延暦寺)
寺=三井(みい)寺(園城<おんじょう>寺)
従って山法師は延暦寺の僧、寺法師は三井寺の僧。
南都=奈良。または、奈良の興福寺
花=(平安時代以降)さくら
祭り=賀茂祭り(葵祭り)
遊び=(1)管絃の遊び (2)遊び女(め)(遊女)
作文(さくもん)=漢詩。または漢詩をつくること。
言の葉=和歌
返し=返歌
薄色=薄紫。または、薄い、紅色がかった紫
濃き色=濃紫。または、濃い紅
行ひ=仏前で勤行(ごんぎょう)すること。仏道修行。
「行ふ」は「仏前で読経(どきょう)する、勤行する」意。
(『古語林』林巨樹・安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)
ブラタモリの一行は坂本ケーブルで山頂へ向っていました。
発病前に何度か比叡山に登っています。
その時は、雲母坂(きららざか)から登って坂本へ降りていたのでケーブルは利用しませんでした。いつか乗りたいなぁ…
雲母坂は今年4月まで台風で倒木がひどかったようです(「延暦寺公式Twitter」)
今朝のニュース
〝「若手の登竜門」フランスの指揮者コンクールで日本人優勝〟
コンクールの日本人優勝者には小澤征爾さんや佐渡裕さんなど、
そして女性では松尾葉子さんがいます。
沖澤のどかさんのニュースを見た時に、
10月に上映される「レディ・マエストロ」(オランダ映画)を思い出しました。
アントニア・ブリコが指揮者の道を進もうとしたときに立ちはだかる女性差別。
彼女のパイオニアとして生き方を見てみたいなと思います。
また、12月に上映される「一粒の麦 荻野吟子の生涯」は
明治時代に女性医師第一号となった荻野吟子さんの物語です。
そして「お料理帖 息子に遺す記憶のレシピ」(韓国映画)もみたいな…
見たい映画はいろいろあるのだけど体調しだいなんだなぁ…
三作品とも大阪では、テアトル梅田で上映予定です。
吉野裕子さんの『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』より
「第四章 大嘗祭でまつられる神」の続きを転記しますφ(..)
石清水八幡宮に「竈神殿(そうじんでん)」があるのですが
吉野さんの本を読んでなるほどと思いました。
戸座――朝廷のカマドに奉仕する童男
そこで問題が二つ提起される。
その一つは戸座(へざ)とは何か、二つは御禊(みそぎ)における戸座が存在する意義は何か、の二点である。
後者については後の考察にゆずることとして、まず前者について考えよう。
戸座の「戸」はカマドを意味する。
大戸比売神(おおべひめのかみ)はカマドの神であると、『古事記』にも述べられている。
そうしてカマドの神は火の神と同義であろう。
(『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』
吉野裕子 河出文庫 2014年)
家屋は一戸二戸というように、カマドによって代表される。
ということはおそらく家とカマドは呪術的にみた場合、等質なのではなかろうか。
カマドは女陰の象徴物であるから、この意味からも家屋は女陰、母の胎としても古代日本人にとって重要な呪物であったと思う。
(セグロセキレイ)
戸座はその名の通り朝廷のカマドに奉仕する童男(おぐな)であった。
朝廷のカマドとは内裏の内膳司に奉斎される平野神(ひらののかみ)・庭火神(にわびのかみ)・忌火神(いみびのかみ)の三所のカマドを指す。
天皇が退位されて院の御所にお移りになると、内膳司からその天皇在位中のカマド神は(つまりカマドは)、同様に院の方へ渡御され、新しい天皇のために新しいカマド神が祀(まつ)られることになる。
このことは『葉黄記』寛元4年4月の記事、『日本紀略』巻13長和5年6月の記事などからうかがえるのである。
戸座(へざ)とは何か、おそらくその本質は「生きたカマド」であり、「火の神」であったと私は思う。
沖縄では一般にカマドは、火の神のご神体とされ、カマドか三つ石が火の神として祀られる。
火の神は家をまもる神とされるが、その家とは親から子へ、子から孫へと伝世される抽象的な「家」ではなく、現在そこにある「家屋」の家である。
