2024年11月29日金曜日

白い息が見えた…

今朝は白い息が見えるほど冷え込みました。
大阪もインフルエンザの流行期になり
さらにマイコプラズマ肺炎の患者も過去最多のペースで増えているそうです。
小さなお子さんがいる親は心配だと思います。

インフルエンザ流行期 マイコプラズマ肺炎にも注意 大阪」(関西NHK)
瀬戸内寂聴さんの初めて活字になった小説『青い花』。
『少女世界』(富国出版社 昭和25年12月号)に発表されています。
敗戦からまだ5年という時代なので、バラックに住む兄妹が登場しますし、
親友が、現在では、死亡することはほとんどない病気で亡くなっています。
作品を書いた当時のことについて瀬戸内さんが書かれているので転記しますφ(.. )
 少女小説とわたし

 少女小説を読みはじめたのは、小学校二年生の頃だった。
二人姉妹の姉が五歳年長だったので、私は小学校に上がる前から姉の読む少女雑誌や小説本を読みあさっていた。
幼年時の私は滲出性体質で、年中、体が痒く、ふき出ものに悩まされていた。
頭や顔まで出るふき出ものをひっかかないため、薬をつけられ、ほうたいに包まれていたので、友だちが遊んでくれなかった。
そのため姉の本を早くから読み、一人遊びをするようになった。
読んで面白いのは少女小説だった。
当時の少女雑誌では吉屋信子や佐藤紅緑(佐藤愛子さんのお父さま)の少女小説が人気を呼んでいた。
今、九十五歳の私が、吉屋信子の「花物語」や佐藤紅緑の「夾竹桃の花咲けば」などを覚えているのも不思議なことだ。
小学校三年生の頃、私は大人になったら、少女小説を書く作家になろうと心の底に決めていた。
外国の翻訳小説の名作を岩波文庫で読むようになっても、日本の少女小説を愛読しつづけていた。
(『青い花 瀬戸内寂聴少女小説集』瀬戸内寂聴 小学館 2017年)
 女学校の頃、川端康成の「乙女の港」が少女雑誌『少女の友』に連載され、少女たちが夢中になって愛読した。
女学生のエス物語だが、さし絵が昭和の夢二と呼ばれた中原淳一だったのと相まって人気を高めていた。
後になって、その作品は中里恒子の作だと定評されている。
当時、若い中里恒子は川端康成に師事していたので、川端が中里に草稿を書かせ、それを校閲、加筆、手直ししたものと現在では認められている。
 この他に中里は少女小説を書いていない。
 川端康成の大人向けの小説にも、ロマンチックな純愛や、夢のような筋書のものもあり、少女小説も愉しんで書いていたことが想像される。
代表作の一つである「伊豆の踊子」も一高生が旅廻りの踊り子に惹かれる話で、少女小説めいたロマンスである。
 私は大人になって小説を書くようになり、吉屋信子とも川端康成とも親しくさせていただいたが、お二人とも心のあたたかな、清らかな少女小説の中の人物のような点が同じであった。
 私が少女小説をはじめて書きはじめたのは、優しい夫と幼い可愛い娘のいるおだやかな家庭を飛びだし、京都で放浪している時であった。
食べるためにしがみついていた小さな出版社がつぶれ、京大の付属病院の研究室に就職して、毎日試験管を洗ったり、ラッテの世話をしていた時、突然、図書室に移るように命令が出た。
広い図書室には莫大な図書があったが、すべて医学書で、しかもドイツ語の本が多く、本を借りにくる人も殆どなく、私は一日中手持無沙汰であった。
 そこで私は、閑つぶしに少女小説を書き、本屋の立ち読みで目についた『少女世界』という雑誌を出版している会社の送りこんでみた。
また画家の中原淳一が社長の「ひまわり社」が懸賞小説を募集しているのを本屋の立ち読みで発見し、そこにも送りこんでみた。
 その頃、私は閑にまかせて、思いつきで三島由紀夫にファンレターを送ったりした。
どうせ読まれもしないだろうと、のんきな手紙を出したところ、思いがけなく、三島由紀夫自筆の返事が返ってきた。
大きな字で爽やか筆勢の三島由紀夫というペン字を見て、私は舞い上ってしまった。
中には、
「私はファンレターには一切返事を書かない主義にしているが、あなたの手紙は、あまりに面白かったので、つい返事を書いてしまった」
 とあった。
それから文通がはじまった。
私は身の廻りの出来事しか書くことがなかったが、三島由紀夫は、なぜかそれを毎度面白がってくれた。
 そのうち、私の少女小説が採用され、はじめて『少女世界』という雑誌に載ることになった。
原稿は本名で送ったが、雑誌に載る時はペンネームにしたいので、次に書いた五つの名の中から一つだけ選んで、その名の上に○をつけて下さいという手紙を三島由紀夫に出した。
すぐ三島が太いペン字で○をつけた私の手紙の一枚を送り返してくれた。
○の下は三谷晴美だった。
「この名前こそ、文運、金運を呼ぶいい名だ」と書いてくれていた。
これは私の生れた時の戸籍名で、小学校の六年はこの姓名で通した。
父が親戚の瀬戸内姓を継ぐことになったので、私は女学校に上った時から瀬戸内晴美になった。
もちろん、三島さんはそんことは一切知らないで○をつけてくれたのだった。
それで私のはじめての少女小説「青い花」は作者三谷晴美で活字になった。
 その報告のお礼の手紙の返事に、
「そういう時は名付親に、お礼の品を贈るのが礼儀ですよ」
 とあった。
私は散々考えた末、何かで読んだ彼の好物というピースの缶入を五箱贈った。
