2024年12月15日日曜日

冷たい風が吹いて

歩いていると風が強くて体温を奪われそうになります…
16日頃には緩むようですが
強い寒気が居座り続けるみたいです

全国的に厳しい冷え込み 日本海側山沿い中心に雪強まるおそれ」(NHK)
 昨日のジョウビタキ♂です。
山のエリアが閉鎖になっているので
野鳥の撮影を諦めて90mmレンズで散歩していますが、
静かに近寄ると中望遠のレンズでも写せました。
ジョウビタキは、町中でも見ることができて
庭にもやってくることがあります。
 ジョウビタキ

…前略…
 市街地の庭先にも姿を現しますが、ジョウビタキを庭に呼ぶためにはその生態に合わせたちょっとした工夫が必要になります。
 その第一は、実のなる木です。
ジョウビタキは10月下旬ごろに日本に渡って来ますが、そのときに、冬を過ごすなわばりを単独で確保しようとします。
越冬のために彼らが必要なのは何を置いても十分な食糧の確保ができる場所。
ということで、彼らの好む実がたくさんある木があればその場所をなわばりにする可能性が高まります。
木の種類はムラサキシキブやピラカンサ、ナンテンなどが好まれます。
次ぎに必要なのは、止まり木。
ジョウビタキは地面にいる昆虫やクモなどを捕らえるときに、適度な高さの棒くいなどから狙いをつけて地上に降りてついばみます。
高さ1mほどの支柱のような止まり木を設置してやるとよいでしょう。
さらに可能なら、生き餌を用意しましょう。
ジョウビタキにとって一番の餌は生きた昆虫です。
木の実を食べ尽くすころにこうした生き餌を地面に置いてやればとても効果的です。
ペットショップで売っているミルワーム(チャイロノゴミムシダマシの幼虫)を利用するといいでしょう。
(『庭で楽しむ野鳥の本』大橋弘一 山と渓谷社 2007年)
同性婚認めないのは “憲法13条違反”初判断 福岡高裁」(NHK 12月13日)
同性婚や夫婦別姓などを認めない方の常套句が「日本の伝統」なんですが
仰る根拠は明治時代にできた民法
元号も「一世一元の制となる」(明治元年〔1868〕9月8日 国立公文書館)
150年ほどの歴史を伝統という?
先の戦争を「応仁の乱」という京都の人から笑われるかもしれません。
まして戦時中は「紀元二千六百年」を祝う行事があったのに!

紀元二千六百年 奉祝会」(NHKアーカイブス 1940年度)
同性愛や女装について正直、心理がわかりませんし、理解できません。
でも、歴史書などを読んでいると日本では特別なことではないと分かります。
例えば、最初に女装した英雄はヤマトタケルノのように思います。
童女の姿に変装し、熊襲(くまそ)の首長の川上梟帥(かわかみたける)が酔いがまわったところで、胸を刺しました。
16歳だということなので美少年だったのだと想像します。
日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「ぶらり日本書紀」県民だより奈良 2019年10月号)

ヤマトタケルと同じ年齢のようですが、
男尊女卑の薩摩藩ではこんな制度があったそうです。
  Ⅱ 日本の性愛文化史――中世から現代へ
 第5章 薩摩藩における男色の系譜
――「兵児二才
(へこにせ)」制と学校文化 
 1 薩摩藩の「兵児ニ才」制


