風が吹いていなかったので日ざしが暖かくて気持ちよかったです。
ただでさえ不安だと思います。
妊娠中の方にとって新型コロナの次は、マイコプラズマ肺炎が流行し
さらに…
「リンゴ病流行 “妊婦感染で流産などのおそれ”学会が注意喚起」(NHK)
家族は、母親が無事で、子どもが元気に生まれてくれることを願っていると思います。「皇后さま 61歳の誕生日【感想 全文掲載】」(NHK)
体調を崩されてから21年になる皇后さまについて
宮内庁の医師団の見解は、
「御快復の途上にあり、依然として御体調には波がおありです」
体調を崩された原因の一つに男子を産まなければならないという重圧があったのではと思います。
卵子へ辿り着くのが「X染色体の精子」か「Y染色体の精子」のどちらが受精するかで性別が決まるので母親に責任はない。
昔は、そのことが分らず跡継ぎを産めない女性は肩身の狭い思いをされていたし、
場合によっては離縁させられることもあった。
現在、これだけ科学が進んでいるのに雅子さまへの重圧は、……前回に続いて美子皇后について別の本から
近代女性の「鑑(かがみ)」となる
宮中のたましい 美子(はるこ)皇后(1849~1914)
宮中のたましい
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布のこの日、新設の玉座で詔勅を朗読する天皇の傍らには、ダイヤをちりばめた王冠をかぶり、バラ色のローブ・モンタントに身を包んだ美子皇后が控えていました。
(『烈女伝 勇気をくれる明治の8人』榊原千鶴 三弥井書店 平成26年) 明治18年、初代内閣総理大臣となった伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の近代化、文明化を視角化することが重要と考え、皇后の洋装化を進めようとします。
けれど急激な西洋化を嫌った天皇は、なかなか許可しません。
天皇自身、髻(もとどり 頭の頂点で束ねた髪)を結い、淡く白粉を塗り、公の場では洋装でも、私的な場では和装で通していました。 天皇が断髪した明治6年、皇后も洋装化に先立ち、眉墨、お歯黒、白粉(おしろい)を止めています。
そして明治19年、天皇がようやく皇后の洋装を許可すると、皇后は洋装で華族女学校に行啓し、翌20年には新年儀式にも洋装大礼服で臨みました。
伊藤はドイツの宮廷侍従であったフォン・モール夫妻を日本に招き、宮中の習俗や儀礼の国際化に取り組みます。 当時、ドイツに注文された皇后の大礼服は総額13万円、かたや総理大臣の年俸は1万円、鹿鳴館の総工費は18万円だったと言います。
費やされた金額の大きさを思えば、皇后の洋装化はまさに、国家事業として行われたことが理解できます。
宮中の西洋化を急ぐ伊藤に対して、むしろモールの方が日本画や和装を好み、皇后や女官の洋装にも反対で、伊藤と対立しています。
モールは、宮中の様子について、次のように記しています。 もともとヨーロッパ人を拘束している宮中の環境は、実は皇后も拘束している。皇后にある程度の自由すらなく、式部官や宮中女官の意のままになられていることが見逃されることはない。このことはおそらく皇后が西洋式の立居振舞に自信がおありにならないことによっても説明できるであろう。 (『ドイツ貴族の明治宮廷記』)
宮中での生活、しかも性急な西洋化が、皇后に負担を強いたことは想像に難くありません。
けれど美子皇后は、その人柄により、多くの人から敬慕される存在でした。 皇后はこよない愛想のよさを高い知性を結びつけられており、皇后すなわち女性の支配者の名のとおり宮中のたましいである。小柄で華奢ながら皇后としての威厳に欠けるところは全くない。純粋に和風の皇后のご教養のほどはおそらくすばらしいものがあろう。おひまなとき皇后は、詩歌、芸術、それに植物のご研究にはげんでおられる。 (『ドイツ貴族の明治宮廷記』
こうした賛辞は外国人に限ったものではありません。
後に、日本初の公害事件とされる足尾銅山事件を告発し、明治天皇に直訴しようとした田中正造も、この式典には栃木県県議会議長として参列していました。