早速、三島由紀夫からお礼状が来た。
「何よりの好物ありがとう。でも、これは世間にはナイショに願います」
 と、いつもの堂々とした字のはがきだった。
 それから半年ほど後、私は京都を引き上げ上京して、作家修業の道に入った。
三島宅にも呼ばれ、以後、亡くなるまで淡々としたつきあいが続いた。
 大人の小説をはじめて送った時、三島さんは、
「あなたの手紙はあんなに面白いのに、小説は何と平凡でつまらないのだろう」
 と、例の大きな爽やかな字の手紙をくれた。
 京都に来た小学館の重役の浅野次郎さんが、私を呼びだし、
「本気で小説を書くつもりなら、京都のようなのんびりした所にいては一人前になれない。すぐ上京して、苦労するように。あなたには才能を認めるから、上京をすすめるのです」
 と強い口調で言われた。
初対面の浅野さんの口調に背中を押され、私はたちまち、何のあてもなく上京した。
 女学校時代の友人の嫁いでいた三鷹に行き、彼女の新婚の家に四、五日置いてもらい、すぐ三鷹下連雀の荒物屋の離れを見つけて、その下田家(しもだけ)に引越した。
 どこの家庭でも必要な雑貨や、子供用の駄菓子が店一杯に並び、その片隅で往来に面して煙草の旗を出している店だった。
家長のシュンさんは車の運転手をしていた夫に先だたれ、長男一家と、未婚の末娘のサッちゃんとで住んでいた。
私の離れは床の間つきの六畳だが、坊主畳のせいか、八畳くらいに広々と見えた。
 吉祥寺の古道具屋で大きな机を買って運んでもらった。
もとは高机だったのを脚を切ったというものだが、外国人が使っていたのか、ばかでかくて、がっちりしているのが頼もしい。
 部屋の真中に机を据えると、急に気持が落ちついてくる。
店から木の空箱を四つほどもらい、つみかさねて本箱にする。
窓のカーテンだけは新しく買ってつけ更えると、自分の部屋らしくなった。
 この部屋から、毎日電車で水道橋までゆき小学館へ通うにようになった。
幼稚園児から女学生向きまで学年制の雑誌を出している小学館は、現在のような近代的ビルの建物ではなく、木造の、田舎の小学校のような構えであった。
広い編集室に、学年別に編集者が机を並べている。
私はその机を、
「仕事ありませんか、あったら下さい」
 と御用聞きのように一つづつ廻った。
そのうち、私が便利で筆の速い筆者だとわかってきて、仕事が手に余るほど集った。
すべて三谷晴美のペンネームで、それらをこなした。
こういう雑誌は、先に絵があって、文字はそのすき間を埋めるものが多かった。
私は正確にその空間を埋める技術を持つようになり、重宝がられた。
 私の小説を小学館より先に認めてくれた『少女世界』は、社名も少女世界社であった。
靖国神社に近いはるかに富士の見える富士見町という所にある小さな社で、社長は講談社出身の人で、社員は数人だった。
社長の木村さんは青森生まれの人で、温和な雰囲気のおしゃれな人だった、独立して会社をつくるほどの気概のある人だった。
社員もよくなつき、いつ行ってもみんなで優しく迎えてくれた。
 木村さんは、ある日、私に真面目な口調で言った。
「文学で身を立てるのは並大抵じゃない。あなたは女子大も出て、中学の先生の資格も持っているのだから、中学校の先生になって、傍ら小説の修業をしていけばどうだろう」
 と忠告してくれた。
尤もだと思い、私はその言に従うことにした。
先ず、東京の中学の先生になる資格試験を受けねばならない。
 試験場に行くと、予想をはるかに超えた受験生が集っている。
その列にもぐりこんだものの、試験なんて女子大以来受けたことがないので、全く見当もつかない。
長蛇の列の中で、長い時間待たされる間、私は自分の前後の学生風の男の人が熱心に見ている試験問題集を覗きこみ、そこに出ている答案を盗み読みした。
何という運の強さか、試験問題の中に二つとも私の盗み見した問題が並んでいた。
 おかげで私はこの試験に難なく通った。
木村さんは喜んで早速私の勤め先を探してきてくれた。
東京でも有名な格式のある中学校だった。
 その日から三日間、私は迷い、考え尽くした。
私は勝手でわがまま、いい加減な人間に見られるが、本質は、まじめでかたくなで、筋を通したがる。
申し分のない立派な中学の先生になったら、私は生徒を愛し、いい先生になるため全力を尽くすようになるであろう。
そうすれば小説修業はおろそかにならざるを得ない。
それは困る。
何が何でも、私は小説家にならないと、捨ててきた子供に申しわけがない。
恥をかかした子供の父にも顔向けできない。
思い悩んだ末、私は木村さんに、中学の先生にならないと断りを言った。
木村さんはさすがに顔色を変えたが、
「そこまで決意がかたいなら……止めることができない」
 とあきらめてくれた。
 それから程なく「少女世界社」は破産して会社は倒れてしまった。
そのことがわかっていたからこそ、木村さんは私の前途の立ちゆくよう骨を折ってくれたのであろう。
「青い花」は、私のはじめての少女小説だが、『少女世界』と木村さんという恩人なくしては生まれなかった小説であった。
 こののち、講談社でも、少女小説を書かせてくれるようになり、一枚三千円の原稿料で、私はサラリーマン程の生活を稼ぎながら、究極の目的の大人の小説を書くべき努力を、ひそかにつづけていた。

