2024年11月3日日曜日

11月3日

昨日は、歩いているときは小雨だったのでよかったのですが
午後から大雨や洪水、竜巻の警報や注意報がメールで届きました。
今朝は、青空で公園には大勢の来園者でにぎやかでした。
文化の日は“晴れの特異日”とも言われていますね(^_-)

昨日のニュース
近畿地方 雨のピーク過ぎるも河川の増水や土砂災害に警戒を」(関西NHK 11月2日)
 「文化の日」は11月3日で移動しませんね(^_-)
日にちは移動しませんが、名称は変更されています
父の時代は「明治節」、明治時代は「天長節」でした。

 明治天皇  
  ◆原武史◆

[めいじてんのう 1852-1912(嘉永5-明治45)]
名は睦仁(むつひと)。幼名は祐宮(さちのみや)
第122代の天皇とされる。
孝明天皇の第2皇子で、母は側室の中山慶子(なかやまよしこ)
在位期間は1867年から1912年まで。
一条美子(いちじょうはるこ)(後の昭憲<しょうけん>皇太后)と結婚したが、数名の側室がおり、親王、内親王はすべて側室から生まれた。
大正天皇は第3皇子に当たる。
陵は京都市伏見区の伏見桃山陵にあり、20年には東京にこの天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮が建てられた。
戦前までは、わずか一代で日本を「一等国」にした天皇として称えられ、「明治大帝」と呼ばれた。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
 父親から教え込まれた和歌

 明治天皇は1852年11月3日、つまり嘉永5年9月22日に、京都の外祖父、中山忠能(なかやまただやす)邸で生まれ、祐宮と命名された。
祐宮は、里子に預ける皇室の慣習に従い、満4歳まで中山邸で育てられたが、54年に御所が焼けたことにより、父親の孝明天皇に会えるようになる。
その2年後には、内裏に移って孝明天皇から直接和歌の手ほどきを受けた。
睦仁という名は、60年に「儲君(ちょくん)」、つまり孝明天皇の准后(じゅごう)(後の英照<えいしょう>皇太后)の実子と定められ、親王となった時に付けられたものである。
 明治天皇の御製は、生涯で9万3032首にのぼるといわれるが、その基礎を作ったのは孝明天皇だった。
孝明天皇自らが、祐宮に歌題を出し、添削したからである。
後に明治天皇は、極端な攘夷論者で感情の起伏の激しい父親とは、全く対照的な性格の持ち主となるが、父親からの和歌だけは忠実に受け継ぎ、唯一の感情のはけ口とした。
折々の感情を三十一文字に凝縮させる技術を、幼少期から磨いたのである。
祐宮は幕末の動乱期を、まだ京都に残っていた宮廷文化の空気を十分に吸って育ち、東京に移ってからも、京都に強い愛着をもち続けた。
(『岩波 天皇・皇室辞典』原武史・吉田裕編集 岩波書店 2005年)
皇居で文化勲章の親授式 ちばてつやさんら7人に」(NHK)
文化勲章が授与されていますが

昭和24年(1949)に湯川秀樹氏が本人初のノーベル賞を受賞しています。
湯川博士にノーベル賞」(NHKアーカイブス 1949年)

昭和21年(1946)には日本国憲法が公布されました(1947年5月3日 日本国憲法施行)。
主権、国民の手に 新憲法公布」(NHKアーカイブス 1946年)
11月3日 昭和4年(1929) 朝鮮全羅南道光州(ぜんらなんどうこうしゅう)の学生ら、日本人学生の非行およびそれを支持する警察・新聞に対してデモ、学生運動、朝鮮全土に波及(光州学生事件)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
 第5章 11月3日の衝突と示威行進
 5章―1 光州駅前の乱闘
 11月3日 祝典に湧く光州面


