2024年11月21日木曜日

寒さがやわらぎ

今朝は、穏やかな朝で寒さも少しやわらいでいました。
このような穏やかな日和を「小春日和」というのかな?
迎春の準備が始まっているようです。

熊野那智大社 へびが描かれた新年の縁起物の色紙づくり」(和歌山NHK 11月20日)
ピラカンサの実を丸飲みしているのはメジロ(今日も写していますが、昨日の画像です)
兵庫県の知事選挙の結果は、
アメリカの大統領選挙を見ているとありうるなぁと思っていました。
だれかが発信した情報を鵜呑みにしたのではないでしょうか?
SNSの投稿で「加害者」が「被害者」に変わってしまったようですね。
死を選んだ方への配慮はないのでしょうか?
遺族の方はどう受けとめているのでしょうか!

物事を判断するときには、「反復」と「対比」が必要だと思います。
アメリカの大統領選挙のようにウソでも繰り返し(反復)流されると真実だと思う人が出てくる。
今のネット上では、自分の興味ある情報が繰り返し閲覧されるようになり
他の情報と比較検討(対比)することがなくなっているようです。
選挙後、すぐに寝返る人を見ていると
戦時中、鬼畜米英と叫んでいたのが、敗戦後はアメリカさまさまになる姿や
尊皇攘夷と命懸けで闘っていたはずの武士が、
文明開化といって日本の伝統文化を否定する姿に重なります。
今の政治家の中には明治維新からを「日本の伝統」と主張する人たちがいる。
一方、命懸けで真実を伝えようとする人たちがいる

3日に1人 ジャーナリストが死ぬ場所」(NHK 11月20日)
SNSにドラマを見て「もう見るのをやめる」と
子どもがダダをこねるような書き込みをする人がいますが

 枝葉の魅力

 日本のテレビドラマは、いま全体に視聴率がさがっていて、関係者はいろいろ苦い思いをしている。
私のその一人で責任もあるのだが、自分のことは棚にあげて、出逢(であ)っている問題の中から二つのことを書いてみる。
(『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年』山田太一 河出文庫 2015年)
 一つは「速度」である。
ドラマの進行速度が、画一化して来ている。
刑事ものには、刑事ものの速度があり、どの刑事ものも物語の進行のスピードが似ているのである。
それは歴史もの、ホームドラマ、学園もの、長時間ドラマ、どれをとっても共通の現象である。
そしてその速度の内容は「枝葉を切って出来るだけ早く」というようなものだ。
いうまでもなくそれは、早く物語が進行しないと、スイッチを切られてしまうという恐怖に根ざしている。
しかし、私見によれば、テレビドラマの魅力のひとつは「枝葉」や「モタモタした進行」にあるのであり、演劇も映画もとりあげない「深い意味をつけようもないつまらない細部を拾って行く」ところにある。
 しかしいまは多く「面白い物語」が主役である。
そしてその無駄のない進行に「積極的」に関わる人物の「枝葉を切った行動」のみが描かれる。
立ち止まっている暇はない。
無論、そういうドラマの魅力を私は否定しないが、それによって全体が律せられていいはずがない。
いかにストーリー、素材、解釈その他がちがっていても、進行速度、枝葉の切り方が似ているため、同じ水位の現実しかとらえることが出来ず、どれも似たような印象をあたえてしまう。
速度の多様化を許すプロデューサーは、いないとはわないが、ごく小数である。
そして彼らの、その点における「冒険」は、到底周囲に支持されているとはいえない。
 二つめは、プロデューサー、ディレクター諸兄の頭のよさである。
私は勝手に、テレビ局の入社試験が難しく「勉強の出来る人」しか入れなかったせいだ、と思っているが、彼らはライターの無意識な筆の走りに多く冷淡である。
 ある場面とある場面の間に、何故(なぜ)こんな余計な場面が入ってくるのか。
この場面が入ってくるために、ドラマの流れが止まり、明快度もそこなわれ、人物も曖昧(あいまい)になるではないか、と論理的につめ寄られると、当方は論理的な反論が出来ず、その場面のカットを承諾する、というようなことがある。
その結果、たしかにドラマは流れ、分りやすくなり、人物は曖昧でなくなるのだが、なにやら「よくあるドラマ」と似て来てしまうのだ。
 しかも、彼らは無理解なのではない。
ライターの「無意識」「暗部」「曖昧」を個人的には、よく理解しているし、面白さも分っている。
しかし、そうしたのものを、「大衆」は受け入れない、というのが基本姿勢である。
自分が見たくなるドラマを書くという方法でしか書きようがないライターとしては、気の重いことである。
 私はテレビドラマが好きなんだが、時折なんともいえなぬ閉塞感(へいそくかん)にとらわれ、奇声をあげて走り出したくなってしまう。
  ――「中央公論」1980年12月号――
(『その時あの時の今 私記テレビドラマ50年』山田太一 河出文庫 2015年)
谷川俊太郎さんが亡くなられました。
詩人の谷川俊太郎さん死去「二十億光年の孤独」「生きる」など〟(NHK 11月19日)
河合隼雄さんが谷川俊太郎さんの詩を解釈されています。
その中から

