で、電車に乗ってやってきました。
「駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡」の石碑があるのは…
日本銀行大阪支店――明治建築らしい重厚感
日本銀行大阪支店は、1903年(明治36)竣工で、設計は辰野金吾、葛西萬司、長野宇平治。
(略)
1971年(昭和46)頃、中之島東部再開発計画がもちあがった。
全体を超高層ビルにし、古い市庁舎や図書館、公会堂などの近代建築物を取り壊し、人工地盤上に新たに立て直すというまちづくりの構想である。
しかし市民の反対運動で採用されず、歴史的建造物群の価値が再評価された。
日本銀行大阪支店は、1975年(昭和50)から1980年(昭和55)の改修で、隣に6階建ての新館を建て、旧館の車寄せの奥の部屋の保存が実現して今に至る。
(『カリスマ案内人と行く大阪まち歩き』栗本智代 創元社 2013年)
水晶(すいしょう)橋
大阪市庁舎と府立図書館の間から堂島川の対岸に《水晶橋》という美しい名前の橋が架かっている。
もともとは「錦橋」と同様の可動堰で、大正15年に堂島川下流の浄化を堰の開閉によって行なうために建設され、昭和4年に完成。
第二次大戦後は一時稼動が休止されたが、昭和41年から再開され、昭和57年の改装に伴って〝橋〟として認定された。
両側に高さ3メートルの階段があり、それを上がると花崗岩で舗装された橋上に、ベンチを兼用する陶器製の植樹枡が5基、まるで小公園のような趣だ。
また、八角形の照明灯がクラシックな雰囲気を醸し出している。
水晶橋の名は、この照明灯の光が水晶のような美しい輝きを水面に映すことに由来するといわれる。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)
一 汽水の都
「汽水( Brackis water )」とは淡水と海水が混在する状態をいう。
一般には川が海に流入する河口や、深く入り組んだ湾、干潟などを「汽水域」と呼ぶ。
表面は上流から注ぐ川の水、底に近いところは潮が押し上げてくる海水といように、はっきりとした層をなしている。
干満によってその境目が上下するため、汽水域には、塩分濃度の変化に耐性のある独特の植物や生物が棲息する。
たとえば湿地に群生する葦などの被子植物、あるいは亜熱帯や熱帯の海辺に繁茂するマングローブなどを例示することができる。
大阪の都心を流れる水路も「汽水域」にある。
中之島界隈の水面を観察すると、時々刻々、変化している。
潮が満ちる時には、波が下流から上流にと押し上げている。
往来する船も、日々の潮位を気にしながら運行している。
水位が高い際には、くぐることができなくなるほど、川面と近くなる橋があるからだ。
考えてみれば、大阪という都市は、川筋を下ってきたものと、海から遡上してきたものが入り混じることで成立した、いわば「汽水都市」と言って良いのではないか。
たとえば都市を支える経済がそうだろう。
瀬戸内から大陸につながる海運と、淀川や大和川を動脈とする舟運との結節点にあって、古代の難波津は発展をみた。
近世にあっては、諸国の蔵屋敷がならび、各地の物資が集散する「天下の台所」となった。
以後、今日に至るまで、大阪は「母なる川」である淀川の恩恵を受けつつ、世界と海で結ばれる港湾都市という二面性を持つ。
(『「水都」大阪物語――再生への歴史文化的考察』橋爪紳也 藤原書店 2011年)
万葉学者である中西進がすでに指摘しているように、この都市が育む文化も同様の傾向を持つ。
中西は、かつて日本のことを「豊葦原の瑞穂の国」と称した点に着目した。
豊かな葦の原、瑞穂が瑞々しく実っている場所という意味合いだ。
言うまでもなく、葦は主に河川の下流域から汽水域、あるいは干潟の陸側、水流の少ない場所に生育する。
多数の茎を水中に伸ばし、群生することで泥がたまりやすい浅瀬が生じる。
そこにさまざまな生き物が暮らすようになる。
縄文人たちが暮らすこの地に水稲技術を持った弥生人が入ってきた際、汽水域で耕作を始め、双方の生活様式が共存した時期があることを指摘する。
大阪は、まさにそのような場所に成立した都市である。
川の文化と海の文化が適度に混じり合いつつ、双方がもたらす変化への耐性を持ちながら、さらに双方の個性を継承しながら、独自の都市文化を創発してきた。
大阪における文化の混合性、開放的な市民気質はそもそもの地勢にも遠く由来するのではないか。
(『「水都」大阪物語――再生への歴史文化的考察』橋爪紳也 藤原書店 2011年)
中之島図書館で、ブログ用の記事にする資料を探していました。
お昼近くになったので図書館の向かいにある
「OSAKA市役所食堂 (まいどおおきに食堂)」で
カレー(432円)とマカロニサラダ(108)、茄子揚げびたし(162)の三点で702円(税込み)
最近、外でカレーを食べることが多いみたい(^^ゞ
食後、図書館に戻って「加藤拓川の足跡」の展示を見ました。
加藤拓川をこの展示で初めて知りました。
正岡子規や司馬遼太郎の『坂の上の雲』に関連した資料も展示されていました。
外交官、松山市長も務めた拓川については
「加藤恒忠(拓川)という人」(松山大学)