その田中も、美子の姿に圧倒され、皇后あってこそ日本の国は初めて治まる、との思いを抱いたと語っています。
ベーコンは、法整備の重要性を言い、「日本の妻の立場には理論的な問題がある。いまだに与えられていない諸権利を、法律が保障するようになるまで、問題は解決されないだろう」とも指摘しています。 実際、このとき公布された大日本帝国憲法の内容を思えば、ベーコンの指摘の妥当性が理解できます。
大日本帝国憲法はアジアで制定された初めての憲法ですが、女性の地位という点からすれば、男女平等にはほど遠いものでした。
女性には参政権をはじめとする政治的権利は認められず、「家制度」のもと、財産は夫の管理下おかれ、法律上も妻は無能力者とされました。
憲法と並行して作成され、同日に裁定された皇室典範においても、女性による皇位継承は否定され、一夫一婦多妾制も容認されています。
…後略…
(『烈女伝 勇気をくれる明治の8人』榊原千鶴 三弥井書店 平成26年)今朝の父の一枚です(^^)/
十月桜(じゅうがつざくら)
秋から翌春(よくはる)にかけて花を咲かせる。
花弁数が10~20枚の八重咲きのサクラ。
マメザクラとエドヒガンの種間雑種(しゅかんざっしゅ)と考えられ、江戸時代から愛好されてきた。
その咲き方から「冬桜」や「不断桜(ふだんざくら)」と呼ばれることもある。
(『校庭の木・野山の木1 サクラの絵本』勝木俊雄 編 森谷明子 絵 農文協 2015年)
「リンゴ病流行 “妊婦感染で流産などのおそれ”学会が注意喚起」(NHK)
家族は、母親が無事で、子どもが元気に生まれてくれることを願っていると思います。「皇后さま 61歳の誕生日【感想 全文掲載】」(NHK)
体調を崩されてから21年になる皇后さまについて
宮内庁の医師団の見解は、
「御快復の途上にあり、依然として御体調には波がおありです」
体調を崩された原因の一つに男子を産まなければならないという重圧があったのではと思います。
卵子へ辿り着くのが「X染色体の精子」か「Y染色体の精子」のどちらが受精するかで性別が決まるので母親に責任はない。
昔は、そのことが分らず跡継ぎを産めない女性は肩身の狭い思いをされていたし、
場合によっては離縁させられることもあった。
現在、これだけ科学が進んでいるのに雅子さまへの重圧は、……前回に続いて美子皇后について別の本から
近代女性の「鑑(かがみ)」となる
宮中のたましい 美子(はるこ)皇后(1849~1914)
宮中のたましい
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法発布のこの日、新設の玉座で詔勅を朗読する天皇の傍らには、ダイヤをちりばめた王冠をかぶり、バラ色のローブ・モンタントに身を包んだ美子皇后が控えていました。
(『烈女伝 勇気をくれる明治の8人』榊原千鶴 三弥井書店 平成26年) 明治18年、初代内閣総理大臣となった伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の近代化、文明化を視角化することが重要と考え、皇后の洋装化を進めようとします。
けれど急激な西洋化を嫌った天皇は、なかなか許可しません。
天皇自身、髻(もとどり 頭の頂点で束ねた髪)を結い、淡く白粉を塗り、公の場では洋装でも、私的な場では和装で通していました。 天皇が断髪した明治6年、皇后も洋装化に先立ち、眉墨、お歯黒、白粉(おしろい)を止めています。
そして明治19年、天皇がようやく皇后の洋装を許可すると、皇后は洋装で華族女学校に行啓し、翌20年には新年儀式にも洋装大礼服で臨みました。
伊藤はドイツの宮廷侍従であったフォン・モール夫妻を日本に招き、宮中の習俗や儀礼の国際化に取り組みます。 当時、ドイツに注文された皇后の大礼服は総額13万円、かたや総理大臣の年俸は1万円、鹿鳴館の総工費は18万円だったと言います。
費やされた金額の大きさを思えば、皇后の洋装化はまさに、国家事業として行われたことが理解できます。
宮中の西洋化を急ぐ伊藤に対して、むしろモールの方が日本画や和装を好み、皇后や女官の洋装にも反対で、伊藤と対立しています。
