2024年12月25日水曜日

12月25日

今朝は、手袋をしていても指先が痛いほど冷たい
それでも風が吹いていなかったので霜が降りていました。
今日は、全国的に晴れ間が続くそうです。
そして3ヵ月予報では

3か月予報 特に1月は寒気の影響 年末年始は積雪 増えるおそれ」(NHK 12月24日)
2355お休みソング「電車の窓」♪が流れる中で

クリスマスに欠かせないのがクリスマスツリー。
そして クリスマスツリーに使われる木といえば
もみの木などの常緑針葉樹です。
これらの木は 厳しい冬でも葉が枯れて落ちることはなく
鮮やかな緑を保ち続ける特徴があります。
そのため ヨーロッパでは古くからこれらの木が
生命の力強さや 永遠希望の象徴として尊ばれてきました。
それが クリスマスのお祝いやお祭りに
使われるようになったともいわれています。

前回、リンドグレーンの絵本『馬小屋のクリスマス』を紹介しましたが、
スウェーデンのクリスマスの特集がありました。
世界はほしいモノにあふれてる「北欧スウェーデンSP 愛しきクリスマスをめぐる旅
を録画して見ているとリースの素材にスギゴケが使われているのに
JUJUさんも鈴木亮平さんも「コケ!?」と声を上げていましたが、私もヘェ~……

JUJU)
「ファミリーとして集って温かい気持ちを通わせあう
 それができる空間って1年に1回あるといいですね。

鈴木)
「(冬が)暗いからこそキャンドルの光を大切にするとか
 家族が集った時にあのキャンドルの空間にいられる
 ぜいたくっていうのは北欧ならでは
 スウェーデンならではのぜいたくなのかもしれないな
12月25日は蕪村忌でもあるのです。
与謝蕪村について

 14 美しくなる女たち――蕪村と春信

 18世紀半ばの日本列島で、身分、職業を問わず、大勢の男たちが博物学や園藝に夢中になり、さまざまの音曲、遊藝、また俳諧や狂歌にうつつをぬかしているとき、そのまわりの女たちはいったいどうしていたのだろう。
――彼女らももちろん遊びもし、働きもした。
そしてなによりも彼女らは美しくなった。
(『文明としての徳川日本 1603-1853年』芳賀徹 筑摩選書 2017年)
 春風駘蕩たる泰平と享楽主義の風潮がひろがるとき、そのなかで、女性がいよいよ艶麗になりかつ上位化の傾向を示すのは、田沼の昔も、大正の御代も、そして21世紀になっても、あまりかわりはない。
杉田玄白が「世の中甚だ華美繁花の最中」といった(『蘭学事始』)、その18世紀日本の「艶なるうたげ」( fêtes galantes )の中心は、実はいうまでもなく女たちだった。
辻善之助博士の著『田沼時代』に引かれている言葉だが、1770年代の日本男子は、ぬけぬけと「女の風俗は天地開けて今程美麗なる事は無し!」と感嘆の叫びをあげ、ためいきさえついていたのである。
 それはしばしば女性美への崇拝(カルト)というのに近いものにまでなることがあった。
たしかに一方では、吉宗の時代には固く禁ぜられていた隠売女(かくしばいた<私娼>)が、吉宗が息をひきとるとともにたちまち復活し、深川も品川も娼窟全盛の様を呈して、下層の武士や町人たちの刹那的享楽の場となり、さらに田沼意次がそれらを各所の売女屋から徴税することをはじめて世人をおどろかす、というようなこともあった。
 それは事実だが(といって、のちに儒教的またピューリタン的な立場からとやかく喧伝されたほど不名誉な「暗黒」の事実とも思われないが)、他方では、当時の吉原の遊女たちが、たとえば「浅黄繻子(しゅす)裏緋ちりめん染めだしの竜田川模様夜具七つふとん」(江戸町扇屋、はな扇)とか、「猩々(しょうじょう)緋、金糸にて紋ちらし惣(そう)模様七つふとん」(同、鳰<にお>てる)とかを使っていたとなると(辻、前掲書)、これは単なる好色史の域をこえて、当時の文化的な嗜好と豪奢を示すひとつの注目すべき現象となってくるだろう。
 事実、彼女らは、よく知られているように、歌舞管弦のみならず書にも和歌にもひとなみすぐれた素養をもち、容姿の端麗にもまして心ばえを誇り、その彼女らの「張り」に対して遊客は千金を投じた上に「粋」をもって応じなければならなかった。
そこに、かつては阿部次郎が『徳川時代の芸術と社会』において分析した文人武士柳沢淇園(きえん)の『ひとりね』以来の独特の恋愛美学が錬磨され、実践されていった。
1770年代、80年代(安永・天明期)に、蔵前の札差を中心にしていわゆる「十八大通」の富豪通人グループが生まれ、彼らと彼女らの凝りに凝った豪華な交際ぶりが世人の目を奪ったことは、あまりにも有名である。
 もちろん、このような高等遊女(ドミ・モンド)たちばかりではなかった。
男たちにあの感嘆の声をあげさせたのは、そして今日のわれわれの想像をも魅するのは、むしろ普通の町の女たちの日常のすがたである。
それはほんとうにはなやかに美しいものであったらしい。
 このころの流行の着物の帯の柄は、たとえば「曙しぼり」とか「壁縮羅(しじら)」とか、その呼び名からして「朗ら細音(ほそね)のうまし名」(上田敏)ともいうべきたぐいものだった。
まるでそのまま蕪村の「曙のむらさきの幕や春の風」の句を思わせるような、清らかな青紫の色をにじませたしぼりの着物。
光のあたり具合で複雑な繊美なあやが浮かびあがる白い絹の帯。
それに普段着の千変万化の格子縞の渋いたのしいこまやかさ、匂いたつような深い、あるいは浅い藍染めの、しゃっきりと身を引きたてるいさぎよさ。
江戸小紋もつぎつぎにこまやかな創意工夫がかさねられ、デザイン王国日本はすでに江戸の女たちの着物や帯や装身具のうちにこそ誕生していた。
 そしてこのような衣服をつけた女たちのヘア・スタイルも年々流行が変っていった。
春信の絵などによくうかがえるように、髪を口では説明のしようのないほど複雑に曲げ、たばね、うしろに長くのばして折った髷(まげ)は、年とともにいっそう長く細くはねあがるかたちになっていった。
その髪に、いろいろ凝った櫛や笄(こうがい)をさしたのである。
あの平賀源内も晩年には「菅原櫛」あるいは「源内櫛」と呼ばれる象牙や銀の細工物のきれいな櫛を売り出して、一かせぎしたことがあった。
 これを要するに、元禄のバロック調の濃厚豪奢な綺麗好みと異なる、ひと言でロココ趣味とでもいうしかないような清雅な好みである。
この時代の文化のほとんどすべての面にあらわれた、ほそやかな、軽快な、優雅な、そしてコケティッシュなスタイルの好尚を、この市井の女たちこそもっとも忠実に体現していたといわねばなるまい。
「其頃の歌に、丁子茶(ちょうじちゃ)と五寸もやうに日傘、朱ぬりの櫛に花のかんざし、とて貴賤口號(くちすさ)みたり。又象牙の櫛笄も流行(はやり)たり。蒔絵なとさせてさしたり。綺麗にてよかりき」と、随筆『賤(しづ)のをだ巻』の著者はなつかしげにこのころの風俗を回想している。
そして私たちもなぜとはなくなつかしく、この時代の哀歓の様を幻のように思いうかべずにはいられないのである。
 そのような女たちのすがたを伝える詩的映像のなかでも――

