2024年12月7日土曜日

大雪

冷たい風が吹いていて
雪こそ降らなかったけど真冬になりました。
明日、12月8日はお釈迦さまが悟りを開いた日で「成道会(じょうどうえ)
そして帝国日本が悟りでなく泥沼への道を開いた日(「太平洋戦争」中学)。
これを食べたら体が温まり無病息災だそうです。

千本釈迦堂で師走の伝統行事「大根だき」京都 上京区〟(京都NHK)
今日は

 大雪(だいせつ) 12月7日―12月21日

雪が降り積もる 本格的な冬の到来
人事の「事納め」と神事の「事始め」


 気圧配置が完全な冬型となり、本格的な冬が到来する頃です。
山間部は雪に覆われて白く染まり、日本海側の平野部にも湿った大気の影響で雪が降り積もります。
 年越しという節目が迫るこの時季は、農作業などの人事を終える「事納め」と、神事をして正月に年神様を迎える「事始め」が行われます。
 神事の事始めである「正月事始め」は12月13日。
もともと12月中旬に行われていたそうですが、12月13日が婚礼以外の万事に吉日とされる「鬼宿日(きしゅくにち)」であることから、この日に正月準備を始める風習が定着していきました。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
 正月事始めで最初に行うのは、家の汚れを落す「煤払い」です。
現代における大掃除ですが、当時は「隅々まできれいにすれば、その分だけ年神様がご利益をもたらしてくれる」と考えられ、現代よりも神事の側面が強かったようです。
 また、門松用の松やおせち料理を作るための薪を集めるのもこの日に行われ、これを「松迎え」と呼びます。
これら正月事始めの作業は家長が取り仕切り、かつてこの役割が「年男」と呼ばれていました。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
歴史探偵「美子(はるこ)皇后の明治
番組では美子皇后が洋装をするまでの経過が紹介されていました。

 昭憲皇太后 ◆片野真佐子◆
[しょうけんこうたいごう 1849-1914(嘉永2-大正3,公式には1850-1914)] 
明治天皇皇后美子(はるこ)の(没後に贈られた)称号。
学問を好み聡明なことから皇后位に就き、後宮を改革して天皇を補佐し、教育・文化・社会・外交の各方面に活躍した。
天皇との間に子はなさなかったが、進取の気象に富み、近代的、西洋的男女関係を垂範し、富国強兵、殖産興業という当時の国策の推進を行動規範として、近代皇后としてのあり方を定式化した。

 皇后になるまで (省略)
 
 宮中改革の中で (省略)
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 国民の前へ

 皇后が本格的に国民の前に姿を現したのは73年である。
皇太后夙子(あさこ 孝明天皇皇后、諡号英照<えいしょう>皇太后)とともに群馬県富岡製糸場に行啓し殖産興業を奨励した。
これより前の71年には群馬県の養蚕農家の娘を集めて吹上御苑に蚕室を作った。
76年の東北巡幸からは天皇の送迎も皇后の役目となった。
 他に能楽鑑賞や絵画展などの文化的行事、天皇の遊行などに従い、御所、離宮、学校、皇太后の住む青山御所、臣下の邸などに行啓した。
注目すべきは日本赤十字社総会行啓や東京慈恵医院などへの病院行啓である。
天皇に軍事行幸が多いことを考えると、皇后には性役割として文化・学事・慈善に関わる仕事が課さされたといえよう。
前近代には天皇の権威が宮廷文化の大衆への浸透をもって維持されてきたとする最近の研究(脇田晴子『天皇と中世文化』2003)からすれば、皇后のこの役割は注目に値する。
 しかし皇后は、度々この枠を踏み越え、軍事的な行事にも、天皇とともに、あるいは天皇の代理として行啓した。
79年、皇后は「扶桑(ふそう)」など新造軍艦の見物に出かけた。
81年に横浜からお召し艦「迅鯨(じんげい)」に乗って水雷艇からの水雷発射を視察、86年には病気の天皇に代わって軍艦「武蔵(むさし)」進水式に臨席した。
この年は東京赤羽の近衛諸兵の演習を見るなど陸軍関係へも行啓した。
陸軍を好んだ天皇に対して、海軍を好んだようである。
 天皇の子を生まなかった美子は、侍妾(じしょう)の存在を認めた。
天皇は大正天皇の生母となる柳原愛子(やなぎわらなるこ)をはじめ5人の権典侍(ごんてんじ)との間に5皇子10皇女をもうけ、そのうち1皇子4皇女が成人した。
皇后は、87年に第3皇子の嘉仁(よしひと 後の大正天皇)を「儲君(ちょくん)」(実子とみなして皇位継承者とされる)として、実母のような気遣いを示した。
病みがちの嘉仁の平癒祈願のために日蓮宗に帰依したとする説もある。
4皇女も同様に「儲君」とした。
 いわゆる皇室外交にもその才を発揮した。
80年、初の観菊会に天皇と臨席し、88年に来日したフランス王室一族を欧州諸国におけると同様の礼式で接遇して、皇后の外賓謁見次第が確立された。
立憲的帝室の確立を目指す伊藤博文(いとうひろぶみ)と連携してお雇い外国人から西欧王室事情を熱心に学び、天皇に対する憲法進講に同席して学習した。
 86年、皇后は洋装を用いることとなり、翌87年に初めて洋装の大礼服で新年拝賀を受け、ほどなく女子の洋装を奨励する女子服制の思召書を発した。
以後、公式の場で和装をしなかった。
 89年の憲法発布式典と、94年の銀婚式に当たる大婚25周年祈念式典では、皇后の姿が日本の近代化を象徴すると多くの国民に受けとめられた。
洋装の皇后は天皇と同じ馬車に乗ってパレードした。
その光景は女性の地位の向上を意味するとおおむね好評だった。
これに前後して皇后の誕生日を地久節(ちきゅうせつ)として天長節(てんちょうせつ)と同様に祝うべきだとする世論が登場した。
 日清戦争時、皇后は、広島の大本営に天皇を訪問した。
その際、権典侍を連れる配慮を示した。
異例のことであった。
また陸軍病院など回って負傷兵を慰問した。
日清戦争後は、さすがの皇后も年齢を感じるとする和歌を詠んでいる。
 しかし10年後の日露戦争でも皇后は行動的であった。
天皇が日清戦争の時以上に弱気になったのとは対照的に、勝算なき対露戦に対処するため渡米の密命を受けた金子堅太郎(かねこけんたろう)を訪問しひそかに励ました。
病院訪問や公式行事にも忙しく立ち働いた。
軍事救護にいそしむ愛国婦人会の総会への行啓を日露戦争時以降は通例とした。
坂本竜馬(さかもとりょうま)が日本の海軍を守護すると皇后の夢枕に立ったという話は、日本国中を駆け巡り国民の士気を鼓舞した。
 近代的皇后像

