今朝は、青空が広がり暑いのだけど…
湿度が低く、風も吹いていたので歩きやすかったです(^^)v
でも、「三連休は暑さぶり返す」(^^;
南瓜煮てやろ泣く子へ父の拳(こぶし)やろ 磯貝碧蹄館(へきていかん)
多くの日本人がカボチャを主食代わりとした貧乏時代もあった。
掲句は昭和35年の作で、作者も等し並に貧しかった。
そんな庶民の哀歓がうたわれていて、ほのぼのとした温(ぬく)もりの感じられる句だ。
ようやく窮境を脱していたころだが、妻の急な入院で幼い子供の世話をしなければならなくなった。
そんな戸惑いを、ぶっきらぼうながら精一杯の父性愛を発揮して、元気よく詠んでいる。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
カボチャ煮るのは終戦直後によくやったし、拳骨(げんこつ)をくらわすのも一種の愛情の表現と日常茶飯事のことであた。
現在なら虐待行為と非難されるが、すべてが牧歌的な時代だったといえなくもない。
この句によって作者自身は奮起させられるものがあったという。
そのころに「花咲く馬鈴薯(ばれいしょ)勇気は常に妻より享(う)く」
「〝いろはにこんぺと〟地を跳べ地が父冬日が母」
「怒りつぺの餅(もち)笑ひつぺの餅子と焼けば」の作などもある。
1924~ 東京生まれ。「握手」創刊主宰。句集『絶海』『眼奥』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
今はやりのタピオカを父は、芋のように煮て食べていたそうです。
食糧事情が少しよくなってからは、粉にしたのを天ぷらにして食べたと話していました。
昨夜のかんさい熱視線「女たちの戦争 国防婦人会の記録 特別版」を見ていると
昨日、横を通った中央公会堂で
国防婦人会総会があり、5000人もの女性が会場を埋めたそうです。
かんさい熱視線は午前中に再放送があったのですが
病院ラジオ「がん専門病院編」の再放送は
NHK総合で16日(月)午前11時00分~からです。
本放送の時は、病院の消灯時間の9時を過ぎていたので
入院患者は見ることできないなと思っていました。
森鴎外「最後の一句」の続きですφ(..)
十一月二十四日の未(ひつじ)の下刻(げこく)である。
西町奉行所の白洲ははればれしい光景を呈している。
書院には両奉行が列座する。
奥まった所には別席を設けて、表向(おもてむき)の出座ではないが、城代が取調(とりしらべ)の模様(もよう)を余所(よそ)ながら見に来ている。
縁側には取調を命ぜられた与力が、書役(かきやく)を随(したが)えて著座(ちゃくざ)する。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外
新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)
同心(どうしん)等が三道具(みつどうぐ)を衝き立てて、厳(いか)めしく警固している庭に、拷問(ごうもん)に用いる、あらゆる道具が並べられた。
そこへ桂屋太郎兵衛の女房と五人の子供とを連れて、町年寄五人が来た。
尋問は女房から始められた。
しかし名を問われ、年を問われた時に、かつがつ返事をしたばかりで、その外の事を問われても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云うより外、何一つ申し立てない。
次に長女いちが調べられた。
当時十六歳にしては、少し穉(おさな)く見える、瘦肉(やせじし)の小娘である。
しかしこれは些(ちと)の臆(おく)する気色もなしに、一部始終の陳述をした。
祖母の話を物蔭(ものかげ)から聞いた事、夜になって床に入ってから、出願を思い立った事、妹まつに打明けて勧誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒(さま)したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に来て門番と応対し、次いで詰衆の与力に願書の取次を頼んだ事、与力等に強要せられて帰った事、凡(およ)そ前日来経歴した事を問われるままに、はっきりと答えた。
「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのじゃな」と、取調役が問うた。
「誰にも申しません。長太郎には精(くわ)しい事は申しません。お父っさんを助けて戴く様に、お願しに往くと申しただけでございます。お役所から帰りまして、年寄衆のお目に掛かりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるように願うのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書(ねがいしょ)を書かせて、持ってまいりました」
いちがこう申し立てると、長太郎が懐から書附を出した。
取調役の指図で、同心が一人長太郎の手から書附を受け取って、縁側に出した。
取調役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。
いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあったのである。
