やっと工事が終了したようです。
気になるのが台風の動き。
この猛暑で海水温が高く非常に強い台風に成長するかもしれないし
近畿地方を直撃するかも知れない。
そうなると山のエリアが立ち入り禁止になる…
「台風10号 来週 東日本や西日本に近づくおそれ」(NHK)昨日は、循環器内科の診察日でした。
土曜日に事前に受けた血液検査と尿検査の結果を見て
腎機能や肝機能などにコロナの影響はないですねと教えていただきました。
聴診器をあてて心臓の動きも異常ないと言ってもらいました。
ワクチンの接種は、重症化予防で受けています。
インフルエンザもワクチンを受けていても
睡眠不足などで体力が弱っていると発病することがあると思います。
今回、発病したのも危険な暑さの影響があるかなと思っています。今日は二十四節気の「処暑」で暦通りなら…
処暑(しょしょ)
秋の虫が可愛らしく鳴き
優雅に夜を楽しめる頃
厳しい暑さも峠を越えて、朝夕にはさわやかな風が吹き始める頃。
盛夏の頃にはカンカンと差し込んでいた日差しも和らぎ、うだるような暑さから解放されて日ごとに過ごしやすさが増していきます。
夜にはすずむしの鳴き声も響き、秋の訪れを耳でも感じる季節です。
鈴虫は平安時代の貴族たちにも愛されていたことで知られ、カゴに入れて美しい鳴き声を鑑賞していました。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年) 春に種をまいた穀物がたわわに実る時季ですが、台風の被害を受けやすいシーズンでもあります。
立春から数えて二百十日(9月1日頃)は、台風襲来の特異日として暦にも記されています。
台風は毎年、7月頃から発生するのですが、現在でもこの時期が台風シーズンと呼ばれる理由は、9月になると太平洋高気圧の勢力が収まることで日本に台風が接近し、そのまま上陸する確率が増えるからだそうです。
草花も季節の移ろいに合わせて花の種類が変化する頃。
大輪を咲かせる芙蓉の花が見頃を迎え、秋の七草のひとつ、萩の花もピンク色の可憐な花を咲かせます。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
台風だけが暦通りになりそうですね…川端康成や三島由紀夫などが夢中になった舞姫がいます。
半島の舞姫
「生きているかも知れません」
先日、韓国のソウルから帰ってきた知人から電話があった。
「えッ! どこで……」
「スイス」
ほんとうなら、これはビッグニュースである。
「崔承喜」――この人のことを、ここ十年あまり追跡していたのだ。
若い人たちは知らないだろうが、昭和のはじめ、彼女は半島の舞姫として、日本中はもちろん、欧米までも熱狂させた、まさに世紀のダンサーである。
たぶん一世紀に一人の踊り手だと思う崔承喜を、ボクはミュージカルにしたいと考えて、ずっと調べていたのだ。
(『花へんろ風信帖』早坂暁 新潮社 1998年) 名前でわかるとおり、彼女は朝鮮半島出身の女性だが、彼女が生まれたころは日韓併合――実は侵略なのだが――で、日本人とされていた。
京城生まれの崔承喜は、東京の石井漠舞踊団に入った。モダンダンスである。
折りから大正天皇が没して、その葬列列車が武蔵境にあった石井漠舞踊団のそばを通過することになった。
石井舞踊団は全員、線路わきにならんで、頭を下げて送ることになる。
崔承喜は背中を向けて立っている。
「頭を下げなさい」
といわれて、通過する葬列列車に背を向けたまま、頭を下げたというのだ。
どうしても日本の天皇に頭を下げる気になれないと、泣いたそうである。 石井漠舞踊団を出て独立してからの活躍はめざましい。
帝劇、日劇という東京の大劇場をたった一人の舞踊で二十日間も満員にした。
この二つの劇場では空前にして絶後の記録だった。
当時、日劇で舞台裏のアルバイトをしていた森繁久彌さんは、運よく崔承喜の公演に出くわしている。