モールは、宮中の様子について、次のように記しています。 もともとヨーロッパ人を拘束している宮中の環境は、実は皇后も拘束している。皇后にある程度の自由すらなく、式部官や宮中女官の意のままになられていることが見逃されることはない。このことはおそらく皇后が西洋式の立居振舞に自信がおありにならないことによっても説明できるであろう。 (『ドイツ貴族の明治宮廷記』)
宮中での生活、しかも性急な西洋化が、皇后に負担を強いたことは想像に難くありません。
けれど美子皇后は、その人柄により、多くの人から敬慕される存在でした。 皇后はこよない愛想のよさを高い知性を結びつけられており、皇后すなわち女性の支配者の名のとおり宮中のたましいである。小柄で華奢ながら皇后としての威厳に欠けるところは全くない。純粋に和風の皇后のご教養のほどはおそらくすばらしいものがあろう。おひまなとき皇后は、詩歌、芸術、それに植物のご研究にはげんでおられる。 (『ドイツ貴族の明治宮廷記』
こうした賛辞は外国人に限ったものではありません。
後に、日本初の公害事件とされる足尾銅山事件を告発し、明治天皇に直訴しようとした田中正造も、この式典には栃木県県議会議長として参列していました。
その田中も、美子の姿に圧倒され、皇后あってこそ日本の国は初めて治まる、との思いを抱いたと語っています。
式典を終えた天皇と皇后は、ひとつの馬車に乗り、祝賀パレードに向かいました。
憲法発布の意味も分らず、「年明けには憲法さまのお祭りがあって、その日は天子さまが絹布(けんぷ 憲法)の法被(はっぴ 発布)を下さるそうな」などと喜び騒いでいる者たちも、このふたりの姿に感激しました。
英語教師として来日中だったアリス・ベーコンは、天皇と同乗する皇后の存在こそ、日本女性たちに大きな進歩をもたらすものだと書き留めています。
そして、次のような提言もしています。
天皇のこのような行動は確実に日本女性にとって新しい、より良い時代の到来を示している。妻や母親としての女性の立場が改善され、安定したものにならなければ、西洋文明の持つもっともすばらしく優れた側面に向かって、日本がこのまま進歩していくことはできないだろう。日本の女性がその知性と道徳観にふさわしい立場を家庭で獲得するには、欧米での生活を経験した男性たちが留学から帰国して、法律を改正し、女子教育を充実させると同時に、女性の立場に関する世論を替えていかなければならない。 (『明治日本の女たち』)憲法発布の意味も分らず、「年明けには憲法さまのお祭りがあって、その日は天子さまが絹布(けんぷ 憲法)の法被(はっぴ 発布)を下さるそうな」などと喜び騒いでいる者たちも、このふたりの姿に感激しました。
英語教師として来日中だったアリス・ベーコンは、天皇と同乗する皇后の存在こそ、日本女性たちに大きな進歩をもたらすものだと書き留めています。
そして、次のような提言もしています。
ベーコンは、法整備の重要性を言い、「日本の妻の立場には理論的な問題がある。いまだに与えられていない諸権利を、法律が保障するようになるまで、問題は解決されないだろう」とも指摘しています。 実際、このとき公布された大日本帝国憲法の内容を思えば、ベーコンの指摘の妥当性が理解できます。
大日本帝国憲法はアジアで制定された初めての憲法ですが、女性の地位という点からすれば、男女平等にはほど遠いものでした。
女性には参政権をはじめとする政治的権利は認められず、「家制度」のもと、財産は夫の管理下おかれ、法律上も妻は無能力者とされました。
憲法と並行して作成され、同日に裁定された皇室典範においても、女性による皇位継承は否定され、一夫一婦多妾制も容認されています。
…後略…
(『烈女伝 勇気をくれる明治の8人』榊原千鶴 三弥井書店 平成26年)今朝の父の一枚です(^^)/
十月桜(じゅうがつざくら)
秋から翌春(よくはる)にかけて花を咲かせる。
花弁数が10~20枚の八重咲きのサクラ。
マメザクラとエドヒガンの種間雑種(しゅかんざっしゅ)と考えられ、江戸時代から愛好されてきた。
その咲き方から「冬桜」や「不断桜(ふだんざくら)」と呼ばれることもある。
(『校庭の木・野山の木1 サクラの絵本』勝木俊雄 編 森谷明子 絵 農文協 2015年)