長太郎の願書には、自分も姉や姉弟(きょうだい)と一しょに、父の身代りになって死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあった。
取調役は「まつ」と呼びかけた。
しかしまつは呼ばれたのに気が附かなかった。
いちが「お呼(よび)になったのだよ」と云った時、まつは始めておそるおそる項垂(うなだ)れていた頭(こうべ)を挙げて、縁側の上の役人を見た。
「お前は姉と一しょに死にたいのだな」と、取調役が問うた。
まつは「はい」と云って頷(うなず)いた。
次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。
長太郎はすぐに「はい」と云った。
「お前は書附に書いてある通りに、兄弟(きょうだい)一しょに死にたいのじゃな」
「みんな死にますのに、わたしが一人生きていたくはありません」と、長太郎ははっきり答えた。
「とく」と取調役が呼んだ。
とくは姉や兄が順序に呼ばれたので、こん度は自分が呼ばれたのだと気が附いた。
そして只目を睜(みは)って役人の顔を仰ぎ見た。
「お前も死んでも好いのか」
とくは黙って顔を見ているうちに、唇(くちびる)に血色が亡(な)くなって、目に涙が一ぱい溜(た)まって来た。
「初五郎」と取調役が呼んだ。
ようよう六歳になる末子(ばっし)の初五郎は、これも黙って役人の顔を見たが、「お前はどうじゃ、死ぬるか」と問われて、活潑(かっぱつ)にかぶりを振った。
書院の人々は覚えず、それを見て微笑(ほほえ)んだ。
この時佐佐が書院の敷居際(ぎわ)まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい」
「お前の申立(もうしたて)には嘘(うそ)あるまいな。若(も)し少しでも申した事に間違があって、人に教えられたり、相談したりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ」佐佐は責道具のある方角を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言い放った。
その目は冷(ひやや)かで、その詞(ことば)は徐(しず)かであった。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞届けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか」
「よろしゅうございます」と、同じような、冷かな調子で答えたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上(かみ)の事には間違はございますまいから」と言い足した。
佐佐の顔には、不意打に逢(あ)ったような、驚愕(きょうがく)の色が見えたが、それはすぐに消えて、険しくなった目が、いちの面(おもて)に注がれた。
憎悪(ぞうお)を帯びた驚異の目とでも云おうか。
しかし佐佐は何も言わなかった。
次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が済んだから、引き取れ」と言い渡した。
白洲を下がる子供等を見送って、佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先(おいさき)の恐ろしいものでございますな」と云った。
心の中(うち)には、哀(あわれ)な孝行娘の影も残らず、人に教唆(きょうさ)せられた、おろかな子供の影も残らず、只氷のように冷かに、刃(やいば)のように鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響しているのである。
元文頃の徳川家の役人は、固(もと)より「マルチリウム」という洋語も知らず、又当時の辞書には献身と云う訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女(ろうにゃくなんにょ)の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現れたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。
しかし献身の中(うち)に潜む反抗の鋒(ほこさき)は、いちと語(ことば)を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。
未の下刻 「未の刻」は午後2時前後(正確には午後1時から3時までの間)で、「下刻」は一刻を三分した最後の時刻。
書院 白洲の最上段。下段には罪人、中断には取り調べ役が座る。
同心 与力の下で、庶務や警護の役割を担当した下級役人。
三道具 江戸時代、罪人を捕まえるのに用いた道具。突棒(つくぼう)、刺股(さすまた)、袖搦(そでがらみ)。
マルチリウム Martyrium (独)殉教。献身。
(『山椒大夫・高瀬舟』森 鴎外
新潮文庫 昭和43年 平成18年改版)
今朝の父の一枚です(^^)v
カルガモを写していた時に左のほうからカワセミが飛んでいったと悔しがっていました。
先日も同じような場所だったのにカルガモに気をとられて気付くのが遅かったと…