2024年8月20日火曜日

小雨になりました

雨が降っていたけど明日、診察日なのででかけました。
歩いている途中で小雨になりました。
雨が降るとカタツムリに出会えます。
これから台風9号の影響もでてくるかな?

北~西日本 大気不安定 非常に激しい雨のおそれ 落雷など注意」(NHK)
【連続テレビ小説】虎に翼 第21週「貞女は二夫に見えず?」(102)

戸塚純貴さんが「轟太一」を演じるにあたって内面は三島由紀夫と言われたそうです。
そのとたん腑に落ちたとインタビューで答えられていました。
三島由紀夫の『仮面の告白』は、読んでいないけど…
大学時代の友人が三島由紀夫を愛読していた。

情熱大陸に登場した松井秀太郎さんがジェンダーに苦しんでいた中学生の頃
学校に行けなくなった秀太郎さんを祖父母があるがままに受け入れてくれたそうです。
ヤギの「こめこ」も追いつめられていた心をほぐしてくれたそうです。
ドラマの冒頭、「夫婦になれば どちらかの名字が変わる」という
結婚に伴う姓の問題がでてきていましたね。
明治時代に民法ができるまでは、夫婦別姓だった。
藤原定子、藤原彰子、北条政子、日野富子などなど
夫婦別姓に反対する人は家族関係が壊れるとか
日本の伝統にそぐわないと言っていますが
日本史を学んできたはずなのにと思いますよ!
 女の相続―生活の記録10
  姉家督