 宿 題

目をつぶつていると
神様が見えた

うす目をあいたら
神様は見えなくなつた

はつきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題
     (『二十億光年の孤独』)
(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』河合隼雄、谷川俊太郎 講談社α文庫 1993年)
▼解釈――内向と外向

 この詩は、谷川さんの内向と外向に対する姿勢を大変よく表わしているものと思われます。
目をあけると外界が見え、つぶると見えなくなるのはあたりまえのことですが、逆に考えれば、目をつぶったときには内界が見えるわけです。
ですから、目をつぶったときに神様が見えるというのも、いわば当然のことでしょう。
 しかしこの詩では「はつきりと目をあいて/神様は見えるか見えないか/それが宿題」であるのですから、そこが非常によく谷川さん自身の問題意識を表わしているという気がします。
 つまり内界だけでなく、外界を探究していくことによっても神が見えるのではないか。
言い換えれば〝外向的な神〟も存在するのではないか、と谷川さんが考えているように思います。
 この詩は十代のころの作品だそうですが、いかにも若者らしい自己肯定感を外界にずっと拡大していくことによって神様が見えるかもしれない、しかしそれは宿題であるというイメージは、内界にのみ神を求めようとする傾向の強い日本人には珍しい感受性だと言えるのではないでしょうか。
(『魂にメスはいらない ユング心理学講義』河合隼雄、谷川俊太郎 講談社α文庫 1993年)
今朝の父の一枚です(^^)/
後ろに影のように映っているのはあべのハルカス方面のビルのようです。
鳥たちが食べ物を丸飲みするのは進化の過程の一つです。
一方、情報を鵜呑みにするのは進化と言えるのでしょうか。

質問79 鳥の口はどのようになっていますか?

[回答] おおまかにいって哺乳類のくちびるにあたるのが鳥のくちばしです。
かたく、乾いたくちばしには歯がありません。
歯に代るものは食物を砕く強力な砂のう(嚢)です。
砂のうは鳥の体の重心近くに位置しています。
 歯のないことは、がんじょうな顎(あご)や顎を動かす筋肉を不必要にしました。
このことは鳥の頭部を軽くすることになり飛翔への適応をすすめました。
ハトの頭骨は体重のわずか0.2パーセントにすぎません。
この比はほとんどの飛ぶ鳥に認められます。
 鳥の口の中では唾液腺、粘液腺それに味を感じる味蕾(みらい)は大部分欠如しています。
例外的に粘着性の唾液腺を舌の上に持っている鳥が昆虫食のキツツキです。
キツツキは餌の昆虫を集めるのにこの唾液を用い、消化には使いません。
ある種のアマツバメの巣は唾液を利用してつくられることが知られています。
 舌は鳥の種によって、それぞれの鳥が求める食物に応じて特殊化しています。
哺乳類の種の間で見られる以上に、鳥の舌は多様性を持っています。 
(『鳥についての300の質問 君が知りたいすべてに答える』A.クリュックシァンク H.クリュックシァンク著 青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 1982年)