スイセンの葉がのびてきていました。
来週からは、山のエリアは立ち入り禁止なので花を見ることは……
時々、スイセンをニラと間違えて食中毒をおこしたというニュースを見ます。
「ニラとスイセン(有毒)」(東京都健康安全研究センター)昨夜は、地震があり大阪でも
「石川で震度5弱 関西でも大阪 滋賀 兵庫で震度3」(関西NHK 11月26日)
阪神・淡路大震災の時の震度4でも恐怖を感じたのに
石川の人たちはフラッシュバックが起きたのと違うかな…
まだまだ地震と水害の復興の途上なのに…
来週から工事が始まるのですが、この建物は修復されるのか?撤去されるのか?
通りから外れているので気がつく人はすくないと思うけど…
〝「国際花と緑の博覧会」当時のむさしの山野草園〟(大阪市)兵庫県の知事選挙の投票日、出口調査で
投票先を多くの人がメディアからの情報ではなくネットの情報を参考にしたそうです。
わからないでもないなぁと思う。
以前から私もテレビの情報番組を見なくなった。
時々、病院の待合室で民放の情報番組が流れているのだけど
たまたま見た場面が週刊誌のゴシップ記事みたいな内容で
芸能人などをさらし者にしているようで、見ていると気の毒になる。
何でもありで、如何に興味を引くかに力が注がれているように思えてしまう。
〝「『前代未聞』の兵庫県知事選と『不信』招いたメディアの責任」内田樹〟(AERAdot)
ここまでメディア不信を招いたのはメディアの側の責任である。
これまで筋目の通った、信頼性の高い報道を発信し続けていれば、これほど多くの市民が「メディア不信」を口にするはずがない。 「三島由紀夫に取り憑いた強力な霊」つづき
美輪 でも、私、気になったから、三島さんのところに何度も電話をするわけ。それまで通じないことはなかったのに、全然通じないの。で、「三島さんが、ずいぶん、丸山さんのところに電話をしているらしいよ」ということを共通の友達から聞いたのに、その電話は一度も私に通じなかったんです。
そして、結局、会ったのは一年後。三島さんが死ぬことを覚悟して、最後の別れに日劇に見えたときでした。結局、霊のほうが強かったんですよ。私の力が足りなかったんですね、あのとき。
(『ぴんぽんぱん ふたり話』瀬戸内寂聴 美輪明宏 集英社文庫 2020年)
瀬戸内 一緒に亡くなった森田※という人には霊は憑(つ)いてなかったのですか。美輪 でも、私、気になったから、三島さんのところに何度も電話をするわけ。それまで通じないことはなかったのに、全然通じないの。で、「三島さんが、ずいぶん、丸山さんのところに電話をしているらしいよ」ということを共通の友達から聞いたのに、その電話は一度も私に通じなかったんです。
そして、結局、会ったのは一年後。三島さんが死ぬことを覚悟して、最後の別れに日劇に見えたときでした。結局、霊のほうが強かったんですよ。私の力が足りなかったんですね、あのとき。
(『ぴんぽんぱん ふたり話』瀬戸内寂聴 美輪明宏 集英社文庫 2020年)
美輪 憑いてなかった。森田さんは、前世で三島さんと因縁があった人なんでしょうね。霊というのは、三島さんみたいに純粋な人に取り憑きやすい。あの人とずっとつきあっていて感じたのは、本当に純粋で、幼な児(ご)みたいな魂の持ち主だってことなんです。『日本少年※』とか、『少年倶楽部(クラブ)※』で育った時代なんですよね。少年というのは凜々(りり)しくて、潔く清くて、正しく、優しく、思いやりがあって、親孝行だという『少年倶楽部』の世界そのまま律儀に全部、細胞の中にまでしみこませて、そのまま死んじゃった人なんです。普通、中年になったら、世俗的な手垢(てあか)がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。それに全然染まらなかった不思議な人でした。瀬戸内 私が一番最初に出会ったのは、夫の家を出て、京都で貧乏していたころです。当時勤めていた出版社がつぶれて、京大の付属病院の研究室にいれてもらって、そこでシャーレや試験管を洗ったりして、研究する人の下っぱの仕事をしていたのね。で、そこの服部(はっとり)さんとう偉い先生に「何をしたいのか?」と聞かれたから、「今は生活のためにこんなことをしていますけれど、ほんとうは小説を書きたいんです」と言ったら、図書館で働けるようにしてくれのです。すごく立派な図書館だった。
でも、医者っていうのは全然図書館に来ないから、一日中、暇で暇でしょうがないの(笑)。だから、こんないいことはないと思って、そこで少女小説を書いて、東京の出版社に送ったりしていました。 そのとき、暇だから、初めて三島さんにファンレターを書いたんですよ。そうしたら、三島さんから、「ぼくは返事を出さない主義だが、君の手紙は脳天気でおもしろいから、つい返事を書きたくなった」と意外なことに返事が来たの。それから文通が始まったんですよ。