聞けば、地下にあった女性専用の楽屋風呂あたりは、劇場関係の男たちが群れをなして、つめかけたそうだ。
森繁さんはその連中を追っぱらう役であったのか、またその一人であったのかは聞きもらした。 川端康成さんも崔承喜に熱中した組で、崔承喜礼讃論を書いたり、訪問記をひきうけてわざわざ会いに行ったりもしている。
三島由紀夫さんの「わが思春期」には、ちゃんと崔承喜のことが書いてある。
帝劇のリサイタルの出かけて行って、ポートレートを手に入れたのだが、
……その写真が非常にエロチックに思はれて、彼女の半裸のからだが、わづかな宝石で飾られた布でおほはれてゐるのを、飽かず眺めたものです。(中略)今の全裸のストリッパーよりも、よほどエロチックな姿であつたやうに思ひます。
とある。
ま、当時の日本の男性たちを魅了する素晴らしい肉体と、舞踏の天性に恵まれた女性であったことは間違いない。
ボクは生まれてくるのが少し遅れたので、彼女の踊りを見たことはない。
舞踏の写真はあるのだが、実際の踊りを見ないでは、はじまらない。 たった一度だけ、崔承喜は映画に出演している。
昭和十年ころに、今日出海さんの監督で『半島の舞姫』という映画に出演しているのだ。
今日出海さんは当時直木三十五プロダクションにゴロゴロしていたそうで、「どうだ、一本映画を撮ってみろ」というので、監督をすることになった。
ずいぶん乱暴な話だが、人気絶頂の崔承喜が画面に出るだけで客は来るだろうと考えていたようだ。
当時、東京九段に住んでいた崔承喜は、映画出演の依頼にきた今日出海が、一本も映画を撮ってこともない監督だとも知らず、出演をOKした。 大泉の撮影所でカメラを廻わしはじめたが、今日出海さんは、カットをどう積みかさねて撮るのか見当もつかない。
それで新宿の洋画館に出かけて行き、アメリカ映画を見ては、ハハァ、あのように撮るんだなと、撮影所にとってかえし、ハイ、カメラ廻わしますと続きを撮った。
これは今日出海さんの思い出話に、ちゃんと書いてある。
こうして、とにもかくにも映画『半島の舞姫』は完成しているのだ。
さっそく映画館にかけられたが、あまりのデキの悪さに、三日間で打ち切っている。 しかし、『半島の舞姫』は少なくとも崔承喜が踊るシーンが三ヵ所ある。
映画のデキは悪くとも、舞踏のシーンは正面撮りで几帳面に撮影されているはずだから、『半島の舞姫』を見れば彼女の舞踏の様子がわかるのだ。
ところが、『半島の舞姫』はよほどデキが悪かったのか、どこにも保存されて残っていない。
一度、関西のフィルム蒐集家が持っているというので、喜びいさんで駈けつけてみたら、あるにはあったが保存状態が悪く、ボロボロのフィルムでリールにかからない。
光にすかしてみてもフィルム自体が変色していた。「三分ぐらいのものでよかったら」と、東京の朝鮮民族舞踊家から連絡があった。
ばんざい!――ビルの地下にある舞踊スタジオでボクは崔承喜の舞踏を見ることができたのだ。
しかし、ほんとうに三分の舞踏シーンで、それもコマ切れである。
それも当然、実はスチール撮影のために、どんな動きをするのかを、あらかじめフィルムに収めたという資料フィルムである。
そんな資料フィルムでも崔承喜の舞踏は素晴らしく、薄物の衣裳をつけた彼女は、三島由紀夫さんではないが、全裸の踊り手よりも、よほどエロチックだった。 崔承喜は昭和十年代の数年をアメリカ、ヨーロッパ、南米を舞台に過ごし、日本人ダンサーとして大きな評判を呼んだが、戦争が終って、朝鮮半島が二つの独立国として復活すると、彼女は〝南〟の出身だったけれど、夫の安漠について、〝北〟へ帰った。
崔承喜が北朝鮮の芸術家のシンボルとして活躍した時間はどれほどだったのだろう。
北京に舞踏研究所をひらいたころは千田是也さんなど、日本の新劇俳優や舞踏家がしばしば訪問している。