 薩摩藩は、薩摩・大隅の両国に加え日向南西部(鹿児島県全域と宮崎県の一部)を領域とする表高72万9000石の大藩である。
藩主島津家は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向の守護に任ぜられて以来、連綿とこの地を治めていて、他国に見られない特異な制度や習俗が残存していた。
 たとえば、薩摩藩の統治システムは、領内を100以上の「外城(とじょう)=郷(ごう)」に分けて、兵農が一体化した屯田制度だった。
他の地域では、16世紀末~17世紀初頭の豊臣政権~徳川政権初期に進んだ兵農分離が、薩摩藩では徹底していなかった。
したがって、他藩に比べて武士層が厚く、しかも城下町に集住していない中世的な様相を保っていた。
(『歴史の中の多様な「性」日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子 岩波書店 2022年)
 その郷中(ごじゅう)教育のための青少年組織が「兵児ニ才(へこにせ)」組である。
「兵児」は武士層のこと、「二才」は、現代でも「青二才(あおにさい)という言葉が残っているように青年男性のことである。
 この武士層限定の青少年組織は、二才(にせ)と呼ばれる元服してから妻帯するまでの青年と、稚児(ちご)と呼ばれる6、7歳かから14、5歳までの元服前の少年とで構成されていた。
稚児は10歳までを「小(こ)稚児」、それ以上を「長(おさ)稚児」と呼んだ。
二才の年齢は、14、5歳から24、5歳くらいだった。
 鹿児島県南さつま市加世田(かせだ)にある武田神社で毎年の夏祭り(7月23日)に奉納される「士踊(さむれおど)り」は、「日新公(にっしんこう)」(島津忠良、1492~1568)の創始と伝えられ、青年男性による勇壮な「二才踊り」と、少年(現在は小学生男児)による可愛らしい「稚児踊り」が行われる。
二才と稚児、この行事こそ、薩摩藩特有の稚児二才組の名残を今に伝えている。
 しかし、兵児ニ才組が青少年の教育組織として機能していた時代の文献は乏しく、慶長元年(1596)の年紀をもつ、「二才咄(にせばなし)格式定目」からその目的は規約などがうかがえる程度である。
 そうした中、明治以降、急速に解体していった兵児ニ才組の姿を解明し、広く世に知らしめたのが、歴史・神話学者の三品彰英(みしなしょうえい 1902~71)だった。
三品は1934年に鹿児島各地の実地調査を行い、古老からの聞き取りなどから兵児ニ才組の有り様を民俗学的な手法で再現し、兵児ニ才制として位置づけた。
私が兵児二才制を知り関心をもったのも、三品先生の著書によってだった。
 兵児ニ才制にはいくつかの特色がある。
第一に「兵児」と呼ばれるように武士階層の青少年のみによって構成され、有事には即座に戦闘集団に転換する集団だったこと。
第二に男性のみのホモソーシャルな組織であり、強い女性嫌悪(ミソジニー)を伴っていたこと。
そして、第三に郷中の名門の嫡男で10歳から12歳までの、特に美貌の少年を選んで「稚児様」「執持稚児(とりもちちご)」(特別に世話をする稚児)として奉戴し、出水(いずみ)兵児のように執持稚児を藩主に擬して日夜奉仕する習俗を持っていたことである。
 第一の戦闘集団としての性格は、日常から武芸の習練が重視され、遠方の寺社への集団参詣による体力養成など年中行事として行われていたことからうかがえる。
平時の青年組織が有事の戦闘組織に転化する点で、古代ギリシャのスパルタや古代朝鮮・新羅の花郎(ファラン)集団に似ている。
 第二の女性嫌悪については、女性と性的関係をもたないことはもちろん、会話することもタブーとされた。
さらに東郷重資の『薩藩士風考』(1911年〔明治44〕)に、「路上女子ニ逢ハバ穢(けがれ)ノ身ニ及バンコトヲ恐れて途ヲ避ケテ通ル」と記されているように、女性を穢れとみなしていた。
そうした女性を嫌悪する傾向は、他藩の武士階層にもあり、儒教教育に由来するものと考えられるが、薩摩藩のそれはより強烈で、根深いものがあるように思う。
 第三の美貌の少年を選んで擬制主君的に奉仕する形態については、「稚児様」が出かけるときは、美しい振袖を着せて傘を差し掛け(貴人の象徴)、数多くの兵児二才が護衛し、夜はその門に不寝番が立って警護したという記述がある(『薩摩見聞録』)。
また、朝鮮史の研究者である三品は、この点についても新羅の花郎集団との類似性を指摘している。
 さて、私の関心は、兵児二才制が男色行為を伴ったかという点にある。
極端な女性嫌悪・排除の男性集団に男色文化が伴うことは、かなり必然的に想定されるが、確実な文献史料は多いとは言えない。
その中で、江戸時代後期の文人大名松浦静山(まつうらせいざん 1760~1841)の随筆『甲子夜話(かつしやわ)』は、薩摩兵児組の習俗として「婦女を禁るは斯(か)くの如しと雖も、男色を求め、美少年に随従し、殆(ほとん)ど主人の如し」(正編18巻の27)と記している。
同時代のしかも同じ九州の大名(肥前平戸藩主)の記録だけに信憑性が高い。
また、古老の聞き取り調査をした三品は「二才衆と稚児衆との間に男色関係が存在したことはかなり顕著なこと」と語り、男色関係の存在を肯定している。

 …後略…

(『歴史の中の多様な「性」日本とアジア 変幻するセクシュアリティ』三橋順子 岩波書店 2022年)