少女小説を応募するのに名前が必要になって、自分がこしらえた五つの候補を書いて、「どれがいいか選んでください」と、送ったんですよ。で、これがいいと三島さんが二重丸をつけてきたのが、三谷晴美という私の戸籍の名だった。三島の三がついているからかなと思った。美輪 その名で書いた小説が当選したんですね。
瀬戸内 ええ、初めて活字になった『青い花※』という小説です。私はうれしくてしょうがないから、三島さんに報告すると、「名づけ親に原稿料の一部を送るべし」と返事が来た。ピースを買って送りました(笑)。
美輪 あの人は冗談が大好きなんですよ。
瀬戸内 そういうので、とても楽し文通をしてたのね。
立派な家が建つ前のお家、あそこにも行きましたよ。上京したらいらっしゃいと手紙をいただいていて。ちょうど、私の東京女子大の上級生が、三島さんに頼まれて英語の手紙を書いてたんですね。三島さんは、ご自分でも英語は書けるけれど、やっぱりもっと上手な人に書いてもらいたいということだったみたい。で、その上級生が「三島さんとこ行くけれど、行く?」と聞くから、「行く行く」とついてったんですよ(笑)。
美輪 緑が丘のお家※ですね?瀬戸内 そうそう。普通の家ですよ。玄関脇に二畳か三畳の編集者が待つ部屋があって、そこにいれられて待っていたら、近くでトイレを流す男が聞こえてきたのね。そした、痩せて、貧相な男が出てきましたの。書生風の紺絣(こんがすり)の着物を着て、細くて青白いのに、とても濃い脛毛(すねげ)が短い着物の裾から出ていた。ねぎに毛が生えているみたいだった(笑)。
ただ、目が爛々(らんらん)としていて、それはもう、ぞっとうするほどきれいで。
美輪 きれいだったでしょう。赤ちゃんみたいに。瀬戸内 目がきらきら光ってて中で燐(りん)が燃えているようで、私には金色に見えましたよ。暗闇の猫の目みたいに光っていた。これが天才の目かと思いましたね。
姿形は貧相だけれども、目はわぁっというほど美しくて、ほんとうに感動しましたよ。
美輪 それで、眉毛から額にかけて、うぶ毛がそっと生えている。これがまた美しかった。※森田必勝(まさかつ) 楯の会・学生長。1945~70年。市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で自刃(じじん)。
※『日本少年』 最盛期は大正年間で、連載された有本芳水(ありもとほうすい)の少年詩は、当時の少年に愛誦(あいしょう)されたという。
※『少年倶楽部』 大正末期から部数を伸ばし、戦前期には推理小説、空想科学小説を載せるなど新鮮な誌面を作った。戦後は『少年クラブ』となる。
※『青い花』 三谷晴美のペンネームで投稿した少女小説。『少女世界』1950年12月号に掲載、28歳の時であった。はじめて原稿料を手にする。
※緑が丘のお家 三島は、目黒区緑が丘に、1950年8月より、大田区南馬込(みなみまごめ)の新居が完成する59年5月まで暮らした。
(『ぴんぽんぱん ふたり話』瀬戸内寂聴 美輪明宏 集英社文庫 2020年)父の一枚です(^^)/
今朝もジョウビタキ♂を写していたのですが、昨日、メスを写していました。
寒くなりエサが少ない時期、なわばりを守るためには……
ジョウビタキ(ツグミ科→ヒタキ科)
(生活)
この鳥が元気よくヒッヒッカタカタと鳴いているのは、なわばりの宣言だ。
シベリアでの繁殖期のなわばりとは別に、日本の冬を過ごす間、自分の食べ物を維持するためのなわばりをオスもメスも1羽ずつもつ。
春が来れば結婚するかもしれないもの同士でも、冬は互いに容赦しない。
自動車のサイドミラーに映ったわが身ですら激しくライバル視する。
秋冬は木の実をよく食べる。
ツリバナやニシキギなど、赤いだけでほとんど種しかないような実にも来ているが、見ていると何かをポトリと吐き出している。
小さな鳥の場合、消化されない大きめの種子はその場で吐き出すことが多い。
だから、離れた場所で糞と一緒に種をまいてもらおうという植物のおもわく通りにはなかなかならないようだ。
また、実際には、杭の上などから地上を見張っていて、昆虫などをみつけては舞い降りて捕まえるという行動のほうが多い。
1983年に北海道の大雪山麓で5羽のヒナの巣立ちが確認され、日本最初の繁殖記録となった。
しかしその後の繁殖情報は残念ながらなく、やはり冬鳥の代表だ。
ほとんどが夜間に渡ってくると思われるが、昼間,海上を渡っているのを船上から見たことがある。
ゆっくりと船を追い越していき、時速30kmぐらいと思われた。
海面から約2mの高さの懸命な飛翔であった。
(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)