2024年12月2日月曜日

四条~三条へ

今日は、父が会社の創立記念日に出かけたので
私は、京都へ向かいました(^_^)v
大通りは観光客がいっぱいで歩きにくいので
細い裏道?に迷い込みながら目的地へ…
京都は、そんな裏道でも大通りに出ると何処にいるのか見当がつきます。
(記事を追記しました)
  豊臣秀吉の出世守本尊
 三面大黒尊天の由来

 
 東山圓徳院の三面大黒天は、福徳信仰の象徴として豊臣秀吉の念持仏としたといわれる珍しい尊像であります。
 三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像であります。
 大黒天は、いうまでもなく福の神であり、
毘沙門天は、勝利あるいは子宝の神であり、
弁財天は、音楽・知恵・情操等をつかさどる学問・芸術の神であります。
 この開運三面大黒天を信仰されることによって皆様方の家庭益々の隆昌と、ご家族の無事息災を得られることをお祈り致します。

  東山 円徳院

この後、高台寺掌美術館を見学しました。
 臺所門(だいどころもん)

 この坂はねね様の臺所に続く坂道であり、臺所坂(だいどころさか)と言われてきました。
 坂の上にある門が「臺所門」と言われています。
 門をくぐると、料理が上手になると言われ、多くの料理人やかつては花嫁修業の方がここをくぐり、天満宮にお参りをされております。
また飲食関係のお店が繁盛すると伝えられております。
   鷲峰山 髙臺寺
いつも歩く公園は、紅葉が夏枯れですが、やはり京都の紅葉は思わず立ち止まるほどです。 

2019年6月8日に高台寺などを訪ねていますのでよかったらアクセスしてください。
 遺芳庵」は吉野太夫(1606~1643)の遺愛の席ともいわれています。
今回、参考にした本から

 高台寺・円徳院―和尚の留守中に描いちゃいました   
 傘亭・時雨亭は東南アジアのニオイ

赤瀬川原平 今日はお茶室もいろいろ見せてもらったけど、ぼくは吉野太夫(よしのだゆう)の茶室が好きだったなあ。麦藁(むぎわら)帽子みたいな茅葺(かやぶ)きがかわいいというか、アンデルセンの童話に出てくるお菓子という感じだね。

山下裕二 一畳台目(いちじょうだいめ)は座り心地よかったですね。妙にそそられましたね。

赤瀬川 一畳台目壁いっぱいに超デカの丸窓。あれはみごとだった。あの茶室は吉野太夫の旦那のお屋敷があったの移築したということでしたけど、山の上にある傘亭(からかさてい)と時雨亭(しぐれてい)も移築でしたよ。
(『京都、オトナの修学旅行』山下裕二×赤瀬川原平 ちくま文庫 2008年)
臥龍廊は、通ることができません。
 「傘亭・時雨亭は東南アジアのニオイ」つづき

山下 どっちも伏見城からねねが移築させたようですね。傘亭は池のほとりに建っていたから、舟の舳先(へさき)が入るようになってた。

赤瀬川 ぼくは最初に時雨亭を見たとき、何も知らないから、材質感がなくて、舞台装置のような気がした。でも傘亭は池のほとりにあったと聞くと、水面の光の反射が屋根裏の竹垂木(たるき)に映ってきれいだっただろうと思う。職業「知らないこと」でも、ある程度知ってないといけない(笑)。
山下 (笑)いや、イケナくはないけど損する。でも、傘亭と時雨亭を一ヶ所に持って来てつなげちゃうというセンスはなかなかのものですね。

赤瀬川 池のものと丘のものをつなげちゃった。しかも傘亭にひっかけて時雨亭という名前をつけたなんてね。建物としてはどっちも南方系ですよね。柱が四本だけで壁がないんだもの。
山下 ジャワっぽいですね。水木しげるさんの漫画に出てくる、日本軍が占領した南方の島の高床式(たかゆかしき)の家みたい。でも利休は、ルソンとかと貿易をやってた堺の人だから、南方の影響はあったかもしれない。ベトナムには日本人町なんていうのもあったわけだから、建築の情報なんかも入ってきてただろうし。

赤瀬川 ぼくは種子島に行ったときに、そこの博物館で聞いたんだけど、種子島に渡ってきた銃はポルトガル製といわれているけれど、ほんとうはベトナム製だったんですって。ベトナムにポルトガル製の銃をつくる工場があって、それを輸送していた中国船にたまたまポルトガル人が乗ってたらしい。だからあの頃のベトナムあたりは進んでいたんだね。
山下 傘亭と時雨亭は、利休がジャワの民家から思いついた茶室! これまで誰も言っていないのかなあ。