 女の地位が男より低く見られるようになった理由は、女の生理に関することばかりでなく、結婚によって女が生家をはなれ他家にはいることにもあるかと思う。
日本ではそれぞれの家を大切にしてきた。
家は多くの場合男がつぐ、妻は他家からはいって来る。
いわば他処(よそ)者なのである。
そういうことからほんとうのその家にものになるまで、子を産み、さらにその家の主婦になるまでは婚家でもそれほど大切に取り扱うことはなかった。
主婦になるまでは修業と心得て、その家の家風になれるように努力したのである。
(『女の民俗誌』宮本常一 岩波現代文庫 2001年)
 しかしよくよく調べてみると、家に男の子があっても、その子は他家に出し、女の子に婿を迎えてあとをつがせるという風習も各地にあった。
明治13(1880)年に刊行された『全国民事慣例類集』を見ていると、茨城県新治(にいはり)郡では男女にかぎらず、さきに生まれたものが相続する風習があったというから、最初に生まれたものが女であれば女があとをとり、婿を迎えることになる。
また岩手県胆沢(いざわ)郡では、農家に長女があれば婿を迎えて相続させるのを例としている、とあり、山形県では家産相続は男女にかかわらず初生のものが行ない、もし長子が若死にしたときは男女にかかわらず、第二、第三と順にしたがってあとをつぐ。
同県の田川(たがわ)郡では農家に男子があっても長女があれば婿養子を迎えて相続させるとある。
 土地によって少しずつのニュアンスの差はあるが、関東北部から奥羽地方にかけては女にも相続の権利のあったことがわかる。
女にもというよりは男女の区別がなかったというのが妥当であろう。
このような相続形式をさらにくわしく調べてみると、奥羽山脈にそって、その両側の山麓地帯、県にして岩手・秋田・山形・宮城・福島・茨城にわたってかなりひろく分布をしていたもののようである。
一ばん上が女であればかならずあとをとることになるので、この相続形式を姉家督(あねかとく)ともいった。
そしてそのような相続形式の生まれたのは労働力確保のためだといわれている。
自給を中心にした生活をたてていると、どうしても多くの労力を必要とし、どの家でもできるだけ早く跡取りをつくるようにする。
昔は早婚であったというのもそのためであった。
 しかし理由はただそれだけではなかったようである。
私は昭和30(1955)年ごろ、宮城県栗原(くりはら)郡栗駒(くりこま)町へ調査にいったことがある。
そこのある部落は同姓のもののみでかためられている。
家の数は24戸ある。
その部落の本家といわれる家の系図や過去帳などによって調べてみると、24戸はすべて本家から分かれた家である。
その家がそこにおちついたのは近世初期のことで、初めは武士として勢力のある家であったが、このあたりを伊達政宗が支配するようになってから帰農した。
しかし由緒のある家であったから、この地にあった番所の役人を兼ねた。
 この家の系図を見ると、本家は長男相続になっている。
途中婿養子が二人ほどはいっているが、これは男の子がなかったためであった。
ところが分家の方を見るとすべて女系なのである。
まず一の分家は本家の長女が婿をもらって分家している。
そしてそれ以後女の子がすべてあとをとり、男は婿に出ている。
分家もまた同様で、女きょうだいがあるとき、妹に婿を迎えて分家させているのである。
男を分家させるとか、男にあとをとらせるということは系図にあらわれたかぎりでは出てこない。
 ただし昭和にはいると男が家にいて嫁をもらう風習がおこってくる。
このような婚姻相続の様式はこの家のみではなくて、このあたりにひろく見られたもので、村人たちはそれをあたりまえのこととして生活してきたのである。
するとこれはもはや姉家督というようなものではない。
一種の女系家族のようものであるが、法律の関係から戸主は男になっている。
ずっと昔はどうであっただろうかと思ってきいてみたけれどもよくわからなかった。
 ただ興をおぼえたのはその本家にとめてもらったときのことである。
イロリの火をかこんで、私は年をとった主人からあれこれといろいろの話をきいた。
実に人のよい、よくいう好々爺(こうこうや)で、私のきくことについてはいちいち答えてくれるが、無駄口の全然ない人である。
夕方から話をききはじめて10時すぎまでの間にお茶を一ぱい出されただけで、話をしていたのであるが、
 「よくこういう家へたずねていくと、ワッカの出るものだが……」
 と私が口をすべらすと、それまでほとんど口をきかないで、黙ってカカ座にすわって私の方を時折チラリと見てはまたイロリの火を見つめていたおばあさんが、
 「何だい、それがほしかったのかい、早くいわんものだから」
 といっていそいそと立ち上がった。
ワッカというのはアイヌ語で水のことであるが、東北ではドブロクの隠語にしているところが少なくない。
おばあさんは初め私は役人か何ぞのように思ったらしい。
家の暮らし向きのことをこまごまときくものだから警戒していたのであるが、そのうちにあやしいものではないということがわかってきた。
 さてお酒が出ると、酒の肴(さかな)にキノコの漬け物や魚の干物などが次々に出されてくる。
それからはまったくおばあさんの天下である。
家の系図や過去帳、その他の記録の出てきたのもそれからである。
そういうものはすべておばあさんの管理下にある。
それまでおじいさんがこの家の中心的存在だと思っていたのが実は逆であった。
そしてそれからはおばあさんがすべて話の相手になってしまった。
そしてとうとう東の空が白むころまで話がつづいたのである。
系図を見るとおばあさんは家付きの娘であり、おじいさんは婿に来た人であった。
おじいさんは婿に来て50年になるが、肩身のせまい思いで生きつづけてきていた。
(「婦人百科」昭和45年1月)
(『女の民俗誌』宮本常一 岩波現代文庫 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)/

 マコモ
 五月五日の粽
(ちまき)に「蔣」

『延喜式』(典楽式)には「五月五日に菖蒲と生蔣を調進する」とあります。
この「蔣」がマコモのことです。
(大膳式)には「五月五日節に作る粽用に、新鮮な青蔣十一圍と生糸三両一銖を臨時購入する」とあります。
このことで平安時代の粽はマコモで包み、生糸で巻いていたことがわかります。
(『有職植物図鑑』八條忠基 平凡社 2022年)