本を転記していたのですが、いつものごとく睡魔と格闘しながらなので転記間違いが多いだろうな…(-_-;)
帰りいつものように天満橋駅に向かって歩いていると…
碑の裏面に
合水堂(華岡流外科顕彰碑)
華岡青洲は、全身麻酔薬「通仙散」を創製後、1804年世界で初めて全身麻酔による乳ガンの摘出手術に成功しました。
そして、和歌山に医学塾兼病院として「春林軒」を創設し、1816年大阪中之島に末弟の鹿城が分塾「合水堂」を開設しました。
鹿城が亡くなり、さらに青洲没後、1837年、青洲の養子である南洋が大坂へ移り、「合水堂」を支えました。
華岡流外科の門人数は、現存する「門人録」によれば、1780年から1882年の間に、総勢約2200人になります。
最先端の医学知識、医術を求めて、全国各地から集まった医師の半数は「合水堂」で学んだと推察されています。
「合水堂」は、上方文化の中心であった大坂から情報を発信して、わが国の医学の発展への大きな業績を遺しました。
2015年は南洋の没後150年、2016年は「合水堂」開設200年にあたります。
この顕彰碑の建立によって、華岡流医術の歴史が末永く伝えられることを願っています。
建立 華岡青洲弟鹿城末裔
日本医学史学会
協賛 日本麻酔科学会
後援 第29回日本医学総会2015関西
2015年4月吉日
「くすり偉人伝 No.1 華岡青洲」(製薬協)
「第24話 華岡鹿城(はなおかろくじょう)」(関西・大阪21世紀協会)
華岡青洲は和歌山の人なので、鹿城が大坂で合水堂という塾を開いていたことを知りませんでした。
八軒家浜 燈籠の由来
安政7年(1860)、夜の乗下船時の安全のため、地元の人が燈籠を建てました。
その燈籠は明治時代頃に生国魂神社へ移され、北門に現存しています。
この燈籠は残されていた図面をもとに当時の大きさに合わせて復活させたものです。
安政7年(1860)、夜の乗下船時の安全のため、地元の人が燈籠を建てました。
その燈籠は明治時代頃に生国魂神社へ移され、北門に現存しています。
この燈籠は残されていた図面をもとに当時の大きさに合わせて復活させたものです。
京屋と堺屋
八軒家浜の船宿の一つである京屋忠兵衛は、新選組の定宿で芹澤鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司らがしばしば利用しました。
慶応4年(1868)1月8日、鳥羽伏見の戦いの後、大阪城を焼け出された新選組隊士たちは、ここ京屋に宿泊したのち江戸に帰還しました。
また、京屋の隣にあった堺屋源兵衛は伏見の寺田屋と業務提携しており、勤皇の志士たちがしばしば利用しました。
坂本龍馬も八軒家を利用した一人です。
八軒家浜の船宿の一つである京屋忠兵衛は、新選組の定宿で芹澤鴨・近藤勇・土方歳三・沖田総司らがしばしば利用しました。
慶応4年(1868)1月8日、鳥羽伏見の戦いの後、大阪城を焼け出された新選組隊士たちは、ここ京屋に宿泊したのち江戸に帰還しました。
また、京屋の隣にあった堺屋源兵衛は伏見の寺田屋と業務提携しており、勤皇の志士たちがしばしば利用しました。
坂本龍馬も八軒家を利用した一人です。
「龍馬、新選組も訪れた! 幕末の船場を歩く」(大阪あそ歩)
こんばんは~
返信削除>中之島周辺
市内へ出かけることはどんどん減っていますが、それでもどの辺りを散歩したいかと聞かれれば、中之島周辺です。
天王寺あたりも大好きですが。。。(^-^;
Kazeさんの図書館などで色々な調べ物をされることに、いつもいつも感心しきりです。(失礼をお許しください)
おかげさまで、色々な事を知ることが出来ています。
和歌山にある華岡青洲の家を訪ねたことがありましたので興味深く読ませていただきました。
>最近、外でカレーを食べることが多いみたい
はい、そう思いました。(^-^;
お値段にびっくりです。
カイさんこんにちは(^^)/
削除発病前は、再開発する前の天王寺あたりをウロウロしていました(*´▽`*)
学生時代に松虫あたりでアルバイトをしていたことがあります。
図書館や図書室で調べものをするのは、午前中の散歩の後
午後から何もしていないとついつい昼寝をしてしまいます(^^ゞ
ただ、睡魔が襲ってくるので転記間違いが多いなぁと思っていますm(__)m
食欲がないときなどカレーがいいなと思います(^_-)
中華そばも食べたいなぁと思っていますが…
市役所の地下食堂は、値段が安いですし
それなりに美味しいですよ(^^)v
Kazeさん
返信削除おはようございます。
湿度が低くなるとこんなに過ごしやすくなるんですね。
夜は半袖では肌寒く感じるくらい。
カワセミ綺麗な色ですね。
近くの公園の池に
大勢のカメラマンが三脚たてて
カワセミがやってくるのを
待っているところに遭遇したことがあります。
しばらく待ちましたが
会えませんでした。
becoさんこんにちは(^^)/
削除湿度が低くなると気温が高くても気持ちいい汗をかくことができますね(^^)v
昨夜、妹を送る時に半袖だったので寒かったです!
カワセミは翡翠と書くようにヒスイ(翡翠)のように綺麗ですね!
今朝も父は、写したくて探していたのですが
カルガモに気をとられて写しそこなったと悔しがっていました(^_-)