2024年12月17日火曜日

霜が降りていました

今朝は、気温が低くても風がなくて霜が降りていました(初霜?)。
来月、1月7日は震災から30年になります。
福島も原発事故がなければと復興状況が違っていたのに思ってしまう。

震災30年前に神戸大学で展示会 “記憶つないでいきたい”」(兵庫NHK 12月6日)
前回、ヤマトタケルが女装したことを少し書きました。
今日は、男装した女神や皇后について転記したいと思います。

 2 天(あめ)の岩屋

 三人の子どもたちは、父のイザナギノ神の命令にしたがって、それぞれの国を治(おさ)めることになりましたが、いちばん弟のスサノオノ命(みこと)だけは、言いつけを守りませんでした。
海の上を治めるように言われたにもかかわらず、ちっとも仕事をはじめません。
時がたって、もうすっかり大人になり、あごの下のひげが胸まで垂(た)れさがって来ても、地だんだをふんで泣きわめいていました。
その泣き声のはげしいことといったら、青々と草木の茂(しげ)った山が、そのために枯木の山となり、波のさわぐ海や河が、水の一しずくまでかわいてしまうほどのいきおいでした。
国を治める人がこんなありさまですから、悪い神々が、あっちのすみ
、こっちのすみからさわぎ出し、五月のハエがぶんぶんいって湧(わ)き立つような大さわぎになりました。
いろいろなわざわいが、次から次と起こりました。
(『古事記物語』福永武彦 岩波少年文庫 2000年)
  父のイザナギノ神は、この様子を見て心配になり、スサノオノ命に、
 「どんなわけがあって、おまえはわたしの命令に従わないで、地だんだふんで泣いているのか?」と、ききました。
 「わたしは、おかあさんの国がこいしくてなりません。お亡(な)くなりになったおかさんは、地の底の、黄泉(よみ)の国にいらっしゃると聞いています。わたしはその国に行きたくて、こうして泣いているのです。」
 スサノオノ命はこう答えましたが、父の神はたいそう怒って、
 「そんなことを言うのなら、勝手にしなさい。この国に住んではならない」と言って、追いはらってしまいました。
 スサノオノ命は、そこで、
「じゃしかたがありません。おねえさんのアマテラス大御神(おおみかみ)にさよならを言ってから、おかあさんの国へ出かけましょう」と答え、おねえさんの治めている、高天原(たかまのはら)へとのぼって行きました。
 アマテラス大御神のほうは、このしらせを聞くと、たいそうびっくりしました。
なにしろ、乱暴者の弟が次第に近づいてくるにつれて、山も河もごうごうと鳴りひびき、まるで地震のように地面がゆれるさわぎです。
 「弟がわざわざさよならを言いに、高天原までくるというのは、どうもただごととは思われません。海を治めるのでは不足なので、きっとわたしの国をうばい取って、自分で治めようという気もちをかくしているのでしょう。」
 このように考えました。
そこで負けてはいられないので、さっそく男の姿かたちに身じたくをととのえました。
まず髪をほどいて、男のように髪のかたちをゆい、髪にも、左右の手にも、玉のかざりを巻きつけ、背なかと脇とに、たくさんの矢を入れた筒を結び、片手に弓を持って高く空中にさしあげました。
その上で、両足でかわるがわる地面をふみつけ、まるで雪をけちらすように、土をはねかえしながら地面をいきおいよくふみしめました。
そして少しもこわがらずに、乱暴者の弟のくるのを待って、こうたずねました。
 「おまえはどういうわけで、わたしの国へやって来たのです?」

 …後略…

(『古事記物語』福永武彦 岩波少年文庫 2000年)
  巻第九 神功皇后(じんぐうこうごう) 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 
 