千田是也さんは、幻の映画『半島の舞姫』で崔承喜の恩師の役を演じているのだ。 その後、文部次官みたいな地位についていた夫安漠さんは、ピストルで頭を撃ち抜かれて死んだとか、不穏で不確かな情報が乱れとぶなかで、崔承喜もぷっつりと消息を断ったのだ。
スイスで生きているかもしれないとすれば、ぜひ会いに行ってミュージカル「崔承喜」の許可と、空白のあいだの情報をもらいたいのだ。
生きているとすれば、九十歳に近いはずだ。
杉村春子さんのことを考えれば、少しも不思議はない。
どうか、こんどは映画みたいなヘマはしませんから、あなたのミュージカルをつくらせて下さい。
(『花へんろ風信帖』早坂暁 新潮社 1998年)
「崔承喜」、「薩埵菩薩」などのキーワードで検索すると画像を見ることができると思います。今朝の父の一枚です(^^)/
ざくろ(石榴、柘榴/英 pomegranate )
ザクロ科の落葉高木。
原産地はペルシアで、ふるくから栽培される。
中国では、2世紀の漢代に、西域の安石国(現在のイラン地方)から、張騫(ちょうけん)がもたらし、安石榴(アンシリュウ あんせきりゅう)と呼ばれる。
日本には、中国から伝えられ、鎌倉期に、栽培されたとする説がある。
ハナザクロは観賞用に、ミザクロは薬食用になる。
ザクロは、種子が多いので、繁殖と豊かさの象徴とされる。
数多くの種子が、隔壁にそって配列する。
このことから、鬼子母神伝説が生まれる。
鬼子母神は、訶利帝母(かりていも)と呼ばれ、1万人の子があるのに、他人の子を取って食う。
釈迦の教えにより改心すると、人の子の代わりにザクロが与えられたという。
この伝承から、ザクロの実は、人肉の味がするとされる。
一茶の句に、「わが味のざくろに這はす虱(しらみ)かな」とある。
庭木としては好まれず、宅地にはあまりみかけない。
果汁は、転化糖のほかに、クエン酸・リンゴ酸・ビタミンCを含む。
また、薬用として、咽喉(いんこう)カタル・扁桃腺炎・駆虫・下痢止め・口臭除去に効果がある。
(『たべもの起源事典 日本編』岡田哲 ちくま学芸文庫 2013年)
近畿地方を直撃するかも知れない。
そうなると山のエリアが立ち入り禁止になる…
「台風10号 来週 東日本や西日本に近づくおそれ」(NHK)昨日は、循環器内科の診察日でした。
土曜日に事前に受けた血液検査と尿検査の結果を見て
腎機能や肝機能などにコロナの影響はないですねと教えていただきました。
聴診器をあてて心臓の動きも異常ないと言ってもらいました。
ワクチンの接種は、重症化予防で受けています。
インフルエンザもワクチンを受けていても
睡眠不足などで体力が弱っていると発病することがあると思います。
今回、発病したのも危険な暑さの影響があるかなと思っています。今日は二十四節気の「処暑」で暦通りなら…
処暑(しょしょ)
秋の虫が可愛らしく鳴き
優雅に夜を楽しめる頃
厳しい暑さも峠を越えて、朝夕にはさわやかな風が吹き始める頃。
盛夏の頃にはカンカンと差し込んでいた日差しも和らぎ、うだるような暑さから解放されて日ごとに過ごしやすさが増していきます。
夜にはすずむしの鳴き声も響き、秋の訪れを耳でも感じる季節です。
鈴虫は平安時代の貴族たちにも愛されていたことで知られ、カゴに入れて美しい鳴き声を鑑賞していました。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年) 春に種をまいた穀物がたわわに実る時季ですが、台風の被害を受けやすいシーズンでもあります。
立春から数えて二百十日(9月1日頃)は、台風襲来の特異日として暦にも記されています。
台風は毎年、7月頃から発生するのですが、現在でもこの時期が台風シーズンと呼ばれる理由は、9月になると太平洋高気圧の勢力が収まることで日本に台風が接近し、そのまま上陸する確率が増えるからだそうです。
草花も季節の移ろいに合わせて花の種類が変化する頃。
