2024年8月30日金曜日

動きが遅いなぁ…

 
今朝は、雨が止んだので出かけました。
山の方をみるとなんか雨が降っているのかな?
それにしても動きが遅いですよね(15時推定 994hPa 東へ10km/h)。
それだけ被害が大きくなるし、遠く離れた地域では大雨の被害がでている…

【台風10号】関東や東海 離れた場所でも記録的な大雨 厳重警戒」(NHK)

ちょっとした疑問…

 台風はどうして左巻き渦なの?

 台風は北半球では左巻き(反時計回り)の渦である。
これは北極を中心としてみると地球が反時計回りに自転しているからだ。
反対に南極を中心としてみると、地球は時計回りに自転しているので、南半球では台風の渦は右巻き(時計回り)になる。
(『お天気キャスター森田さんの天気予報がおもしろくなる108の話』森田正光 PHP 1997年)
 そんなふうに、台風という巨大な空気の渦巻きは、地球の自転の影響で発生する。
本来なら風は、気圧の高いところから低いところへまっすぐに進むはずだが、地球が自転しているために、少しずつ曲げられて渦を巻くようになるのである。
 では、北半球と南半球の境目に当たる赤道上では台風の渦巻きはどうなるのか。
自転の影響力は北極と南極で最大になり、赤道上ではゼロである。
したがって、赤道上では空気は渦を巻かない。
台風はできないのだ。
もちろん、台風が赤道を越えるということもない。
 映画『ゴジラVSモスラ』の冒頭でNASA(米航空宇宙局)の気象担当者が「インドネシア南方近海で台風発生!」と叫ぶシーンがあるが、思わず「いいネタ」と思ってうれしくなってなってしまった。
 インドネシアは赤道直下、台風はできない。
それに、インドネシアから1000キロ以上離れた南海上で発生したとするなら、それは南半球のインド洋だから「サイクロン」という呼び名にすべきである(台風などの熱帯低気圧は、発生場所によって呼び名が違う)。
その場合でも、サイクロンが北に進んでインドネシアにやってくるなどということはありえない。
前述したように、時計回りの渦が、赤道を越えて反時計回りの区域(北半球)へ行くなどということはできないのだ。
したがって明らかに設定ミスである。
 SF(サイエンス・フィクション)は、サイエンスの部分をきちっと、細部にわたって積み上げていかないと、フィクションの部分が生きてこない。
 ところで、北半球の台風の風速分布は、台風の進行方向に向かって右側で強く、左側で弱ってくなっている。
右側で強いのは、台風の進行方向と中心を回る風の力が重なるためである。
逆に左側で弱いのは、台風の進行方向と中心を回る風とがぶつかり合うためである。
 右側を「危険半円」、左側を「可航半円」といって航海などの目安になる。
 ただし、左側が能といっても、台風の中なので危険であることに変わりはない。
右側よりマシ、という比較の問題である。
だから、「可航半円」ではなく、「危険可航半円」といったほうがいいかもしれない。
(『お天気キャスター森田さんの天気予報がおもしろくなる108の話』森田正光 PHP 1997年)
朝ドラ「虎に翼」第22週「女房に惚れてお家繁盛?」 (108)
寅子の言葉
道の開拓ではなく 舗装です

日本評論社法律編集部の投稿(8月29日)

今週の #虎に翼 小ネタ
妊娠した秋山のため、そしてこれからの後輩たちのために、女性法曹の働き方改革に奔走する寅子。
モデルとなった三淵嘉子も、裁判官時代には日本婦人法律家協会の副会長として最高裁宛てに要望書を、退官後も労働省男女平等問題専門家会議の座長として報告書を提出しています。

 画 像 

雇用における男女平等の判断基準の考え方について」(男女平等問題専門家会議 昭和57年5月8日)
第4章 久米愛 ――女性法曹のフロントランナー
 第1節 三つの個性

 女性検事の第二号、佐賀小里――筆者の義母で、今は弁護士である。
昭和22年(1947年)に司法試験に合格した。
彼女は、久米ら三人の若い頃をこう表現する。
 「久米愛さんは、スラックスでつかつかと歩いて来るイメージ。
  三淵嘉子さんは、丸ぽちゃでおしゃべり好きの明るい人。
  中田正子さんは、すらりとした貴婦人タイプ。着物を上品に着ておられた。家庭を大事にされた」
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)
 第二節 足跡