赤瀬川 にじり口のある茶室は韓国の家がヒントになった、とは学者も言ってるけどねえ。

山下 じゃあ、二人で新説を立てますか(笑)。正しいか正しくないかじゃなくて、感じた通り、勝手に言ってみることも大事ですね。なんて、ぼくが言っちゃいけないか(笑)。でも「……と言われています」とか「有名だから見てください」と言われちゃうと、自分なりの想像力がまったく働かないでしょ。
赤瀬川 創造力はいりません、と言われたみたいで。逆に「有名ですから自分の目はもういらないでしょ」って言いたくなっちゃう。

山下 オバサマ方も、ぼくたちみたいに、ヒニクレたり、勝手なことを言いながら見てほしいですよね。
(『京都、オトナの修学旅行』山下裕二×赤瀬川原平 ちくま文庫 2008年)
途中で一人旅?の年配の女性とねね様は、ここを上り下りしておられたのですね
昔の人は健脚ですよねと言葉を交わしました。
月曜日という平日ですが観光客が多かったです。
人が写らないようにと注意するのですが……(^_^;
お抹茶と饅頭をいただきホッとしました(^_^)b
ビタミンCと糖分を補給!
今日は、50mmレンズでメモすることにしました。
体力がなくなってきているのでできるだけ軽くしたい(^^ゞ
圓徳院」や高台寺を訪ねたのは、北政所が1624年に亡くなられて400年になる。

北政所ねね様四百年遠忌 圓徳院特別展

「北政所ねね」と呼ばれていますが実名は
 第一章 藤吉郎との婚姻
   1 北政所の実名
  その名は「おね」 


 豊臣秀吉の正室となり、秀吉の生涯を支え、秀吉の死後は尼となって豊臣家の終焉を見届けた人は「おね」という名であった。
この人の名については、「おねい」「おね」「ね」の諸説がある。
かつては「ねね」といわれていたが、同時代に「ねね」と呼ばれた人が実在したという点からも、「ねね」ではなく、「ね」あるいはその丁寧語の「おね」であったと考えるのがよい。
なぜならこの人が位記(いき)をもらったとき、その位記には「寧子」(「ねいこ」あるいは「やすこ」)とあったからである。
このことからみても、発音は「ね」あるいは「ねい」であり、それに丁寧語としての「お」を冠して、「おね」あるいは「おねい」と呼ばれていたと考えられる。
(『北政所おね 大坂の事は、ことの葉もなし』田畑泰子 ミネルヴァ書房 2007年)
 本人が書状にどのように署名しているか、また、夫である秀吉がこの人をどう呼んだかが、この人の実名を知るには最もよい手がかりになるだろう。
そこで『木下家文書』中のこの人の自筆書状(木下ゑもんの大夫宛)を見ると、「禰」と書かれていることがわかる(『ねねと木下家文書』)。
一方、秀吉の書状を見ると、秀吉が自らを「大かう」と書いた自筆の書状の中で、宛先は「おね」と記している。
太閤晩年の書状においてもこのように「おね」宛であることからみて、秀吉はこの人のことを常に「おね」と呼んでいたことがわかる。
したがって、北政所の実名は「ね」であり、秀吉からは「おね」と呼ばれていたことが判明する。
本書では本名は丁寧語の「お」を付けた「おね」であったとして書き進めていくことにする。
(『北政所おね 大坂の事は、ことの葉もなし』田畑泰子 ミネルヴァ書房 2007年)
係の人に写してもいいですよと教えてもらったので

 木下長嘯子(ちょうしょうし)

木下勝俊(歌人としての名は長嘯子)は、ねね様の甥にあたり、圓徳院を建立した「木下利房」の兄にあたります。
関ヶ原の戦いにおいて、伏見城を現場放棄した為、徳川家康公の怒りを受けた後、武士を外れ、歌人として生活をする様子から、旧来は評価の低い人物でした。
しかし、近代は、松尾芭蕉に大きな影響を与え、「非暴力・不服従の立場をとった」とも評価され、歌人としては「歌仙」と称されています。
新型コロナで京都へきたくてもこれない時期がつづきました。
紅茶とレアチーズケーキの美味しいお店が閉店していました。
 お昼に入ったお店。
有名なラーメン店では、コッテリ味などいろいろラーメンがあるのですが、
どこかなつかしい昔ながらのあっさりした鶏ガラスープ、しょうゆ味
の中華そばが食べたくなります(^_^)v

今回、街歩きに参考にした本が『京都、オトナの修学旅行
2014年版の『でっか字まっぷ 京都』(昭文社)
京都も変わらないようで歩いていると変化が激しいので新しい地図帳がほしいのだけど…
京都といえば「京料理」と言われるのですが、
京都は学生の街でもあります。
学生の懐に優しいお店も多いですよ(^_^)b
三条まできて入ったお店が篠田屋さん。
外で待っている人がいたのですが
大変申し訳ございません 相席はご遠慮いただいております