大輪を咲かせる芙蓉の花が見頃を迎え、秋の七草のひとつ、萩の花もピンク色の可憐な花を咲かせます。
(『美し日本の旧暦 二十四節気・七十二候』マガジンハウス編 2017年)
台風だけが暦通りになりそうですね…川端康成や三島由紀夫などが夢中になった舞姫がいます。
半島の舞姫
「生きているかも知れません」
先日、韓国のソウルから帰ってきた知人から電話があった。
「えッ! どこで……」
「スイス」
ほんとうなら、これはビッグニュースである。
「崔承喜」――この人のことを、ここ十年あまり追跡していたのだ。
若い人たちは知らないだろうが、昭和のはじめ、彼女は半島の舞姫として、日本中はもちろん、欧米までも熱狂させた、まさに世紀のダンサーである。
たぶん一世紀に一人の踊り手だと思う崔承喜を、ボクはミュージカルにしたいと考えて、ずっと調べていたのだ。
(『花へんろ風信帖』早坂暁 新潮社 1998年) 名前でわかるとおり、彼女は朝鮮半島出身の女性だが、彼女が生まれたころは日韓併合――実は侵略なのだが――で、日本人とされていた。
京城生まれの崔承喜は、東京の石井漠舞踊団に入った。モダンダンスである。
折りから大正天皇が没して、その葬列列車が武蔵境にあった石井漠舞踊団のそばを通過することになった。
石井舞踊団は全員、線路わきにならんで、頭を下げて送ることになる。
崔承喜は背中を向けて立っている。
「頭を下げなさい」
といわれて、通過する葬列列車に背を向けたまま、頭を下げたというのだ。
どうしても日本の天皇に頭を下げる気になれないと、泣いたそうである。 石井漠舞踊団を出て独立してからの活躍はめざましい。
帝劇、日劇という東京の大劇場をたった一人の舞踊で二十日間も満員にした。
この二つの劇場では空前にして絶後の記録だった。
当時、日劇で舞台裏のアルバイトをしていた森繁久彌さんは、運よく崔承喜の公演に出くわしている。
聞けば、地下にあった女性専用の楽屋風呂あたりは、劇場関係の男たちが群れをなして、つめかけたそうだ。
森繁さんはその連中を追っぱらう役であったのか、またその一人であったのかは聞きもらした。 川端康成さんも崔承喜に熱中した組で、崔承喜礼讃論を書いたり、訪問記をひきうけてわざわざ会いに行ったりもしている。
三島由紀夫さんの「わが思春期」には、ちゃんと崔承喜のことが書いてある。
帝劇のリサイタルの出かけて行って、ポートレートを手に入れたのだが、
……その写真が非常にエロチックに思はれて、彼女の半裸のからだが、わづかな宝石で飾られた布でおほはれてゐるのを、飽かず眺めたものです。(中略)今の全裸のストリッパーよりも、よほどエロチックな姿であつたやうに思ひます。
とある。
ま、当時の日本の男性たちを魅了する素晴らしい肉体と、舞踏の天性に恵まれた女性であったことは間違いない。
ボクは生まれてくるのが少し遅れたので、彼女の踊りを見たことはない。
舞踏の写真はあるのだが、実際の踊りを見ないでは、はじまらない。 たった一度だけ、崔承喜は映画に出演している。
昭和十年ころに、今日出海さんの監督で『半島の舞姫』という映画に出演しているのだ。
今日出海さんは当時直木三十五プロダクションにゴロゴロしていたそうで、「どうだ、一本映画を撮ってみろ」というので、監督をすることになった。
ずいぶん乱暴な話だが、人気絶頂の崔承喜が画面に出るだけで客は来るだろうと考えていたようだ。
当時、東京九段に住んでいた崔承喜は、映画出演の依頼にきた今日出海が、一本も映画を撮ってこともない監督だとも知らず、出演をOKした。 大泉の撮影所でカメラを廻わしはじめたが、今日出海さんは、カットをどう積みかさねて撮るのか見当もつかない。
それで新宿の洋画館に出かけて行き、アメリカ映画を見ては、ハハァ、あのように撮るんだなと、撮影所にとってかえし、ハイ、カメラ廻わしますと続きを撮った。
これは今日出海さんの思い出話に、ちゃんと書いてある。
