2019年9月10日火曜日

秋らしさは…

朝から30度近くになり、
風も吹かなかったので酷暑でした(・_・;)
シロバナマンジュシャゲが咲いているのを見て
少し秋を感じました(*´▽`*)

猛烈な暑さ 午前中から猛暑日のところも 熱中症に警戒を
森鴎外「最後の一句」の続きを転記しますφ(..)
 平野町のおばあ様が来て、恐ろしい話をするのを姉娘のいちが立聞(たちぎき)をした晩の事である。
桂屋の女房はいつも繰言を言って泣いた跡で出る疲(つかれ)が出て、ぐっすり寐入(ねい)った。
女房の両脇(りょうわき)には、初五郎と、とくとが寝ている。
初五郎の隣には長太郎が寝ている。
とくの隣りにまつ、それに並んでいちが寝ている。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外 
  新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)
 (しばら)く立って、いちが何やら布団(ふとん)の中で独言(ひとりごと)を言った。
「ああ、そうしよう。きっと出来るわ」と、云ったようである。
 まつがそれを聞き附けた。
そして「姉(ね)えさん、まだ寐ないの」と云った。
「大きい声をおしでない。わたし好(い)い事を考えたから」いちは先(ま)ずこう云って妹を制して置いて、それから小声でこう云う事をささやいた。
お父(と)っさんはあさって殺されるのである。
自分はそれを殺させぬようにすることが出来ると思う。
どうするかと云うと、願書(ねがいしょ)と云うものを書いてお奉行様(ぶぎょうさま)に出すのである。
しかし只殺さないで置いて下さいと云ったって、それでは聴かれない。
お父っさんを助けて、その代りにわたくし共(ども)子供を殺して下さいと云って頼むのである。
それをお奉行様が聴いて下すって、お父っさんが助かれば、それで好い。
子供は本当に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。
只お願いする時、長太郎だけは一しょに殺して下さらないように書いて置く。
あれはお父っさんの本当の子でないから、死ななくても好い。
それにお父っさんがこの家の跡を取らせようと云ってらっしゃったのだから、殺されない方が好いのである。
いちは妹にそれだけの事を話した。
「でもこわいわねえ」と、まつが云った。
「そんなら、お父っさんが助けてもらいたくないの」
「それは助けてもらいたいわ」
「それ御覧。まつさんは只わたしに附いて来て同じようにさえしていれば好いのだよ。わたしが今夜願書(がんしょ)を書いて置いて、あしたの朝早く持って行きましょうね」
 いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平仮名で願書を書いた。
父の命を助けて、その代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴(いただ)きたい、実子でない長太郎だけはお許下さるようにと云うだけの事ではあるが、どう書き綴(つづ)って好いかわからぬので、幾度も書き損(そこな)って、清書のためにもらってあった白紙(しらかみ)が残少(のこりすくな)になった。
しかしとうとう一番鶏(いちばんどり)の啼(な)く頃に願書が出来た。
 願書を書いているうちに、まつが寐入ったので、いちは小声で呼び起こして、床の傍(わき)に畳んであった不断着(ふだんぎ)に著更(きか)えさせた。
そして自分も支度をした。
 女房と初五郎とは知らずに寐ていたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云った。
 いちは長太郎の床の傍(そば)へ往(い)ってささやいた。
「まだ早いから、お前は寝ておいで。ねえさん達は、お父っさんの大事な御用で、そっと往って来る所があるのだからね」
「そんならおいらも往く」と云って、長太郎はむっくり起き上がった。
 いちは云った。
「じゃあ、お起(おき)、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しょに往ってくれれば、その方が好いのよ」と云った。
 女房は夢のようにあたりが騒がしいのを聞いて、少し不安になって寝がえりをしたが、目は覚めなかった。
 三人の子供がそっと家を抜け出したのは、二番鶏の啼く頃であった。
戸の外は霜の暁であった。
提灯(ちょうちん)を持って、拍子木を敲(たた)いて来る夜廻(よまわり)の爺(じ)いさんに、お奉行様の所へはどう往ったら往(ゆ)かれようと、いちがたずねた。
爺いさんは親切な、物分かりの好い人で、子供の話を真面目(まじめ)に聞いて、月番の西奉行所のある所を、丁寧に教えてくれた。
当時の町奉行は、東が稲垣淡路守種信(いながきあわじのかみたねのぶ)で、西が佐佐又四郎成意(なりむね)である。
そして十一月には西の佐佐が月番に当っていたのである。
 爺いさんが教えているうちに、それを聞いていた長太郎が、「そんなら、おいらの知った町だ」と云った。
そこで姉妹(きょうだい)は長太郎を先に立てて歩き出した。
月番 江戸時代の奉行所などの勤務方法。一カ月ずつ交替で諸般の政務、補佐を行う。

西奉行所 大坂では、東奉行所と西奉行所が月番制で統治をしていた。

稲垣淡路守種信 (1694-1763)。享保14(1729)年から元文5(1740)年まで大坂東奉行所に在任。

佐佐又四郎成意 (1690-1746)。元文3(1738)年から延享元(1744)年まで大坂西奉行所に在任。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外
   新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)