 久米愛――日本の女性法律家のフロントランナーだった。
昭和51年(1976年)7月に、がんで亡くなる(65歳)。
 戦後、女性も社会に出ようという盛り上がりの中で昭和25年(1950年)にできた「日本婦人法律協会」(現在の「日本女性法律家協会」)。
久米は創立から26年間、ずっと会長だった。
亡くなる、その日までである。
 国連総会にも8回、出席した。
政府代表や代表代理だった。
 亡くなる年の2月には、日弁連から最高裁判所の判事に、推薦された。
 ほかに、(後略)
第七節 焼け跡からの動き
  <女性法律家の集まり>


 日本が戦後の混乱から抜け出し、愛の生活も落ち着いた。
愛がアメリカから帰って三カ月後、昭和25年9月に「日本婦人法律家協会」(現在の「日本女性法律家協会」)を作った。
女性の法律家の集まりである。
 現在も裁判官をしている野田愛子は語る(平成22年〔2010年〕6月19日逝去)。
第七節 焼け跡からの動き
  <女性法律家の集まり>


 日本が戦後の混乱から抜け出し、愛の生活も落ち着いた。
愛がアメリカから帰って三カ月後、昭和25年9月に「日本婦人法律家協会」(現在の「日本女性法律家協会」)を作った。
女性の法律家の集まりである。
 現在も裁判官をしている野田愛子は語る(平成22年〔2010年〕6月19日逝去)。

 「当時GHQの法務部にイースタリング女史というアメリカの婦人弁護士がおられまして、(イースタリング女史が、)当時活躍しておられた久米さん、和田(三淵)さん、渡辺道子さんなど日本の婦人法曹全員にアメリカにこういう婦人法律家の会があるが、日本でもつくったらどうかと声をかけて下さったのです。(女史は)ご自分でティーパーティなどして第一回の会合をもうようにして下さいました。それまで日本の婦人法律家達は個人的には改正民法や家庭裁判所の啓蒙活動のため、それぞれ幅広い活動をしていましたが、婦人法律家の会をつくるという共通の目的で、一堂に会したのは初めてだったと思います。皆、女史のおすすめは大変結構だということで、……(中略)……女史のお世話で、当時ベーツ女史が会長しており、本部はアメリカにある国際婦人法律家協会に加盟するということになりました」(「婦人法律家協会会報」19号18頁)
 <オリジナルメンバー>
 
 日本婦人法律家協会(以下、「協会」という)ができたとき、全国で法曹の資格をもった女性は次のとおりだった。

 裁判官 3人、検察官2人、弁護士 10人、合計15人

 協会を作った女性たちは11人。行政官や学者も含んでいた。
 (裁判官三人) 和田嘉子(後に三淵)、石渡満子、野田愛子
 (検察官一人) 門上千恵子
 (弁護士二人) 久米愛、渡辺道子
 (法務省) 西塚静子、渡辺美恵(戦前、高等試験「行政科」の試験をパスした唯一の女性)
 (法律学者) 立石芳枝、人見康子
 (アメリカの弁護士) ヘレン・ラバード
 <会長の座>

 協会の会長に愛が選ばれた。副会長は和田(三淵)嘉子。
愛は以後、死ぬまでの26年間ずっと会長の座にあった。
協会の要だった。
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』佐賀千惠美 日本評論社 2023年)

文官高等試験行政科を突破した女子部卒業生 渡辺美恵」(明治大学)
SNSで相変らず、朝ドラ「虎に翼」は、史実通りでないと批判している方がいますね…
ドキュメンタリーとドラマの区別ができないというよりもわざとケチをつけているように思います。
そのような方は、三島由紀夫の『金閣寺』に描かれた住職の姿を史実通りではないと
作品を否定するのでしょうかね!

日曜論壇 第102回 アナザーストーリーズ」(玄侑宗久公式サイト 2021年12月12日)に
慈海和尚ははたして二人の書いた本を読んだのだろうか。
問われれば「読んでいない」と答え、「勝手にやらしとけよ、あれ(小説家)はあれでメシを食っとるんだ」と言うだけだったらしい。
弟子の不祥事については「私の不徳の致すところ」としか言わず、とうとう何の弁明もしないまま、慈海和尚は一九八五年に遷化された。