 美子は、一夫一婦多妾制の中で近代皇后としての役割を開拓し、女子教育の振興、慈善事業の発展、産業の奨励、洋装化の推進などの改革を実践して、殖産興業と富国強兵を旗印とする日本の近代化に貢献した。
つづく皇后たちは、この足跡をほぼ踏襲した。
皇后美子には国母(国民の母)という賞賛が国民の中に広がっていった。
天皇の没後、皇太后となり、青山御所に移った美子は、2年後の1914(大正3)年4月11日に天皇の後を追った。
京都の伏見桃山東陵に祀られ、1920年11月に天皇とともに明治神宮に合祀された。
…後略…
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
皇位継承を男子だけに限られているのは、日本の伝統だとする方々は
「一夫一婦多妾制」を念頭に置かれているのでしょうか?
もしくは、天皇制がいずれなくなればいいとお考えなのでしょうか?
古来、日本では女性の天皇が存在します。
江戸時代にも明正天皇(めいしょうてんのう)、後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)がおられる。
日本史上に女性天皇は何人いたか」(レファレンス協同データベース)
今朝の父の一枚です(^^)/
山のエリアは、起伏があったのですが、平坦な道が多いためか
疲れるわりに歩数が上がらないとぼやいていました。
私の場合、今まででしたら6000~7000歩だったのが5000~4000歩と減っています。

 第4章 落ちる、色付く、呼吸する。葉っぱの謎
Q26 樹木によって紅葉の色調が異なるのはどうしてか?
 

 …前略…

 二つの質問のお答えする前に、紅葉の仕組みについて説明しておきましょう。
 葉にはもともと、クロロフィル(緑)とカロテノイド(赤)が含まれていますが、クロロフィルのほうが多いので、通常、葉は緑色に見えます。
クロロフィルは、葉の細胞内の葉緑体の中にあり、太陽光エネルギーを生化学エネルギーに変える働きをしています。
葉緑体はその生化学エネルギーを使って光合成をしています。
 秋になって気温が下がると、葉緑体の働き(光合成活性)が低下し始めます。
光合成活性が低下すると、同じ太陽光の照度でも、強すぎる(光エネルギー過剰)状態になります。
過剰の光エネルギーは葉緑体で活性酸素を生ずるように作用し、これが葉緑体の機能をさらに低下させ、クロロフィルを分解するようになります。
こうして葉は老化していきます。
 葉が老化し始めると、植物は葉を落すために、柄(葉柄)の付け根(基部)に「離層」とよばれる細胞層をつくります。
離層がつくられると、葉と枝を結ぶ通路が遮断され、枝から葉への水の供給はストップするし、葉から枝への養分(糖など)の移動(転流)もできなくなって葉に糖がたまってきます。
このような状態になると、アントシアニンがよくつくられるようになります。
 アントシアニンが何を合図に合成されるのかはまだ明らかにされていませんが、一般に、太陽光が強いとき(晴天)、氷点にはならない程度の低温、そして軽い水不足が合成(紅葉)を促進します。

 …後略…
(『これでナットク! 植物の謎』日本植物生理学会編  ブルバックス 2007年)