少女世界社 雑誌『少女世界』は、「青い花」掲載時には富国出版社から発行されていたが、のちに少女世界社に移った。
(『青い花 瀬戸内寂聴少女小説集』瀬戸内寂聴 小学館 2017年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 第1章 自分のからだは、自分で守る
 (2)食べられたくない!
 トゲでからだを守る植物たちは〝すごい〟


「美しいものには、トゲがある」といわれます。
これは、バラの美しく目立つ花と鋭いトゲを意識したものです。
しかし、バラほど美しくない花を咲かせる植物でも、葉や茎にトゲをもつ植物は、意外と多くあります。
トゲは植物たちがからだを守る武器の一つになるからです。
つまり、「美しくなくとも、トゲはある」のです。
 オナモミ、オジギソウ、アロエ、サボテン、ワルナスビ、ピラカンサなどはトゲをもつ植物たちの代表です。
「これらの植物たちが、美しくない」というつもりはありません。
それぞれに美しいものです。
ただ、これらの植物は、バラの花のように美しいたとえには用いられません。
「トゲ」は、植物のからだにある針状の突起物です。
トゲには、バラやサンショウのように、表皮が変形したものや、ボケのように、茎や枝が変形したものがあります。
それに対し、サボテンのトゲは、葉が変化したものです。
 これらのトゲの鋭利な先端をよく観察すれば、あるいは、実際にトゲが刺さって痛かった経験を思い出せば、「動物がこれらを食べると、さぞ痛いだろう」と容易に想像できます。
ですから、植物たちが鋭いトゲをもつ意味は「動物に食べられることから、からだを守るためである」ことは、よく理解できます。
 …後略…
『植物はすごい 生き残りをかけたしくみと工夫』田中修 中公新書 2012年)
午後から心臓リハビリで通院。
待っている時間などに読んでいたのが暉峻淑子(てるおかいつこ)さんの『サンタクロースを探し求めて

12月の100分de名著は、名著145「有吉佐和子スペシャル
この番組には取り上げられていませんが
有吉佐和子の『有田川』は暉峻さんの祖母の生家をモデルにしたものだそうです。
暉峻さんの本は、人前で読むものではないなと思いました。
読み始めると目頭が熱くなりました。

心臓リハビリはトレッドミルを30分間。
歩行距離は、1.84km。
消費カロリーは114kcalでした。
酸素飽和濃度98%くらいで、脈拍は120前後でした。
私の万歩計では3285歩になっていました。