 11月3日午前6時、まだ明けやらぬ光州の空に花火が打ち上げられた。
この日は明治節、気温は低かったが菊薫り、雲一つない秋日和であったという記録がある。
 光州神社前の広場では、養蚕関係来賓が招待され、蚕糸会主催の「全南産繭六万石突破祝賀会」が午前10時30分より開催された。
祝典は知事、朝鮮農業会会頭、総督府殖産局長の祝辞にはじまり、養蚕功労賞授与、祝電披露などがあり無事閉会した。
続いて祝賀の宴に移り、春の家、北村楼の芸者の踊り、金瑞圭知事の万歳三唱の後、餅撒きをもって散会した。 
(『若き抗日の群像』佐堀伸三 文芸社 2000年)
 午後1時には飛行機が光州の空を旋回して祝賀ビラを撒き、増産された繭を紡ぐ道是製糸(1926年5月設立、日本棉花(株)系列の製糸会社、資本金200万円)の女子工員が、旗行列に繰り出した。
市内五ヶ所には歓迎門が設けられ、各戸に日の丸の旗と提灯が吊され、午後6時からは光南館にて活動写真が映写される予定で、町は慶祝気分で横溢する筈であった。
 さらにこの日は旧暦の10月3日、壇君神話における建国記念日「開天節」であった。
光州高等普通の生徒は日曜日に明治節を祝う式典に登校を強要され、一層不愉快であった。
式が始まっても君が代を唄う者はなく、光州神社への自由参拝に参加する者は誰ひとりいなかった。
 事件の挑発

 学校当局はここ一両日中の光州中学と光州高等普通の生徒の険悪な雰囲気を憂慮し、神社参拝については必ずグループを組むように指示し、教師も市内を巡視するなど警戒を固めた。
しかし、事態は警察あるいは学校の観測より遥かに急迫していた。
10月30日の羅州駅頭での事件以来、紛争に関する情報は逐一秘密結社「読書会」へ報告され、明治節と産繭祝賀会が重なる11月3日、恒例により光州神社へ参詣する日本人生徒を挑発し、騒擾事件を引き起こす作戦が立案済みであった。
 光州高等普通の学生たちは明治節の式典終了後、光州面の中心部、光州警察署の西側にあった光州日報社を襲撃した。
同日報の主筆の鹿野は、息子の一郎が光州中学3年生に在学中であったせいか、羅州駅頭の事件以来高等普通側を一方的に批判して偏向的な報道を続け、10月31日には、同社の記者・深川覚が通学列車の中で、「光州高普の学生に非がある」とののしり朴準埰らを非難するなど、許すべからざる存在であった。
 当時学生たちが認識していたか否かは不明だが、同日報は木浦新聞と共に、有名な道当局の御用新聞であった。
光州学生運動の前年の1928年3月、全羅南道評議会(斉藤総督時代に設置された道知事の諮問機関)の山野議員が朝鮮人を軽蔑する発言をして物議をかもしたことがあった。
これに対し両紙は山野を擁護し、朝鮮人知事・石鎮衡を非難した。
同事件は日・朝の評議員間の軋轢の例として有名であった。

 …後略…

(『若き抗日の群像』佐堀伸三 文芸社 2000年)

光州学生独立運動記念館
今朝の父の一枚です(^^)/

モズのはやにえの不思議」について転記してきましたが
続きは、本を読んでほしいなぁ思います。
最後に気候変動がモズにも影響していることが書かれているので

 これからのはなにえ研究
    気候変動の影響を例に


  最後は、大風呂敷を広げて、この記事を締めくくりたいと思います。
近年、ヒトの工業活動によって、気候が大きく変化しています。
地球温暖化やそれに伴う降水量の増加、工業排気ガスによるオゾン層の崩壊などがニュース番組を騒がせています。
ヒトの活動によって惹き起される地球規模の気候変動は、確実に生物に悪影響を及ぼしています。
しかし、ヒトの工業活動を全面的に停止することはなかなか難しく、まずは、大きな悪影響を受ける生きものを特定して、彼らの生活や生態を優先的に守っていくことが現実的な路線でしょう。
 モズ類は大きな影響を受ける鳥類かもしれません。
彼らのはやにえという行動特性がその原因です。
野外に保管されるはやにえは、腐敗につながる環境条件(気温、降雨量、紫外線など)の影響に常にさらされています。
冒頭の地球温暖化、降水量の増加、紫外線など)の影響に常にさらされています。
冒頭の地球温暖化、降水量の増加、オゾン層の崩壊などがはやにえの腐敗を促進することがあれば、生存と繁殖においてはやにえに大きく依存するモズは大ダメージを受けるかもしれません。
モズ類は肉食性の小鳥であるため、はやにえ自体が腐りやすい動物質で構成されていますし、モズのように長ければ数か月間もはやにを保管する種では、腐敗につながる環境条件の影響の蓄積はますます大きくなるからです。
 日本だけでなく、ヨーロッパや北アメリカで、モズ類の個体数の減少が報告されはじめてしばらく経ちますが、はやにえという側面からモズ類の保全を考えてみることも重要なのかもしれません。
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修 山と渓谷社 2021年)