5時前に戸を開けると半袖では寒いなと思うほど…
公園を歩いていると雲が面白かった。
90mmマクロ(約135㎜相当)では画角が狭いので携帯で撮影しました(*´▽`*)
昨日、ブログを書いていた時に東電の裁判で「全員無罪」を知りました。
記事にしようと思ったけど感情的になるなと思って頭を冷やすことにしました。
〝原発事故 東電旧経営陣に無罪判決「津波の予測可能性なし」〟(NHK)
もやもやしている時に湯川れい子さんの呟きを見ました。
湯川れい子さんのTwitterはいつも素晴らしいなと思います。
東京電力無罪という判決を聞いて、
「あの段階であらゆる情報で危険という判断が下されていたとしても(それが無かった)、それから工事に着手したとして間に合わなかった」
と言うことは、
それだけ全ての原発が自然災害とか武力攻撃の前には無力だ、
と言うことを司法が示してくれたのだと納得しました
以前は、地裁などでは国民の立場になって判決が下されることが多かったと思うのだけど
今回は、国の原発政策(再稼働)や企業の利益にそった判決になっていると思いました。
そして今朝の新聞に柳田邦男さんの寄稿が載っていました。
「未来の安全につながる判決か」(朝日新聞 電子版のタイトルは違います)
今回の判決に対する柳田さんの分析は多くの人たちで共有したいと思います。
(有料記事なので全文記載できませんが…)
安全論の逆説的格言に、「法規の枠組みだけで仕事をしていると事故が起こる」というのがある。
東京電力経営首脳の刑事責任を問う裁判の判決を傍聴していて、この格言はやはり正しいと思った。
(略)
問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら、責任の所在があいまいにされてしまう原発事故の不可解な巨大さではないか。
これが一般的な凶悪事件であるなら、被害者の心情に寄り添った論述が縷々(るる)記されるのが通例だ。
裁判官は歴史的な巨大な複合災害である事故現場や「死の町」や避難者たちの生活の現場に立ち、そこで考えようとしなかったのか。
(略)
だが、今回の裁判の対象は巨大な被害を生じさせた原発事故であり、被告席に立たされたのは経営陣であったのだから、判決文では、有罪・無罪に関わらず、この国の未来の安全と国民の納得・安心につながる格調の高い論述を展開してほしかった。
今朝、もやもやとした気分で出かけようとしていた時に
朝のニュース番組でニュージーランド首相のインタビューがあって見入ってしまいました。
昨日の記事ですが
「ニュージーランド首相 最善の選択できる子育て環境必要と指摘」(NHK)
イスラム教徒への銃乱射事件の時の行動は見ていて目がかすみました。
そしてこんなニュースもいいなと思いました。
「ダイキン、阪大と育休社員を支援」(日経)
「女性エンジニア・育休中社員のキャリアアップ・プログラムを開始」(大阪大学)
こんなニュースはいいな(*´▽`*)
「まるできょうだい!? タヌキとネコ 岡山 玉野」
昨日のニュース「天皇陛下 皇居の田んぼで初めての稲刈り行事」
吉野裕子さんの『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』より
「第四章 大嘗祭でまつられる神」の続きを転記しますφ(..)
「御禊」の内容
「御禊」は今述べたように、大嘗祭に先行すること約一カ月、10月下旬に天皇みずから河原に幸して、禊(みそ)ぎ祓(はら)いをされることであった。
その御禊所地は前もって卜定(ぼくじょう)され、その卜(うら)にかなった地でなければならず、河原でさえあればどこでもいいというわけではなかった。
(『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』
吉野裕子 河出文庫 2014年)
御禊の地は、平城天皇(806-809年)は葛野(かどの)川、嵯峨天皇(810-823年)は松崎川、淳和天皇(824-833年)は佐比(さい)川で行われたが、その間には近江、大津でも行われた。
仁明天皇(834-850年)以後は鴨河で行われたが、東山天皇(1687-1709年)の貞享以後は、河上の行幸を廃して、清涼殿の東庭において行われることになった。
御禊の当日は節旗を先頭に、文武百官が鳳輦(ほうれん<黄金の鳳凰をつけた輿(こし)>)にしたがい、行装は他の行幸にまさって威儀をつくろい、はなやかにさかんなものだったという。
その沿道には桟敷(さじき)が設けられ、観衆は道にあふれて、たいへんな観物だったようである。
『代始和抄』御禊行幸事は、御禊について委細を記しているが、御禊の行幸の次第も、河原の舗設の様相もことごとく世の常でないことを強調している。
仁安3年(1168年)の『兵範記』によれば、河原の御禊頓宮(みそぎかりみや)の規模は、東西約120メートル、南北およそ135メートルの地所の南西北の三方に、大幔幕(まんまく)をはりめぐらしたものだという。
東側は幕をひかず、ただちに鴨河に面している。
この河に臨んで蔀屋(しとみや)が二棟、東西に建てられた。
この蔀屋が御禊幄(おんみそぎのあく)で、この東の御禊幄の中央に「百子帳(ひゃくしちょう)」がしつられられた。
百子帳は天皇専用の禊(みそ)ぎのための仮屋で、その屋根を葺(ふ)くのに蒲葵(びろう)が使用されたのである。
御禊幄のほかにこの頓宮の敷地の中には、御禊幄より9メートル西寄りに、御膳幄(おんもののあく)といわれるものが二棟できていた(第38図参照<省略>)。
百子帳の上は蒲葵で葺かれ、麴塵立涌雲綾(きくじんたてわくうんりょう)模様の帷(とばり)を垂れ、その中には長筵(ながむしろ)を敷きつめ、その上には紫のじゅうたんのような敷物をしく。
[「じゅうたん」に脇点(、、、、、)]
百子帳の内部には背当のない椅子、大床子(だいしょうじ)二脚をすえ、その上に錦の茵(しとね)をしく。
大床子の前方には赤地錦の敷物をしく。
大床子が二つおかれているわけは一つは天皇の御料、一つは御剣のためのものである。
百子帳の周囲、南西北には屏風をひき廻(めぐ)らせ、その屏風の内側、北寄りには縁畳一枚を敷いて摂政の座とする(第39図参照<省略>)。
百子帳そのものの形は、絵図がないのではっきりしたことはわからないが『延喜式』の注などから察すると、丸栗の片腹をくり抜いたような形をしていて、高さ2メートル余り、直径2メートル位で、上から錦や絹の帷(とばり)を垂れたものと思われる。
そして天皇といえども、東面してたてられている百子帳の東方からは、帳内に入られない。
西の方から入る。
そのために百子帳の西の帷はわざと縫合されていないのである。
東方を使えるものは天皇の撫物(なでもの)をすすめる御巫(みかんこ)だけである。
御巫は童女であるが、これと並んで御禊に侍するものに神聖な童男(おぐな)、戸座(へざ)があった。
御禊における戸座は別に所役があるわけではなく、そこのじっとして在ることに意味があるという。
[「在ること」に脇点(、、、、)]
(『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』
吉野裕子 河出文庫 2014年)
ベンチが草の中に埋もれてしまっています。
去年の台風で多くの樹木が倒れて日差しが届くようになったことが原因だと思います。
作業も追いつかないのだと思います。
そう言えば千葉で大量の倒木が復旧の妨げになっているとのニュースがありました。
台風17号の動きも気になります。
千葉の被害は、去年の大阪のように他の地域でも起きると思います。
「停電復旧を阻む大量の倒木 病気で空洞化したスギが一因か」(NHK)