出かけたときは曇り空
歩いている途中で晴れ間が見られました。
昨日、妹を病院へ送り迎えしていました。
妹に聞くと、待っている間にも子どもを連れたお母さんが次々来院したそうです。
〝大阪でインフルエンザ「注意報レベル」超える 今シーズン初〟(関西NHK 12月12日)今日は13日の金曜日ですが(^_-)
Eテレ0655「おはようソング」や2355「おやすみソング」
「気にしないの助音頭」(作詞:うちのますみ・佐藤雅彦、作曲:近藤研二、うた:近代史ケンジ )の歌詞に
♪13日の金曜日かと 気にしない♪ ここは日本!
(合いの手を入れる黒い鳥をカラスと思っていたけど、羽の先が白い…カササギなんだとか)
「カラス博士の研究余話【第7回】カササギってどんな鳥」(杉田昭栄)
明治時代に西欧化をすすめましたが、
「夫婦同姓」が民法で定められ、「同性愛」に対する偏見や差別も明治時代に始まります。
「同性婚認めないのは憲法違反 福岡高裁 2審での違憲判断は3例目」(NHK)昨夜のSONGS「南こうせつ」
「神田川」♪を久しぶりに聞きました、懐かしい!(^-^)
聞きながら文京区にある永泉寺に山崎富栄さんのお墓をお参りしたときに
神田川が流れていたなと思い出していました。
神田川を上流にゆけば源流の井の頭池。
太宰と山崎富栄が入水した玉川上水も
太宰治の墓がある禅林寺も訪ねました。
永泉寺を訪ねたときは青空が広がっていたのに
翌日、2月3日に玉川上水や太宰治の墓を訪ねたときは大雪でした。
「雨の日も風の日も、雪の日も・・・」(2008年2月3日 新宿御苑 環境省)南こうせつさんが話していたのは
「何か目に見えない不安があるよね。世界中が。
何か目に見えないどう説明していいのかな?
どっかで崩れてきてるというかいろんなところで戦争が起こったり
本当に申し訳ないんですけど能登で大地震が起こったり
う~ん 何だろうっていう感じがします。
それは、それで、現実に起こることだから自分の中で、ふっと、まあ受け止めて
そして、明日から自分は笑顔で生きようっていう
そこがメッセージの始まりの第一歩ですね。
一人一人が、一斉に、みんなでじゃなくて
一人一人が、そこで明日に向かって笑顔で生きよう。
そういうことも含めて、今日は、何か『上を向いて歩こう』、九ちゃんの歌を歌ってみたいと思います」
(阪神・淡路大震災から来年で30年) 「ノーベル平和賞 最年少選考委員長の訴え」(NHK 12月10日)
ヨルゲン・フリードネス委員長
「ノーベル委員会は、世界の安全保障が核抑止力に依存している状況で、私たちの文明が生き残ることができると信じていること自体が甘い考えだと思っています。
核兵器は存在すべきではありません。
すべての政治指導者、特に核保有国には一歩一歩前進する義務があります。
世界の核弾頭を削減し、私たちが抱く『核なき世界』というビジョンに到達するまで必要な措置を取るべきです」前回の記事で引用した
「ノーベル平和賞 授賞式 日本被団協 晩さん会出席」(NHK 12月11日)
田中熙巳さんが
「生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。
さらに日本政府からも見放されました。
被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした」
と語っていました
沈黙を強いられていた被爆者に代わって
広島の惨状を世界にいち早く知らせたのがウィルフレッド・バーチェットです。
その行動に圧力をかけたのが占領軍GHQ
はじめに
あの事件から38年たった今、このようなタイトルで本を書くことは妙なことと思われるかも知れない。
広島でのユニークな体験をもっているのに、なぜ早くそのことを書いておこうとしなかったのかと読者からよくたずねられたものである。
それには多くの理由があった。
その一つには、私が書きはじめてから数日後――あとになった分かったことだが、原爆で跡かたもなくなった広島から私が送った記事は歴史的なものであった――ヨーロッパに配転され、そこからまた国際紛争地点に送られたということがあった。
私が広島にもどったのは、原爆が人類に対して最初に実験として投下されてから四分の一世紀たった1970年のことであった。
(『広島 TODAY』著ウィルフレッド・バーチェット 訳 成田良雄、文京洙 連合出版 1983年) この期間は、核戦争の危険が後退したかにみえた時期であった。
また、私は大きなまちがいをしていたのだが、1945年8月6日に広島で起きたことや、その結果については多くの本が出版され、このテーマについてはあらためて書くことはないと思っていた。
地平線上に核戦争の脅威が広がるに至ってはじめて、私はこれまで一人合点していたことは、実は広島に起きたことの意味を見過ごしていたからではないのかと気付き、ぞっとする思いがした。
そして、広島の問題を全面的に見直さなければならない時だと考えたのである。
本書は、事のはじまりの前から、予想しうる終末まで書かれている。 1970年から82年のあいだ、広島を訪問して生存者の運命を調査し、本書のテーマにかかわるものすべてを研究してきた結論として、私は自分自身が広島の真の意味を少しも理解していなかったことが分かった。
本書には、私自身と同僚の体験、それに私たちの調査ときわめて深いかかわりがあった責任ある米国当局の資料が入っている。 全世界の人びとは40年前に広島で起きたことを今日のこととして知る必要がある。
原爆投下後から1945年末までのあいだに30万市民のうち推定14万人にのぼる人びとが殺されたが、いま私たちはそれと同じ爆発、火災、核放射線による身体の損傷で破滅するかもしれない危機に直面しているからである。 私の広島からの記事は、デイリー・エクスプレス紙(ロンドン)の一面に「世界にたいする警告としてこれを書く」という見出しで特報として大きく扱われた。
破壊力のものすごさからして、広島や長崎を全滅した爆弾が、大きさでビー玉やバレーボール用のボールなどと比較されるような小さなものだとは当時の私には考えもつかないことだった。
もしもビー玉の大きさのものが全市を全滅させられるなら、バレーボール用のボールの大きさのものは国全体を破壊することができるかもしれない。
それらを一緒に使えば、全世界を数回以上破壊できる!