こうして、とにもかくにも映画『半島の舞姫』は完成しているのだ。
さっそく映画館にかけられたが、あまりのデキの悪さに、三日間で打ち切っている。 しかし、『半島の舞姫』は少なくとも崔承喜が踊るシーンが三ヵ所ある。
映画のデキは悪くとも、舞踏のシーンは正面撮りで几帳面に撮影されているはずだから、『半島の舞姫』を見れば彼女の舞踏の様子がわかるのだ。
ところが、『半島の舞姫』はよほどデキが悪かったのか、どこにも保存されて残っていない。
一度、関西のフィルム蒐集家が持っているというので、喜びいさんで駈けつけてみたら、あるにはあったが保存状態が悪く、ボロボロのフィルムでリールにかからない。
光にすかしてみてもフィルム自体が変色していた。「三分ぐらいのものでよかったら」と、東京の朝鮮民族舞踊家から連絡があった。
ばんざい!――ビルの地下にある舞踊スタジオでボクは崔承喜の舞踏を見ることができたのだ。
しかし、ほんとうに三分の舞踏シーンで、それもコマ切れである。
それも当然、実はスチール撮影のために、どんな動きをするのかを、あらかじめフィルムに収めたという資料フィルムである。
そんな資料フィルムでも崔承喜の舞踏は素晴らしく、薄物の衣裳をつけた彼女は、三島由紀夫さんではないが、全裸の踊り手よりも、よほどエロチックだった。 崔承喜は昭和十年代の数年をアメリカ、ヨーロッパ、南米を舞台に過ごし、日本人ダンサーとして大きな評判を呼んだが、戦争が終って、朝鮮半島が二つの独立国として復活すると、彼女は〝南〟の出身だったけれど、夫の安漠について、〝北〟へ帰った。
崔承喜が北朝鮮の芸術家のシンボルとして活躍した時間はどれほどだったのだろう。
北京に舞踏研究所をひらいたころは千田是也さんなど、日本の新劇俳優や舞踏家がしばしば訪問している。
千田是也さんは、幻の映画『半島の舞姫』で崔承喜の恩師の役を演じているのだ。 その後、文部次官みたいな地位についていた夫安漠さんは、ピストルで頭を撃ち抜かれて死んだとか、不穏で不確かな情報が乱れとぶなかで、崔承喜もぷっつりと消息を断ったのだ。
スイスで生きているかもしれないとすれば、ぜひ会いに行ってミュージカル「崔承喜」の許可と、空白のあいだの情報をもらいたいのだ。
生きているとすれば、九十歳に近いはずだ。
杉村春子さんのことを考えれば、少しも不思議はない。
どうか、こんどは映画みたいなヘマはしませんから、あなたのミュージカルをつくらせて下さい。
(『花へんろ風信帖』早坂暁 新潮社 1998年)
「崔承喜」、「薩埵菩薩」などのキーワードで検索すると画像を見ることができると思います。今朝の父の一枚です(^^)/
ざくろ(石榴、柘榴/英 pomegranate )
ザクロ科の落葉高木。
原産地はペルシアで、ふるくから栽培される。
中国では、2世紀の漢代に、西域の安石国(現在のイラン地方)から、張騫(ちょうけん)がもたらし、安石榴(アンシリュウ あんせきりゅう)と呼ばれる。
日本には、中国から伝えられ、鎌倉期に、栽培されたとする説がある。
ハナザクロは観賞用に、ミザクロは薬食用になる。
ザクロは、種子が多いので、繁殖と豊かさの象徴とされる。
数多くの種子が、隔壁にそって配列する。
このことから、鬼子母神伝説が生まれる。
鬼子母神は、訶利帝母(かりていも)と呼ばれ、1万人の子があるのに、他人の子を取って食う。
釈迦の教えにより改心すると、人の子の代わりにザクロが与えられたという。
この伝承から、ザクロの実は、人肉の味がするとされる。
一茶の句に、「わが味のざくろに這はす虱(しらみ)かな」とある。
庭木としては好まれず、宅地にはあまりみかけない。
果汁は、転化糖のほかに、クエン酸・リンゴ酸・ビタミンCを含む。
また、薬用として、咽喉(いんこう)カタル・扁桃腺炎・駆虫・下痢止め・口臭除去に効果がある。
(『たべもの起源事典 日本編』岡田哲 ちくま学芸文庫 2013年)