SNSなどで情報を得ているのかな?
お客さんに外国の方もおられた。
京都は寒いかなと少し着こんだのですが、途中でウィンドブレーカーを脱ぎました。
 旧三条大橋の石柱

 高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は、豊臣秀吉の名により増田長盛が奉行となって、天正18年(1590)正月に日本で初めての石柱橋として架けられたと書かれています。
 この石柱はその時の橋脚に使われたものと考えられ、「天正一七年 津國御影 七月 吉日」と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。
 なお、現在の三条大橋の下流側の橋脚にも当時の石柱が使われています。
  三条小橋商店街振興組合
高台寺から三条にまで足を伸ばしたのはお参りしたいお寺がありました。
 駒姫

この辞世の句を遺した「於伊万(おいま)の前」は、出羽最上家の息女「駒姫さま」として知られる。
事件の直前に東国より京都に到着し、秀次とあうことなく遭難した悲劇の女人である。

 罪なき身を世の曇りにさへられて共に冥途に赴くは
   五常のつみもはらひなんと思いて
              伊満(いま) 十五歳

 つみをきるみだのつるぎにかかる身の
      なにかいつつのさわりあるべき
歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 最上義光」(10月9日放送)
で、駒姫のことが紹介されていました。
秀吉は「晩節を汚す」という言葉そのものだと思う。
 この墓域は慶長16年創建の時に築かれました。
正面三基の墓石は当時のもので、中央正面の古石は秀次公の御首を納めた「中空の石びつ」で、正面右下に<七月十五日>の文字が読めます。
周囲の五輪の石塔は後世に建てられました。
          合掌

瑞泉寺の由来」(慈舟山瑞泉寺<じしゅうざんずいせんじ>

最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】」(最上義光歴史館)
三条大橋 擬宝珠刀傷跡

 三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。
これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
 三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
   三条小橋商店街振興組合
平和でのどかな河原の風景ですが

瑞泉寺緣起
 あわれ三十九霊
  -前関白豊臣秀次公御一族物語-


 いまから約四百年前。ときは文祿四年(1595年)八月二日の昼さがり、京の三条大橋西南の河原で世にも恐ろしい悲劇が演じられた。
太閤秀吉の姉「とも」の子として生れた秀次公は、実子に恵まれなかった秀吉に請われてその養子となり、一時は豊臣を継ぐ関白太政大臣として天下にときめいていた。
だがその日、秀次公の一族すなわち四人の若君と一人の姫君、そして側室として公に仕えた若く美しい女性たち三十四人は、盛夏の熱気去りやらぬ三条河原の刑場に次々と引きだされ、刺され或は首打たれて命を断った。
そのとき加茂の清流は彼女たちの鮮血によって朱に色を変じたという。
 …中略…
 戦国の世には主君に命を捧げて死んでいった子女は数多いが、このように戦いもならず無念の最期をとげた罪なき一族の運命は他に例をみない。
いわんや犬の子をさげるようにして刺し殺されたと云う可憐な五人の関白家の公達と姫君にいたっては、見物につめかけた京洛の町衆も『臓を裂き、魂を痛ましめずということなし』と寺の縁起は書き伝えている。
 この日、全ての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、跡には四角推の大きな塚が築かれた。
そしてその塚の頂上に秀次公の御首を納めた「石びつ」を据え、三条大橋を渡る人々への見せしめとした。
 …後略…

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    kazeさん
    月曜日に東山三条で町歩きをされていたのですね。
    暖かい日よりで良かったです。

    高台寺あたりは、大勢の観光客だったことと思います。
    次回の大河ドラマは、秀次の物語のようです。
    ねねさまもきっと出てこられますね。

    我々も、月曜日に南禅寺から永観堂あたりを通り、哲学の道を歩いてきました。
    永観堂は、すごい観光客でした。(;^ω^)

    レアチーズケーキのお店が閉店されていたようで。。
    残念だったですね。(;'∀')
    また美味しいお店が見つかるといいですね。

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    1. カイさんコメントありがとうございます(^^)/
      カイさんたちは京都で泊りゆっくりと廻られたのですね
      私の場合は、日帰りの京都歩きでしたが紅葉などを楽しめました。
      カイさんが廻られた永観堂は紅葉の名所で観光客が多かったと思います。
      高台寺も大勢の観光客であっちこっちで結婚式の前撮りもされていたようです。
      今の京都は、平日も祝日も関係なく観光客の熱気が凄いです!
      外国から来られた方もネットで様々な情報を得ているようで日本人よりも詳しいかも…
      それでもちょっと道を外すと静かな街歩きがまだまだできます。
      京都の好きなお店もちょこちょこなくなるのは淋しいなと思っています。
      ネットや雑誌の情報に頼らずに気楽なお店に出会えるようにウロウロしたいと思います(^_-)

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