これは大げさな言い方であろうか。
いや決して誇張ではない。
恐るべき現実である。 アメリカのもっとも著名な科学者の一人、(科学問題に関する歴代大統領顧問で、有名なマサチューセッツ工科大学副学長の)ジェローム・ワイスナー博士はレーガン大統領のおこなった1983年3月23日の「スター・ウォー」(宇宙戦争)提案に次のように反対した。
「迎撃ミサイル装置が宇宙で機能するかどうか技術者の多くが疑問をいだいている。もしも、機能したとしても、それがミサイルの飛来を許さない防衛力となると考えるのは希望的観測である。両陣営は1万からそれ以上の核兵器がある。そのうちの90~95パーセントを打ち落とせる防衛システムなどというのは奇跡であり、その上、残った5~10パーセントの核兵器だけでも文明を破壊するには十分であろう……(「ニューヨーク・タイムズ」1983年3月27日)」。
また専門家には今日の核兵器の貯蔵量は世界を13回破壊でき、しかもそれは絶えず増加しているとみている人もいる。 私の「世界への警告」は、第2次世界大戦の最後の数分間に広島で見たことが、第3次世界大戦の最初の数分間における数千の都市の運命になるかも知れないという、ぞっとするような考えにうながされた書かれたものだった。
しかし、脅威がどの程度のものになるかは、誰にも想像がつかない。 当時、私が注意を払わなかった問題が他にもあった。
それは記事を私の新聞社に送りとどけることのむずかしさと、東京の米軍当局から受けた敵対行為にちかい冷たい仕打ちであった。
なぜ私は陸軍病院へ連れて行かれたのか――同僚から引き離すためではなかったのか。
病院から退院させられた時、広島でとった写真の入ったロールごと、コンタックス・カメラが盗まれたのはどうしたわけだったのか。
マッカーサー将軍が、私を日本から追放しようとしたのはなぜか。
当時の私は、こうしたことのほとんどを戦時中の官僚機構のなごりのせいにしていた。
カメラについていうなら、戦争が終わった嬉しさをはじめて全身であらわしている米兵たちが「土産あさり」をして暴れているのだから、それもやむをえないことだ、と思っていた。
だからカメラをなくしたことを報告すらしなかった。 後になって、もっと悪い解釈もなり立つのではないかと考えざるをえなくなった。
つまりそれは、核戦争に関連することは何であれ隠蔽(いんぺい)しろという至上命令の中での一つの出来事ではなかったのかと。
なかでも、原爆投下のもたらした結果についてなるべく小さくみせようとしていた。
隠蔽工作は、原爆が作られる前にも、投下してからも、また本書を書いている時点においても続いている。
ことあるごとに、個人的にもこの隠蔽工作の犠牲になってきたものとして、私は本書の中である長さを使ってこのことにふれた。 もしも、核戦争の危機が、地理的、イデオロギー的、政治的障壁をこえて、世界にこれまでになかった力強い抗議デモを生み出し、われわれの時代の最大の問題になっているとすれば、私の独自の経験にもとづいてこの課題にそれなりの貢献をすることが、私に課せられた義務であろう。
執筆が遅れたことを詫びて。
1983年5月15日 ブルガリア・ソフィアにて
ウィルフレッド・バーチェット
(『広島 TODAY』著:ウィルフレッド・バーチェット、訳:成田良雄・文京洙 連合出版 1983年)今朝の父の一枚です(^^)/
第4章 都市の河川や池の水鳥――カワウ
✤至近距離で観察
ウといえば、長良川の〝鵜飼い〟が有名であるが、日本の鵜飼いではウミウがつかわれている(中国ではカワウ)。
カワウは、大きさや習性などはウミウにそっくりであるが、ウミウはやや緑がかった色彩をし、湖沼(こしょう)や河川、内湾などに生息している。
上野の不忍池にいけば、一年中いつでもカワウが見られる。
初心者でも、写真に撮ることができる。
岸辺から至近距離でじっくりと観察してみると、〝ウの目、タカの目〟といわれるように、実に鋭い目つきをしている。
長くて尖った嘴の先端は、カギ状に下に曲がっていて捕えた魚をひっかけて逃がさない。
のどのところがペリカンのような袋状のふくらみがあり、大きな魚でも丸のみにしてしまう。
また、上野のカワウは、岸辺のフェンスや杭、木の枝、あるいは小島の石の上などに止まって翼を半開きの状態にして日光浴をしていることが多い。
ウは、水鳥なのに、尾脂腺(びしせん 脂を分泌する腺)が発達していないため、羽に脂を塗って水をはじくことができなし。
そのため、濡れた羽を乾かす必要がある。
もっとも、日光浴をしているように見えるのは、実はエサをたっぷり食べて、満足したときにみられる独特のポーズだという説もある。
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)