神功皇后の熊襲征伐
  
 気長足姫尊は、開化(かいか)天皇の曾孫、気長宿禰王(おきながすくねおおきみ)の女(むすめ)である。
母を葛城高顙媛(かずらきたかぬかひめ)という。
仲哀(ちゅうあい)天皇の二年に皇后となられた。
幼時から聡明で、叡智(えいち)であらせられた。
容貌(ようぼう)もすぐれて美しく、父もいぶかしがられる程であった。
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)
 九年春二月、仲哀天皇が筑紫(つくし)の香椎宮(かしいのみや)で亡くなられた。
皇后は天皇が神のお告げに従わないで、早く亡くなられたことを傷(いた)んで思われるのに、祟(たた)られる神を知って、財宝のある国を求めようとされた。
群臣と百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎宮(いわいのみや)を小山田邑に造らせられた。
 三月一日、皇后は吉日をえらんで斎宮に入り、自ら神主となられた。
武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて琴をひかせ、中臣烏賊津使主(いかつのおみ)をよんで、審神者(さにわ<神託を聞いて意味を解く人>)とされた。
幣帛を数多く積んで、琴の頭部と尾部におき、請(こ)うていわれるのに、「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょう。どうかその御名を知りたいのですが」と申された。
 七日七夜に至って、「伊勢(いせ)の国の度会(わたらい)の県の、五十鈴(いすず)の宮においでになる、名は撞賢木巌之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」と答えられた。
またお尋ねして「この神の他にまだ神がおいでになりますか」といわれると、「形に現れた吾は、尾田の吾田節(あかたふし)の淡郡(あわのこおり)にいる神である」と。
「まだおられますか」というと、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)がある」と。
「まだありますか」というと、「有るか無いか分らない」と。
審神者(さにわ)のいうには、「今答えられないで、また後にいわれることがありますか」と。
答えて「日向国(ひむかのくに)の橘(たちばな)の水底にいて、海藻(かいそう)のように若々しく生命に満ちている神――名は表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)(住吉三神)の神がいる」と。
「まだありますか」と。
「あるかないか分らない」と。
ついにまだ神があるとはいわれなかった。
神の言葉を聞いて教えのままに祀った。
その後吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を遣わして熊襲の国を討たされた。
いくらも経たぬのに自然と服従した。
荷持田村(のとりのたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)という者があり、その人となりは強健(きょうけん)で、翼がありよく高く飛ぶことができる。
皇命に従わず常に人民を掠めている。
十七日に皇后が熊鷲を討とうとして、香椎宮から松峡宮(まつおのみや)に移られた。
そのときつむじ風がにわかに吹いて、御笠が吹きとばされた。
ときの人はそこを名づけて御笠(みかさ)といった。
 二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵をあげて羽白熊鷲(はしろくまわし)を殺した。
そばの人に「熊鷲を取って心安らかになった」といわれた。
それで、そこを名づけて安という。
二十五日、移って山門県(やまとのあがた)にいき、土蜘蛛(つちぐも)――田油津媛(たぶらつひめ)を殺した。田油津媛の兄――夏羽(なつは)が兵を構えて迎えたが、妹の殺されたことを聞いて逃げた。
 夏四月三日、北方の肥前国松浦県(まつうらのあがた)にいき、玉島里(たましまのさと)の小川のほとりで食事をされた。
皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、裳(も)の糸をとって釣糸にし、河の中の石に登って、釣針を垂れて神意をうかがう占いをして、「私は西の方の財(たから)の国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」といわれた。
竿をあげると鮎がかかった。
皇后は「珍しい魚だ」といわれた。
ときの人はそこを名づけて梅豆羅国(めずらのくに)という。
今、松浦というのはなまったものである。
それでその国の女の人は、四月の上旬になるたびに、針を垂れて年魚(あゆ)をとることが今も絶えない。
ただし男は釣っても魚を獲ることができない。
 皇后は神の教えがその通りであることを知られて、さらに神祇を祭り、自ら西方を討とう思われた。
そこで神田を定められた。
那珂川(なかがわ)の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。
迹驚岡(とどろきのおか)に及んで、大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。
皇后は武内宿禰(たけうちのすくね)を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ溝を通すことを求められた。
そのとき急に雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。
時の人はそれを名づけて裂田溝(さくたのうなで)といった。
皇后は香椎宮(かしいのみや)に帰り、髪を解いて海に臨んで、「私は神祇の教えをうけ、皇祖の霊に頼って、青海原を渡り、自ら西方を討とうと思います。それで頭を海水ですすぎますが、もし霊験があるのなら、髪がひとりでに分れて二つになりますように」といわれた。
海にはいってすすがれると、髪はひとりでに分れた。
皇后は分れた髪をそれぞれに結いあげて髻(みずら<束ね髪、男子の髪型)にされた。
群臣に語って、「軍を起こし衆を動かすのは国の大事である。安危(あんき)と成敗(せいばい)はここにかかっている。今討つところがあり、群臣たちにゆだねる。もし失敗すれば罪は群臣たちにある。これははなはだつらいことである。私は女でそのうえ未熟である。けれどもしばらく男の姿にやつして、強いて雄々しい計画を立てよう。上は神祇の霊を蒙(こうむ)り、下は群臣の助けにより、軍を興して高い波を渡り、船団を整えて宝の国に臨む。もし事が成れば、群臣は共に功績があるが、事が成らなかったら、自分ひとりの罪である。すでにこの覚悟があるから皆でよく相談をせよ」といわれた。
群臣はみな、「皇后は天下のために、国家社稷(しゃしょく)を安泰にすることを計っておられます。破れて、罪が臣下に及ぶことはありますまい。慎んで詔を承ります」といった。
(『日本書紀(上)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)
今朝の父の一枚です(^^)/
はじめヒヨドリかなと思ったけどモズを写せて喜んでいました。


モズ 不思議なわすれもの」つづき

カナヘビをたべたあと、
休んでいたモズが
とつぜん草むらへ飛びおりました。
つかまえたカマキリを
えだにつきさします。
モズは、カマキリを
しばらくながめていましたが、
たべずに飛びさってしまいました。
おなかがいっぱいでも、
うごいているものを見ると、
つい、つかまえてしまうようです。
こうしてのこされたものが、
「はやにえ」だったんです。

…つづく…

(『モズ 不思議なわすれもの』島田忠 新日本出版社 2009年)