2024年8月9日金曜日

長崎平和祈念の日

1週間ぶりのリハビリ散歩です。
猛暑の中を歩くのは、まだ体調がいまいちなので…
体を慣らすためにいつもの距離の半分程度にしました。
タイサンボクが咲いていたのにビックリです!

南海トラフ地震臨時情報」(NHK)
高校のクラスのラインに
自分たちは覚悟しているけど、孫たちのことを考えると……
長崎で被爆された
わたくし95歳さんの投稿(8月6日)

両親と小学生の弟3人は、私ひとりで火葬した。
集めた瓦礫の上にトタンを乗せ、そこに家族を並べた。
両手に、炭のようになった家族とその血のりが、べっとりとついた。
「私に残されたものはこれだけ」、両手両腕に何度も擦り付けた。
燻った瓦礫は直ぐに勢い良く燃え始めた。
涙は出なかった。
平和祈念式典への対応が広島と長崎で分かれましたが
広島と長崎の対応を支持します。
広島はイスラエルを招待して

広島 湯崎知事「核廃絶 人類存続に差し迫った問題」

 …前略…

現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。
国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。
それが弥生の過去から続いている現実です。


…後略…
令和6年 長崎平和宣言」(長崎市)

23歳で被爆し、原爆症と闘いながらも原爆の悲惨さを訴えた長崎の詩人・福田須磨子さんが綴った詩」が紹介されています。

ロシアのウクライナ侵攻に終わりが見えず、中東での武力紛争の拡大が懸念される中、これまで守られてきた重要な規範が失われるかもしれない。私たちはそんな危機的な事態に直面しているのです。 

長崎市がイスラエルを招待しなかったことに欧米が抗議して
長崎 平和祈念式典に米駐日大使欠席へ イスラエル不招待受け」(NHK 8月7日)

イスラエルは欧米から支持されていると確信しているので、ガザ地区での殺戮はいつまでも続く。
 永井隆「長崎の鐘」

 五歳の茅乃が独り喋っているのがきこえる。出て見ると吹きさらしの焼跡の石の上に、瓶や皿や鏡のかけらなどを並べ、人形の首を相手にままごとをしている。友達はみんな死んでしまった。
 「茅ちゃんのおうちは大きかったわね。二階があったねえ。母ちゃんがいたね。お饅頭つくって茅ちゃんにたべさせたわねえ。お布団の中で寝たよ。電灯もついたねえ」

  (初出は1949年。引用は「昭和戦争文学全集」第13巻、191頁、集英社

(『借家と持ち家の文学史 「私」のうつわの物語』西川祐子 三省堂 1998年)
 1945年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾投下。
8月9日午前11時2分(10時58分を訂正)、第二の原爆、長崎市に投下(*)
 永井隆の「長崎の鐘」は、原子爆弾の被爆体験の記録としては、もっとも早く出版され、広く読まれた本の一つである。
熱心なカトリック信者であった永井隆は、長崎医大病院放射線科の医者として勤務中に被爆した。
妻は家の台所のあった場所で骨となって発見された。
その日たまたま長崎の外にいた二人の子どもは助かり、父と子は焼け跡の小屋で生活をしている。
永井隆は病床にふせっており、ままごと遊びをする幼女のつぶやきを目をつむって聞いていると、かつての「わが家庭生活が龍宮のように鮮やかである」とある。
 引用は現代かなづかいの版からしたが、初版には旧かながまじっていた。
戦後四年の当時、わたしはまだ京都に帰っておらず、疎開先の村の小学校に通っていた。
京都から祖父が送ってくれた小包の中に、この本や、同じ著者の「この子残して」入っていたようにおもう。
古い本のページは年月のせいで赤茶けており、手にとると崩れそうだった。
 永井隆は放射線医学の専門家であったから、原子爆弾の被害の範囲や人体におよぼす影響の分析は明快で、小学生にとってもまるで科学読み物のようにわかりやすかった。
しかし、長崎に原爆が投下されたのは天主の意志であって、死んだ人々は選ばれた幸運は人々だという書き方にはついてゆけなかった。
子どものときのわたしはとにかく死ぬことが恐ろしかったのである。
 それに古い本は前半部に「長崎の鐘」がおさめられ、後半部には連合軍総司令部諜報課が提供した戦争中のフィリピン、マニラ市における日本軍の住民虐殺事件の証言集「特別付録・マニラの悲劇」がおさめられていた。
占領下では、アメリカ軍の原爆投下による被爆の記録は、日本軍の虐殺行為の記録と抱き合わせでなければ出版することができなかった。
前半にも後半にも、死体がるいるいと横たわる写真がついていてこわかった。
 読み返すと、「この子残して」の中に、焼け跡で永井隆と小学校の高学年の長男がこんな議論をしているところがあった。
物資が不足して奪い合いになって戦争がおこるのだから人口制限が必要ではないのか、と子が問う。
カトリック教徒である父は産児制限は殺人であって、天の父なる神は「産めよ、殖やせよ、地に満てよ」といったのだから、人間が生きてゆくために必要なものは用意されているはずだと答える。
子はげんに物資は欠乏しているではないか、と反論。
では知恵を働かして新しい資源を探さねばならない……それが原子力だという答えを発したのち、父と子は興奮して沈黙してしまう。
 焼け跡には絶望と希望があった。
人を産んでしまった人間は、どんなに多くの死をみた後にも、自分の子が生きているかぎり絶望にふれることはしないものなのだろうか。
だが原子力の平和利用で人間が地に満ち満ちたその先に、ふたたび戦争がはじまらないという保証は戦後五十年の今も、どこにもない。
わたしは家庭の戦争被害の記録を読めば読むほどに、家庭の戦争責任が気になってしかたがない。
*) わたしは新聞連載のとき、年表を調べて投下は10時58分と書いた。連載の読者から、長崎の小学校では毎年8月9日11時2分に黙禱していた、時刻が違うと指摘された。この差は何だろう。わたしが写した時刻はアメリカ機の原爆投下時刻だったのではないか。11時2分が地上で原子爆弾が爆発した時刻なのであろう。(…後略…)
(『借家と持ち家の文学史 「私」のうつわの物語』西川祐子 三省堂 1998年)

増補 借家と持ち家の文学史 「私」のうつわの物語』(平凡社ライブラリー)
今朝の父の一枚です(^^)/

 ザクロ
  黒袍の染色


 ザクロは食用にも供されました。
平安後期の『執政所抄(しっせいしょしょう)』には、正月十五日の小豆粥のとき、各種の野菜や果物と共にザクロが出されたことが記されます。
『厨事類記(ちゅうじるいき)』には「ザクロは皮を剝(む)いて盛る」とあります。
 そしてまた、ザクロが黒の染色に使われたことが室町後期の『桃花蘂葉(とうかずいよう)』に記載されています。
当時の黒はお歯黒と同じ「附子金(ふしかね)」染めが主流でしたが非常に臭く、職人が工夫して蘇芳(すおう)で赤く染めた上にヌルデで染色する方法を考えました。
そしてヌルデがなければ、ザクロの皮を代用しても良いとしているのです。
確かにザクロの果皮にはタンニンが豊富に含まれていますので、黒の染色は可能であったと思われます。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)