  にほひある衣(きぬ)も畳まず春の暮
  若竹や橋本の遊女ありやなし

 など蕪村の句は、夕闇の室内に花びらのようにもの憂く脱ぎすてられたままの女の衣や、竹林の奥の若い遊女のあわれになまめかしい姿態を、輪郭もさだかならぬままにあまりに美しわれわれの想像裡に喚びおこすものだとするなら、同じ詩人の新体詩、「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」(安永6年〔1777〕)はどうだろう。
大坂の商家の奉公先から藪入りで、文字どおり春風駘蕩の淀川の毛馬(けま)の長い堤をいそいそと歩いて帰ってゆく若い娘の「嬋娟(せんけん)」たる心とすがたうたわれている。
  春風や堤長うして家遠し

 時は春、心も春、そしてひさしぶりの解放感に娘の心は浮き浮きしている。
ふと土手下の流れには芹摘みにおりよとして、野いばらにせっかくの晴着のすそをひっかけ、ふくらはぎを傷つけられて、「まあ、わたしを通らせたくないっていうの。なんてやきもちやきなんでしょ」(「荊蕀何妬情」)と、その野いばらにむかって言ってみたりするのである。
 そしてまた道をつづけ、立ち寄った茶店の顔見知りの婆さんに自分の内心得意なファッションをほめられて頬を染め、そこにいた男客の視線を感じる。
あたたかい日ざしのなかで、また白や黄のたんぽぽを摘んだりして道草を食い、柳芽ぐむ土手をさらにたどりつづけて、たそがれ近くなってようやくわが家が見え、その戸口に立って自分を待つ老母のすがたを認める。……
「痴情(ちじょう)憐れむべし」と蕪村のいう、このようにコケティッシュな、そしていじらしくもある若い女の姿態を、これほど美しくあざやかにえがいたものは、同時代の西洋の詩でくらべるならば、ゲーテの書いたペルシャ詩、『西東詩集』のなかの「ズライカの巻」の数篇というところだろうか。
これは田沼期日本のロココ文学の珠玉というべき作品であった。
 しかもこれはまったくの空想の所産なのではなかった。
蕪村みずから、門弟あての一書簡(安永6年2月23日)に、自分の故郷(淀川下流の毛馬の堤ぞいの村)を舞台としてこの詩を説いて、「余幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中には、田舎娘の浪速(なにわ)に奉公して、かしこく浪速の時勢粧(はやりすがた)に倣(なら)ひ、髪かたちも妓家の風情をまなび、正伝・しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はじ)いやしむもの有(あり)」というとおり、実際、当時大坂の近郊にいくらでも見かけることのできた風俗を写していたのである。
この詩中の藪入りの娘も、「春情まなび得たり浪速風流(ぶり)」で、今日の女性週刊誌の読者とまったく同じく俳優や歌手の色恋沙汰に一喜一憂し、そのタレントたちにあこがれて田舎のやぼったい身内をなんとなく馬鹿にしながらも、やはりふるさとはなつかしく、誰かのはやり唄を口ずさみながら、帰郷していったのにちがいない。
  いまなおお盆や歳末などにかけて街頭駅頭に多く見かける光景であり、永遠にかわらぬ愛すべき軽佻な娘ごころというものだろう。
ただ蕪村の藪入りの娘は、ほっそりとしたからだにあの曙しぼりと似たような好みの着物を着、「朱ぬりの櫛に花のかんざし」をさし、楚々として春日の道をたどっていった。
彼女の方が21世紀の初めのOLたちよりもはるかに優雅だったように思われる。

 …後略…

(『文明としての徳川日本 1603-1853年』芳賀徹 筑摩選書 2017年)