火の神は家をまもり、その家の主婦によって斎(いつ)かれる。
したがって主婦が亡くなると、カマドは更新されたのであって、これが古い風習であった。
現在ではほとんど失われているというが。
日本の朝廷におけるカマドのあり方は、時とところをはるかに距てながら、つい最近まで沖縄にあったのである。
ただ本土と沖縄との違いは、カマドに密接に関係するものが、天皇にしても戸座にしてもいずれも男性であったのに対し、沖縄では徹底的にそれが女性であった点である。
それでは本土と沖縄と、そのいずれが古い信仰の原型を保ち、祭りの古儀を持っていたかといえば、むろん女によって手厚く祀られる沖縄のカマドのありようが、古い姿を伝えているといえよう。
家屋は疑似母胎・女陰であり、その中に住む家族を家の子、胎児として柔かに包み育む呪物と私は考える。
その上さらに家屋を象徴するカマドは、真正の胎(はら)・女陰の所有者である主婦によって管理され、祀られることによってはじめて、その霊力を発揮することができると思われる。
したがってその主婦の霊力によって疑似母胎たり得ていたカマドは、その主婦の死に際しては当然破棄されなければならない。
主婦とカマドの関係は、真正の母の胎の所持者とその疑似物の関係であって、女はカマドに呪力を与える存在である。
しかし本土ではそのカマドに対する女の力が忘れられたか、または好意に退(しりぞ)けられて、それが男性にとってかわられたのである。
本来、女によって奉仕されるべきカマドである以上、それを奉斎する戸座の本質は、女性である。
しかし現実には卜定(ぼくじょう)によって聖別され、任用された童男(おぐな)であった。
この戸座の本質をみるとき、御禊(みそぎ)における戸座存在の意義は自明である。
大嘗祭は天皇という大生命の更新の儀であるが、それは新天皇が疑似母胎から新生するということによって、はじめて達成される。
その疑似母胎とは御禊幄(おんみそぎのあく)の中に設けられた百子帳であろう。
戸座は関白と並んでその百子帳にもっとも近く座を占めているが、その戸座の位置の高さはかりそめのものではない。
おそらく戸座は生きたカマド、火の神としての火継(ひつ)ぎの場に臨み、百子帳が天皇新生のための疑似母胎であることの、証(あか)しとしての大任を負っているのであろう。
生きたカマド、または火としてあればこそ、戸座はそこにあることだけで意義があるといえる。
「あること」に脇点(、、、、)
(『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』
吉野裕子 河出文庫 2014年)
吉野裕子さんの大嘗祭についての考察は続きますが、一旦、終了させていただきます。
この後も興味深い分析が述べられています。
吉野さんの本を読んでいると古代では、女性の役割が大きかったのに
しだいに、女性蔑視の時代になっていったのだということが分かります。
「伝統」という言葉で女性を退けるのは古代の人々の考えと隔たりがあります。
文庫本(税抜き価格850円)ですので購入しやすいと思います。
なお本書は1975年講談社現代新書で刊行されました。
同じ心をよみ侍(はべ)りける 中納言女王(ちゆうなごんのによわう)
人(ひと)しれずものをや思(おもふ)秋萩(あきはぎ)のねたるがほにて露(つゆ)ぞこぼるゝ
ひそかに物思いをしているのであろうか。
秋萩は寝ているようなそぶりで、露の涙がこぼれていることだ。
〇同じ心を 前歌と同様の内容を。
〇ねたるがほ 寝ているような様子。萩の垂れるさまに人の寝るさまを重ねる。
〇五句 萩の枝から露がこぼれ落ちる様を、涙を流す様子に見立てる。
(『後拾遺和歌集』久保田淳、平田喜信校柱 岩波文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
だんじり祭りが開催されるようです。
始まる頃には公園を出てしまいましたが(^^ゞ
昨夜、夕食の後、ブドウを食べていたら
妹の皿に達磨さんがいました(*´▽`*)
ということではありませんが(^_-)-☆
機会があれば吉野裕子さんの
『ダルマの民俗学―陰陽五行から解く―』を紹介したいなぁと思います。